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陽だまりにて待つ!  作者:
第5章 Trèsor――追憶のはざまで――
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Trèsor――Ⅲ(10)




 粗野で豪胆な面もあるが、視線が合うとケンジはいつも気遣うようにいずみに笑いかけてくれた。

 境遇のせいで未だ同情の目を向けられているに過ぎない、と思うと少しばかり複雑な思いもしたが……。

 長く一緒にいるうちに、いつの間にか彼の姿を目で追うようになっていた。

 恩人としてだけではなく、ひとりの男性として。


 いい仲間たちに囲まれて、夢を追ってボクシングに打ち込んで、活き活きと楽しそうにしている様子を見られるのが嬉しかった。

 その空間もとてもあたたかく涙が出るほど幸せだった。



 しばらくして、突如その平穏な日常が崩された。

 どうやってか捜し当てたあの父親が、いずみを訪ねて閉店直後の【Trèsor】にやってきたのだ。

 それも酩酊状態で。

 娘が姿を消したというのに、改心するどころか逆に酷くなっていた。


 目の前が真っ暗になり固まって動けないいずみに、父親はここぞとばかりに暴言を吐き詰め寄ってきた。

 言っていることは滅茶苦茶だし、ろれつも回っていない。

 酒臭い息をまき散らして、好きな人の前でこうも自分を罵って貶めてくるこの人間は本当に父親と呼べるのか?

 すべてをあきらめたように体から力が抜け、朦朧と倒れ込みそうにながら、そういずみは感じたという。


 それでも容赦なく娘の髪を鷲掴み、もう一方の拳を振り上げかけた父親を――ケンジが止めた。

 当然のように父親は逆上し、邪魔をしたケンジのほうに殴りかかる。

 反撃してこないのをいいことにもう一発拳を食らわせ、さらには膝蹴りまで入っていた。


 フラフラとおぼつかない足どりで、威力もそれほどではないからなのか、ケンジは依然として攻撃に転じない。


 なぜ?

 現役の、ボクシングジム通いの彼にとってはこんな酔っ払いの素人など――――……

 そこまで考えてハッとした。

 攻撃できないのではなく、しないのだ。

 急激に視界が開けたいずみの目に映ったのは、しつこく殴る蹴るの暴行を加えられながらもひたすら防御に徹するケンジの姿。


 やめて!

 そう叫んで夢中で父親に体当たりするも、難なく肘で振り払われてホールの椅子数脚とともに床に倒れ込む。

 そんな娘に一瞥もくれずに、父親は喜々としてケンジを殴り蹴り続けた。

 むしろ大変な目にあっているケンジのほうが、安否を気遣うようにして彼女を振り返っていたという。

 こめかみが切れ、頬を腫らし、口の端と鼻から血を流すケンジ。

 それでも父親は手を緩めてくれず……。



 そこまで話して、いずみはミニテーブルに置いた手をぎゅっと握りしめる。


「あたし、どうしたと思う?」


 どう……って言われても、とそこまで考えて翔は我に返った。

 聞かされる内容に先ほどから開いた口がずっと塞がらないでいた状態を、ようやく自覚する。

 特段答えを待っていたわけでもないらしく、いずみはすぐに口を開いた。


「気が付いたら、包丁握って走り出してた」

「……!」


「あたしや母の気も知らずに……全然変わってなくて……。憎かった。そのうえ彼を――ケンジを傷つける父親が本当に許せなかったの。刃物向けるのになんのためらいもなかった」


 いよいよ目を見開いたまま翔は固まってしまった。

 いつも穏やかな笑顔で周囲に接していたいずみに、そんな激しい一面があったとは。

 ――が。

 さらに驚くべきことがその先にあるなんて、思いもよらなかった。


「そして……刺したの」


 憎しみを込めた鋭い視線で宙の一点を見つめている、いずみ。


 それが一転して、わずかに戸惑うような表情に取って代わられる。

 どうしたらいいかわからず、所在なさげに不安に揺れ動く瞳。


「……そう、あたし刺したのよ。でも違った……。倒れたのは父さんじゃなかった」

「!?」


 とっさにケンジが庇ったのだ。

 包丁を持って向かっていく彼女に気付いて、一方的に殴られっぱなしだったのに、ケンジが彼女の父親を庇った。 


 一瞬、自分が何したのかわからなかった……。

 そうつぶやいた彼女の声は震えていた。


「……でも、血が……ケンジの腕から血がすごくあふれ出てきて、熱くて……気がついたの」


 そして、ケンジはただ抱きしめた。

 血を流しながら。

 混乱して泣き叫ぶことしか出来なかったいずみを。

 幼子をあやすように、大丈夫、大丈夫だからと繰り返して――……。


「ケンジ……」


 愛しいひとの名を呼んだ拍子に、ゆらゆらと溜まっていた涙がとうとうあふれだした。


「ケンジは、父さんとあたし……二人を庇ったの。なのに、あたしたちは――」



 ――父娘でケンジの将来を奪ってしまった。



 大粒の涙を見送りながら、そういずみは付け加える。


「もう、それからは毎日死ぬことばかり考えてた気がする」


「……!」


 顔をこわばらせて身動きした翔に、あのころはね、といずみ。

 ようやく涙を拭いながら、少しだけいたずらっぽく笑って見せた。


 そしておもむろにルームウェアの袖を肘のあたりまで捲り上げ、向けられた両腕の内側。

 その手首付近には無数の白い傷痕があった。


「……」


 恩人でもあるケンジに取り返しのつかないことをしてしまった。

 悔やんでも悔やみきれず自分で何度も何度も傷をつけたのだといずみは語った。

 それで責任が取れるわけではないとわかってはいたけど、と。


 だがそんな彼女を死なせないように、ケンジはほぼ付きっきりだったという。自身のケガはそっちのけで。

 兄夫婦や、ある時はヤスヒロとも交替で。

 だからあの中でヤスヒロだけが事情を知っていた。


()()だったのか……)


