Trèsor――Ⅳ(1)
翌日の昼休み。
何とはなしに足を向けた北校舎裏には、塚本一人が腰を落ちつけていた。
近付いていく翔に気付くなり、例によってたばこを咥えながら、表情の乏しい彼にしては珍しくわずかに驚いた目を向けてきた。
「あれ……翔まだ来んのか」
「は? 何だよそれ」
邪険にされたようでやや憮然としまう。……が。
そういえばここに来るのも久しぶりかもしれない。
月が替わってからは初めてだったっけか、と痛む顎をさすりながら前回のここでの記憶を呼び覚まそうとする。
「また痛めつけられてんのか。やっぱり女か……。本当にそのうち刺されるんじゃねえか?」
「ちげーよ……なんでそう……」
くっくっと喉を鳴らすように笑う塚本をげんなりしながら睨みつける。
おまえまでそれを言うのか、と。
打たれた顎も筋肉痛の体も痛むは痛むが、前回に比べるとかなりマシだ。
実はあれ以来、ケンジのアドバイス通り日に三セットの『自主トレーニングもどき』は続けている。その成果なのかもしれない。
いつの間にか、ちょっとやそっとではヘタらないしっかりとした身体がつくられていたのか。彼に言わせるとまだまだ『もやしランク』らしいが。
「吸うか?」
ったくジジイめ……とため息を吐きながら塚本の隣にしゃがみ込むと、礼儀とばかりにタバコの箱が向けられた。
「あー……や。やめとく」
気遣いはありがたいが……とやや申し訳なく思っていると、「だろーな」と一瞬横目で笑われ、あっさりと箱が引っ込められた。
本当にただの礼儀だったらしい。
唖然と隣の顔を見ていると、切れ長の目をさらに細めて塚本は笑った。
「ついでに、ここに来んのもやめろよ?」
「え」
「そろそろヤベェんじゃねえ?」
塚本が何を言いたいのかわからず、気付けばさらに「え?」と繰り返していた。
「ヤベェと思うぞ翔。いくら成績良くても、さすがに担任カン付き始めたっぽくねえ? 何か変だ、ってよ」
「――」
この無表情で無口な男がいつになく饒舌だと思ったのは気のせいだろうか。
「親呼び出しくらう前に元に戻ったほうがいいんじゃね?」
「……それ言うなら、塚本だって……」
「俺はもともとこっち側だもんよ。誰が気にすんだよ」
……いや、気のせいではない。
鼻で笑いすでに目線も逸らされているものの、やはり彼なりに心配してくれているということなのだろう。
前回、ここに迷い込んだあの女生徒たちの前で、急に仲間ではない素振りをされて自分だけ追い払われたのも、やはりそういうことだったのだ。
滅多に物事に執着せず何ごとにも無関心であるはずの彼が、わざわざこうして意見らしきものを述べているということは。
「なんでそう……寄ってたかって、道を正せとか言うかな?」
早く引き返せ。
こちら側に来るな、と。
そういえば最初に出会った時にケンジにも言われていたのだった、と思い出す。
「そりゃお前がこっちにいるべきヤツじゃねーからだろ」
今さら何を、と言わんばかりに塚本は若干呆れ顔になって、白い煙を細く長く吐き出した。
「そうかな? 似合わねえ?」
「似合わねーな」
「……即答かよ」
「いや、何つーかな……カッコだけはついてても、表情がな。正直だと思うぞ」
表情?
