Trèsor――Ⅲ(11)
それから三日後の水曜日。
日も暮れかけたいい頃合いを見計らって、翔は【Trèsor】を訪れていた。
鈴の音とともに、いらっしゃいといずみが控えめに笑う。
(よかった……)
彼女がとっくに黙って姿を消してしまっていたらどうしよう、と実はここにたどり着くまで気が気ではなかったのだ。
まだ居てくれたことに感謝しつつ内心でかなりホッとしていたところに、店の黒エプロンを片手にケンジが奥のスタッフルームから出てきた。
「よう」といつもどおり翔に声をかけてカウンターに入り、普通に……いずみの背後を通り抜けてコーヒーメーカーへと向かう。
言葉も交わさず、目も合わせない二人。
ある程度予想はしていたが……と翔は微かにため息をつく。
やはり取り巻く空気がどことなくおかしい。
おそらく、自分が悶々と悩んでここに来られずにいた昨日、一昨日もそうだったのだろう。
ホール中央から「っしゃー!」「うおおおおい!」と歓声が上がった。
いつもの特等席で、気の良いライダー仲間たち四人が各々手にしたスマホやタブレットで何かの対戦ゲームをしているらしい。
そして他に客はいない。
よかった、シチュエーションも時間帯も狙ったとおりだった、とあらためて胸をなでおろす。
と同時に再度カウンターへと目線を戻し、よしっ!と気を引き締めた。
これで心置きなく計画を実行できる。
例のガラの悪い二人組のこともある。いずみを完全に一人にしておくわけにはいかないため、以前のようにライダーたちに一緒に店番をしてもらえる状況を作り出す必要があったのだ。
ここからケンジを連れ出すために。
「ん?」
ホール中央席の熱い戦いに参加するでも、いつのもハイスツールに腰掛けるでもなく、真っすぐに向かってきてカウンター向こうに立ちはだかった翔に、何か用か?とばかりにケンジが瞬きした。
「突然だけど顔貸してくれ」
「……へ?」
「ジム連れてけ。そんで勝負しろ、俺と」
「おま……急に何」
ケンジが唖然とするのも無理はない。
しっかりエプロンをしめ、夜の客を迎える準備をそろそろ始めようとした矢先に外出を促され、あろうことか戦いまで挑まれたのだ。
それには……まあやはり少なからず申し訳ない思いがするため、計画どおり勢いよくホール中央を振り返る。
「兄さんたち、店番お願いしてもいいっスか? なる早でジジイぶっ倒して戻ってくるんで」
せめて原因を作る自分の口からお願いしなければ。
「ぎゃははは、言うねえ少年!」
「おっけーい」
「いずみちゃんのことは俺っちに任せろ!」
「いってらっさーい」
顔も上げずに手のひらと声だけではあったが、予想どおりの返事をとりつけて、ホラな?と翔がケンジを振り仰ぐ。
「今日ジム休みだってヤスさんから聞いた。だから店が混み始める前に。早く」
いきなり話を持ちかけて、しかも今すぐ連れてけとは自分もずいぶん偉そうで図々しくもあるが。
どう思われるかなんてこの際どうでもいい。
「んで俺と勝負……――や。リベンジさせろ」
初めてジムに連れていかれてコテンパンにされた日、そういえばここで誓ったのだった。いつかアイツを倒してやる、と。
その分も込みで、今あらためてこの男に挑みたい。
当然勝てる見込みなどゼロに等しいが、それでも勝負するなら――動くなら今しかない。
いずみが黙って姿を消したりする前に。取り返しがつかなくなる前に。
二人のために出来ることは本当にないのか、この二日強ひたすら考えたのだ。
「『いつでも来い』っつったよな? 受けて立つって」
真っ直ぐに挑むような、それでいて何やら含みがあるような眼差しに、ケンジがゆったりと顔付きを変えた。
「――おう」
バイクのキーを手に歩きだすケンジに続いて店を後にする。
心配そうにやり取りを見ていたいずみの視線には、あえて気付かないふりをした。
「え?」
黒のバンテージを巻く手を一瞬止め、ケンジが顔を上げる。
「刃物もったいずみさんの前にとび出した時、どんな心境だったか、って訊いた」
「……」
バンテージもパンチンググローブも準備万端ですでにヘッドギアまで装着し、控えめにシャドーを織り混ぜながらのフット反復練習に入っていたこちらに黙って視線を送ってきている……気配はする。
それでも、なぜその話を知っているのか、という質問は飛んでこなかった。
よそよそしそうに見えたが実はもういずみが話していたとか、あるいは、今日いきなりのこの流れや空気で彼なりに何かしら感じ取っていたのかもしれない。
「……『こいつを失えねえ』と思ったら体が動いてた。そんだけだ」
「いずみさんが刺されそうになったってワケじゃねーのに?」
「同じことだ」
やけにきっぱりと間髪入れず言いきったわりには、ケンジの表情がわずかに翳った。
手はゆっくりと再びバンテージを巻き始める。
「……あのまま刺してたら、いずみは今ここにいねえだろうからな」
収監されて、ということだろうか。それとも今度こそ本当に自分で……ということか。
どちらにしても、確かに。
そうなっていたら今あの店で仲間たちと朗らかに笑っていることなんか出来ず、翔とも知り合えなかったはず。
「後悔してる? 庇ったこと」
「いや……」
一言だけ答えてケンジは微かに笑った。
支度の出来た拳に目線を落としたまま。
「……」
それが後悔してないという表情だろうか?