 あの豪胆な人物がちょっとした刃物の傷に過敏に過剰に反応していた理由に、ようやく突き当たった。

 彼自身が負った傷というよりは、やはり過去の()が原因だったのだ。

 いずみがどう思おうと、彼が心の底から……どれほど彼女のことを心配していたかが、容易に……手に取るように伝わってきた。



「どこで見てたのか……あの二人ね、知ってたの」


「二人?」


 すっかりケンジの心境に思いを馳せてしまっていたため、わずかに間が生じた。

 訊き返してしまってから、ああ例のガラの悪い二人組を指しているのか、と理解する。


「あたしが父さん刺そうとしたのも、ケンジたちが必死に庇って隠そうとしてたのも知ってて……。それで……脅してきたの」

「!?」


「バレたらケンジたちもただじゃ済まないんだぞ、って……。ケンジを助けたかったら、言うとおりにしろって……。だから、あたし……たぶん逃げられない」

「サイテーだな」


 知ってたけど。

 姑息にもケンジのいない間にああやって狙って来ていたあたりからして。


 思わずそのまま口に出してしまいそうなほど苛立ちをおぼえた翔に。

 なぜか、ふふっといずみが微笑んだ。


「ね? 最低でしょ? あたし」

「え、ちが――」


「彼の未来を奪っておきながら、現在いまも……こうして縛って気を遣わせて……心配だけはしっかりかけて。……そんな資格もないのに」

「資格……って」


 まただ。

 腑に落ちない発言をするいずみを凝視する。


 根本的に彼女は何かを見落としていないだろうか?

 にわかにそんな疑問がわいた。

 ケンジがただの同情や心配でいずみを気にかけている、と……まさか本気で思っているのだろうか?


「だって……浅ましい女じゃない? 自分の命を盾にして繋ぎとめてしまったようなものだもん。……そんなつもりは、なかったんだけど、ね」


 当時の衝動的な自傷行為を悔いている、というのは伝わってきた。

 もうそんなバカなことをする心配もなさそうだ。

 そこだけは翔もわずかにホッとした。


「もう死ぬ気なんてないしむしろ何でもしなきゃ……って、心から償わないといけなかったんだ、って気付いたけど…………」


(? 気付いたけど……?)


「足枷にしかなれてない自分にも、気が付いちゃった」

「――」


 この上なく悲しい瞳をしたまま、いずみは笑った。


「本当はもう……自由になっていいのに。あたしなんて切り離して、どこへでも進んでいけるひとなのに」 


「や、いずみさん……違うって」

「でも、もう……解放してあげなきゃね」


 すべてあきらめたような眼をして、いっそ晴れやかに彼女は笑うが。


「や、いや……それじゃ駄目だ。そんなことアイツが望んでるわけない」

「あの二人が何かしでかさないうちに離れないと。これ以上迷惑かけちゃう前に」


「迷惑だなんて思うわけないって……! むしろ……」


 お互い心の底からしっかり想い合ってるのに、そんな結論の出し方は違う。

 自分も他の連中もみんなそれをわかっているのに、なぜいずみは――いや、なぜこの当人たちはわからないのだ。

 決して軽くは見られない過去があったのはわかった。が、それよりも――


「だって、すべてを奪っておいて愛してるなんて言えないもの」

「――」


 素直な告白を聞けたのはよかったが……というより何でそれ本人に言わないんだ?などと物申したい気分になっているうちに。


「顔見ちゃうとずるずる離れられなくなりそうだし、ケンジだってますます気を遣ってくれちゃうだろうから、黙ってこのまま引っ越しちゃおうかな……」 


 しまいにはそんなとんでもないことを、いずみは言い出した。


「でもホント、翔くんのおかげで吹っ切れそう。いろいろありがとう。そしてごめんね? すっかり巻き込んじゃったね」

「や、そうじゃなくて……ダメだって! アイツはそんなこと望まない! 絶対!」


「ありがとう。……怒らないでね? 翔くんはホントに優しい」


 まるで聞く耳持たずに、彼女は何を満足げに微笑んでいるのだ。

 頭の中に芽生えたのは苛立ち、というよりは不可解な焦り。


 ついフラフラと横から一瞬手を出してしまった自分が言うのもなんだが、そんな結末は――そんな一方的な決着の付け方は、違う。

 絶対に違うはず。

 誰も幸せにならないではないか。


 どう言ったら伝わるのだろう?


 もどかしさに、翔は途方にくれた。







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