何のことだ?とぐにゃりと眉を寄せて、涼し気な横顔を凝視する。
「必死こいて道を踏み外そうとしてるようにしか見えねーもんよ」
「――」
笑える。
すべてに目隠しをして暗闇でひとり必死でもがいていたつもりが……
――いや、違う。
もがくことすらせずただ逃げて、意味もなく澱みに浸って満足していた自分がどんなに無様だったか。
傍から見たらどんなに滑稽だったか、見えたような気がした。
それほど一緒の時間を過ごしてはいない塚本にまで、ケンジと同じことを言われているのがその証拠だ。
無理してまでやることか、と。
「……塚本すげーな」
「何が」
「わかんねーけど」
「……なんだそりゃ」
今日の塚本はよく笑う。
意外な思いと少しばかりの感謝の気持ち。それと共に、教室ではまったく見せない彼のそんな表情(そもそも教室ではめったに会わない)を心にしっかりと焼き付ける。
少しずつ寒さの増してきた薄青の空を見上げ、そんな余韻に浸りながら、昼の残された時間いっぱいをそこで過ごした。
進まなければ。前に。
彼らとの出会いを無にしないためにも。
こんな状態から卒業して、できること――自分がするべきことを探す。
でも……と、決意したそばからうぐぐ……と唸り声がもれる。
無駄な悪あがきだというのは重々承知だが、やはり最後に、せめて一発だけでも、ケンジにリベンジしたい。
それまでは、明日以降もあそこに通っても……おそらく罰は当たらないかも――
(いや……ちがうか)
思わずこみ上げた笑いを、ため息とともにそっと解放する。
わかっている。
思いのほか居心地がよかったのだ。
ほどよく子供扱いしては、「まだ早い」とあえてあちら側から遠ざけようとしてくれる思いやりも。
逃げてばかりの自分を見守りつつ、時には背伸びさせ、新しい世界に触れさせてくれた気遣いや優しさも。
後悔と自虐にまみれた己を忘れさせ、ムキになって怒鳴り合ったり一緒に笑い転げたりしたあの空間が――
あそこが、本当に好きだった。
自分自身にとっても文字どおり【Trèsor】になっていた。
いつもどおり駅の公衆トイレで私服に着替えて、制服とカバンをコインロッカーに押し込む。
すっかり身軽になって暗闇が深まりつつある街へと踏み出した矢先、後ろからくいっとショートジャケットの裾がつままれた。
「どこ行くの?」
振り返ると、学校指定カバンを持って洸陵制服に身を包んだ見知った女子生徒が立っていた。
いや、顔見知りどころではなく、栗色のウェーブを肩まで伸ばしたその女生徒は――
「瑶子……」
意表をつかれ、瞬時に固まる。
どうして彼女がここに――
学校帰りにたまたま…………いや、そんなはずはない。普段利用している駅は反対方向だ。
しかも暗くなってきたとはいえ、この時間ならまだ陸上部は終わっていないはずでは……。
「どこ行くの? こんな時間に」
目を見開いたまま二の句を継げないでいる翔を怒ったように見つめ、瑶子は繰り返す。
「図書館で勉強してたかと思えばコンビニで立ち読みしたり、電気屋さんうろついたり……。ようやく帰るのかと思えば全然反対方向に行くし」
「――」
では、後をつけられていたのだろうか?
時間つぶしで今日立ち寄った場所をすべて押さえられているということは。
自分なんかを尾行するためにマネージャーの仕事を休んでまで?
なぜそんなことを……。瑶子は何をしているのだ。
「おまけにそんな私服まで準備して……。ずっと変だなって思ってたけど、翔、何やってるの? ねえ、いつから?」
まったく気付かなかったことに驚きを隠せない。
尾行についてもそうだが、これまでずっと自分の行動が怪しまれていたらしいということも。
(でも)
驚愕し狼狽えつつも、瑶子には申し訳ないがすぐさま湧き上がってくるもうひとつの本音。
(なんで今日に限って――……)
もっと背後に注意していれば……。イトコにこんな行動に出られる前にカムフラージュでも何でももっと構っていれば……などと今ここで後悔していても始まらない。
一度固く目を閉じて、なんとか平静を装う。
「あたしとの約束とかおじいちゃんに顔見せるとかより、もっと大事な用事? みんなの心配もどうでもいいの?」
「……瑶子」
「ねえ、こんな時間から何しに? いったいどこ行くの?」
「瑶子!」
少しだけ張ってしまった声に驚いたのか、瑶子は質問攻めだった口をぴたりと閉じる。
それでも怒ったように見上げてくる表情は変わらない。
「頼む……。最後だから」
責めるように見上げてくる瞳を真っすぐに見返したまま、語調だけを和らげ、懇願する。
最後にするから、今日だけは構わないで好きにさせてほしい、と。
物言いたげに微かに眉をしかめながらも、瑶子は言葉を返さなかった。
どうやら頼みは聞いてもらえたらしい。勝手な判断かもしれないが。
「んじゃ……な。気を付けて帰れよ?」
そっと息をついて、少しだけ口の端を上げて見せる。
それだけだった。
あとは彼女のどんな反応も待たずに踵を返して、夜の街へと歩を踏み出した。