翔のそんな心情が透けて見えたのか、笑みをさらに深くしてケンジがシャツの長袖を捲り始める。
「ホントだって。止めたこと自体は後悔してねえ。けどな……」
あらわになった上腕外側の傷を向けて見せ、薄くため息をついた。
「これのせいで、あいつを縛り付けることになっちまった」
縛る、って……。
想像したほど大きくはなかった刺傷の痕からケンジの顔へと視線を移し、翔はやや眉をひそめる。
「結果的に俺にケガさせたってことで、いずみはパニくって罪悪感で……とにかく大変だった」
「……」
「そんでもいくらかマシになって、一人でいさせても大丈夫なくらいになったら……今度はとにかく償おうとすんだ。俺に。罪の意識からか何でもな」
死のうとしたのも、償わなければならないと思っているのも、聞いたとおりだった。
将来を奪ってしまった、といずみはひたすら自分を責めていた。
だからその心情はわからなくもない。
だが……
「……わかるか? 望んだのはそんな献身でも犠牲でもなくて、あいつの……」
――あいつの笑顔、あいつ自身なのに――。
そんなケンジの心の声が聞こえた気がした。
もちろん自身の勝手な思い込みや願望が多分に入っているだろうが、それに近いことは彼自身思っているだろう。
いや思っているはずだ、と決めつけると同時にさらに少しだけイラっと度が増したような気がした。
そうでなければ――
「そう思うと……後悔はしてねえが、どうしたらいいかわからなくなっちまってな」
「…………」
そうでなければ――この男がこんなに情けなく思い悩んでいるはずがない。
イラっとどころか完全に眉がつり上がっていたのを自覚する。
二人の心情はそれなりにわかっているつもりだった。
が、そうでもないのだろうか。
ガキの自分にはとうてい理解しきれるはずのない、実は見た目以上に深い問題だとでもいうのだろうか?
確かにちょっと普通ではない事態を経験してきた二人かもしれない。
……が。
(…………なんか、バカじゃね?)
それなりに複雑な状況、背景、人間関係などがあったのかもしれない。
だが。
それ以上に大事なことを、頭からすっ飛ばしてしまってはいないだろうか?
いい大人のはずの彼らは。
命を懸けるほど互いに望んで望まれる相手がすぐそこにいるのに。
そこが一番大事なところではないのか。
互いの気持ちをはっきりと伝えあってすらいないで……この二人はいったい何をしているのだ?
何やら無性に腹が立ってきた。
一番大事でシンプルな一言を互いが口にしていないせいで、しなくていい回り道を彼らがしているように思えてならない。
そのせいで、とんでもなく迷惑を被っている人間がここにいる。
……と言っても半分以上失恋の痛手と八つ当たり気味なこの心境以外のなにものでもないのだが。
その自覚も確かにあるのだが。
「……やってらんねえ……」
完全に据わった目でボソリとつぶやく翔に、ケンジは気付いていない。
彼がグローブのみを装着し終えたのを確認して、憮然としたまま足早に青いリングに上がる。
どうあってもギアは必要ないらしい。(こんな素人相手では当然と言えば当然だが)
「んじゃ軽くマスでも……」
「や。スパーで」
ケンジの提案を遮って、最後のアップとばかりにステップを踏みながらグローブを打ち鳴らす。
この心境で、『当たっても打ち抜かない位置取り確認と練習』などしていられるか。
冗談ではない。
打ってこいや。そして打たせろ。思いきり。
そんな思いを込めたひと睨みを真正面からケンジに向ける。
「勝負だ。もし一発でもまともにアンタに当てたら、俺の勝ちな? そん時は――ちゃんといずみさんと話せ。腹割って」
ケンジの目が静かに見開かれた。
「誓え。できるよな?」
数回ここを訪れてボクシングをかじっただけのこんな素人相手には、妥当な条件と要求だろうと思う。
いや押し通す。
「――負けたら?」
「いずみさんに口止めされてること、アンタに話す」




