Trèsor――Ⅲ(12)
互いのグローブを軽く打ち合わせて始まったスパーリングは、思いのほか長く続いていた。
二分を待たずどころか一瞬で殴り倒された前回と違って、まだ足は動くし打たれてもいない。
……というのもとにかく踏み込みに行く隙が与えられず、ケンジも本気で殴り倒しに来ないから、に過ぎないのだが。
そういう大人対応もわかってしまうだけに、なおさら翔の苛立ちは加速した。
「どうした? なる早で俺を倒すんじゃなかったのか?」
「る……っせ!」
飛んできた嫌味に、思わず繰り出したストレート。
タイミングがずれ、目指したポイントにすでにケンジはいなかった。
「腕だけで打つなっつってんだろ。腰使え、腰。回転」
「指導に入ってんじゃねえ、こんな時に!」
「おらおら顎も空いてんぞ。ガラ空きじゃねえか。打ちながらも守れー」
「!?」
どんだけ余裕なんだ!と思えばますますヒートアップする。
そもそも熟練者相手に、付け焼刃的な技術(……と呼べるほどのものでさえないが)しか持たないこんな素人が勝てるわけなどない。わかってはいる。
だが、何もしないまま倒れる気は毛頭なかった。
とうてい勝ち目はなくともせめて……せめて一発だけでも当てに行く!
そんな思いで翔はこの勝負に臨んでいた。
「うらああっ!」
……が。
意気込んでそのままボディブロー――と見せかけたフェイントにはやはり引っ掛かってくれず、ワンツーから続けざまに出したフックも、とっくに読めていたらしいケンジにあっさりガードされた。
いつも以上に神経を使って忙しなく足も動かし、隙あらばパンチを繰り出しているため、翔の息はすでにあがっている。
対して、敵は余裕綽々でゆるやかにステップを踏みながらすべての攻撃をガードし避けていた。呼吸も平時とまったく変わらず、である。
しかも、いつもならブロッキングすると同時にすでに攻撃態勢に入っているのに、今日はまったく反撃してこない。
そんな処にもどうしようもなく腹が立って、ますます翔は歯噛みした。
「打って……来いよこらあああ!」
「集中集中。腕下がってきてんぞー」
「あああぁ!?」
勝ちたくないのだろうか?
ふいにそんな疑問が脳裏をかすめた。
勝っていずみに関する内緒の話――口止めされていた、あのガラの悪い二人組の件だ――を聞きたいとは思わない……?
まあ万が一にもないだろうが、もしケンジが負けたら負けたでいずみと腹を割って話をしてもらうことになっているのだし、そうなればいずみも今度こそさすがに打ち明けるだろう。
卑怯な彼らに脅されていることを。
どちらに転んでも彼らは前進するはず。状況は好転するはず!
そう踏んで無理やりこの勝負を持ちかけたのだ。
リベンジせねばという私怨、一発だけでもぶちかます!という願望はぶっちゃけおまけだ。
それなのに。
今、目の前で軽快なフットワークで避けつつ律義にアドバイスを投げつけてくる男を見る限り、簡単にこちらを勝たせてくれる気もなさそうだし、かと言ってあっさり殴り倒しにくるような気概も気配もない。
いったいどういうつもりなのか。
とことんバカにされているようでイライラはどんどん膨れ上がり、攻撃も必要以上に大きくなってきた。その分スピードも落ちてくるのだが……。
認めたくはないが要はバテてきたのだ。
「荒れてんな。――『自分を壊してえ』……か」
一撃をまたもや軽く躱して、ケンジが何やら神妙な顔つきでつぶやいた。
「誰かに責めて欲しいっつってたよな。大事なダチに悪いことしたって」
「……は?」
「なんで信じてやらねえ?」
ちょっと待て、どうしてこちらの話になっているのだ。
この前した話の追加のアドバイスでもしてやろうということか?
今? この状況で?
唖然と目を見開く翔とは対照的に、ケンジの目には徐々に鋭さが増してくる。
「おまえのせいじゃねえっていうダチの言葉がそんなに信じられねーか? そんなに不満か? ええ?」
「!? うる……せっ! 俺のせいなモンは俺のせいなんだ、よっ!」
動揺と疲れでブレブレの左ストレートも難なく横に受け流される。
「甘えんな! 『責めてほしい』だあ!? ヒトをあてにしてねーで自分でケリつけろ! それも出来ねえでフラフラつまんねえ生活送ってんじゃねえ!」
「――!」
「自分がしたことをちゃんと認めてるんだったら、あとは真っすぐぶつかって行きゃいいじゃねえか! 何関係ねえとこで愚図ってんだ、おまえは!? 逃げてるだけだろが、それはよ!!」
……そのとおりだ。
ぎゅっと翔は歯を食いしばった。
だが、相手を睨みつける目は逸らさない。
フットワークも止めずになおも打ち込めるポイントを探る。
そのとおりすぎて腹立たしい。
だが、それならこちらも遠慮なく言わせてもらう……!
正論すぎて逃げ場がなくなった動揺と怒り、八つ当たりのすべてをぶつけるようにおもいきり左腕を繰り出していた。
「逃げてんのはっ、どっちだああ!?」
空を切って迫った今日一番の渾身のストレートを、それでもケンジは軽くバックステップで躱して――
その目を瞠っていた。
「アンタこそ……! アンタのほうこそっ『縛る』とか『犠牲』とか――くだらねえ御託並べて逃げてるようにしか見えねえよ!! 助けたんなら最後までしっかり全部受け止めてやれよ! ハンパに放してんじゃねえ! 足枷だなんて思わせてんじゃねえ!!」
「――――」
望んで、望まれた相手が、すぐそこに……目の前にいるのに!
本当に何をやっているのだ、この二人は!
すっかり目を見開いているケンジに、トドメとばかりになおも翔はぶちまけてやる。
「丸ごと受け止めりゃいいだけの話じゃねーのかよ!? そんなに自信ねーのか! 普段いばりくさってるくせによ! そんなんでよくヒトをガキ呼ばわりし――」
刹那。
強い衝撃がヘッドギアを通して左顎に走ったと気付いた時には、自覚できていた。
視界を大きく一回転させて青いマットに無様に倒れ込む己の姿を。
今日初めて、ケンジの拳が炸裂した。
その事実に不覚にも呆然としかけるが、ハッと我に返る。
まだだ。まだ終わりではない。
早く戦線復帰せねば、とあわてて立ち上がろうとするも、倒れ込んだ床から上体を起こすどころか足も腕も自由が利かなくなっていたことに気付く。
(顎、い……ってぇ……)
腕はガクガクでまともに支えにもならず、脳みそは嵐の大海原にでも投げ込まれたように未だ激しい揺れに襲われている。
けれど。
「……まだ、まだあ……っ」
どちらに転んでも結果オーライだったはずの勝負のことなど、すでに頭の中から掻き消えていた。
殴り倒すのは無理でも、このまま沈むわけにはいかない。
相手にはまだ一発も浴びせられていないのだから。
そんな思いだけが脳内をぐるぐる回っていた。
強烈なストレートを打ち抜いた姿勢のまま、黙って見下ろしていたケンジが。
ふいに――
「……参った」
宙で静止させていたその拳をようやくゆっくりと下ろして、ぽつりとつぶやいた。
「マジで参ったよ……翔には」
しまいにはグローブを嵌めたままの手で額を押さえ、喉の奥で押し殺すように笑いだしていた。
勝ったほうが「参った」とか……。何言ってやがる。
ゼーハー言いながら、そんな思いで見上げたその視界も徐々に霞んでいく。
「……ひ……ヒトを殴……殴り倒しておいて、言うセリフが……それ、かよ」
何を指して「参った」なのかはイマイチわからないが。
現実が、コレだ。
もともと勝てる見込みなんて微塵もなかったが、たった一撃で、もはや起き上がることさえできないほど打ちのめされている自分はいったい何だ?
チョロ過ぎるにも程があるだろう、と思う。
にもかかわらず――
不思議にも一緒に笑いたい気分になってきた。
視界は暗転直前なうえにグラグラ揺れて気持ちも悪く、今にも意識が飛びそうだが。
ついに起き上がることをあきらめ、翔は両手足を大の字に投げ出して天井を見上げた。
完敗だ。
清々しいほどに。
こんな青いガキがこんな大きな男に何もかも敵わないことなんて、とうに気付いていたが。
「ははは……」
こんな状況で思わず笑えてしまうほど。
突然悪い夢から目が覚めたような、どこか前向きな気分になれたような……
そんな感覚になれていたことに気付く。
ゆるやかに目を閉じていきながらも、気持ちはすっかり凪いでいた。




