Trèsor――Ⅲ(9)
「…………翔ならいいか、可愛がられてるみてえだし。――けどアイツには言うなよ?」
短い茶髪を掻きむしって少しだけ考え込んでから、ヤスヒロはあきらめたように苦笑いして見せた。
可愛がられてる云々にちょっとどころではなく引っ掛かりをおぼえたが、話してくれる気になった処を遮るわけにはいかない。
黙ったままうなずいて翔は話の続きを待った。
「気付いてたか? ケンジがいっつも長袖でいること」
「え……ああ」
そういえば、と暑い暑いと言いながらも彼が常に長袖シャツやトレーナーを着ていたことを思い出す。
現に、汗だくで打ち込んでいる今も長袖だ。
「この辺にさ、傷があるんだよアイツ」
言いながら、ヤスヒロが自身の左上腕部に手のひらを当てた。外側から包み込むようにして。
(腕に傷?)
「プロあきらめたのも…………まあ、ぶっちゃけそん時の傷が原因でな」
常日頃、翔や川っちをもやし呼ばわりし、よれよれトレーナー兄さんには太鼓腹をなんとかしろ、などと豪快にディスっている筋力自慢なケンジ。
そんな彼がそういえば自身の肉体美を披露するどころか、いつも腕まくりでさえささやかだったことに得心がいく。
プロになるのをあきらめるほどのケガをしていたとは、にわかには信じられなかったが。
「え、なんで……。トレーニング中のケガ……とかっスか?」
それかバイク事故で大ケガをして、とかだろうか?
でも、それじゃあのライダーたちが知らないってことはないよな……と思い直してヤスヒロの答えを待つ。
「いや。いずみさんの親父さんと、ちょっとな……」
「――――」
予想外の答えに、思わず目を瞠る。
いずみの父親と?
いったい何が――何かいざこざでもあったというのだろうか。
「そん時にここら辺のさ、まあ……ちょい大事な神経まで傷付いちまって……。普通の生活には支障ないくらいには治ったけど……ボクサーとしては……な」
自らの肘の上あたりを触りながら、ヤスヒロは伏し目がちに語ってくれた。
そのことが原因でいずみは遠慮している……?
自分の父親が関係した何かに負い目を感じて、ケンジへの想いを――幸せになることをあきらめている、とでもいうのだろうか。
あまりにも不可解そうな表情をしてしまっていたのか、ハッと翔に視線を移したヤスヒロが取り繕うように苦笑いしてみせた。
「あ……いや、わりぃ、それ以上は言えねえ」
それ以上? それだけじゃない、ということだろうか。
他にもまだ何かがあった?
そういえば確かに、今聞いた話だけだと昨日のあの一件には何も結びつきそうにない。
動揺してすっかり参っていたケンジのあの様子の説明にはなってないような気がする。
ケガ以外にも何かあったのだ。
おそらくその何かのせいで、二人とも互いへの気持ちを無理やり押し込めて……。
――『血よりも 濃い絆ってやつ?』
下卑た笑いを浮かべながらいずみに絡んできていた、あのガラの悪い二人の言葉を思い出す。
いったい何があったのだろう。
一心不乱にサンドバッグを殴り続けるケンジを、気付けばかなり訝しげな顔で眺めていた。
インターホンを鳴らすと、それほど間をおかずにドアは開けられた。
「翔くん……え、あれ? 何か忘れ物?」
その日のうちにまたもや訪れるとは思っていなかったのだろう。
玄関に招き入れてはくれたが、目を真ん丸にしたままいずみは物言いたげに見上げてくる。
朝と同じラフなワンピース型のルームウェア。
仕事を休んで本当にどこにも出掛けずに、もしかしたら、ただひたすらに何か思い悩んでいたのかもしれない。
たったひとり、この部屋で。
誰にも何にも耳を貸さず、ひとり黙々と自分を壊していたケンジと同様に……。
「翔くん……?」
何も答えないままただじっと見下ろされ、いずみが不思議そうに頬に手を伸ばしてくる。
触れそうになる寸前に、その小さな手をそっと止めていた。
「だめっスよ、いずみさん」
「え」
包み込んだ手をそっと引き離そうとした時、わずかに血の滲んだ包帯が目に留まった。
何かで傷が開いてしまったか。
「……巻き直そうか、それ。救急箱ある?」
「さっきの……」
一通り処置を終えて包帯も巻き終わるころ、いずみが口を開いた。
「『だめ』って、何が?」
「……」
本気でわかってないのか。
微かにため息を吐いて、翔は手元に落としていた目線を上げた。
「男に簡単に触ろうとしちゃダメっス」
もしかしたら「男に」ではなく「ケンジ以外の男に」くらいは言わないと伝わらないか?とも思ったが。
さすがにそこまでは言ってやりたくない。
儚く恋破れた青少年の意地だ。いや、意地悪というべきか。
「あと、アレだ。ドア開ける時もろくに確かめずに開けたでしょ? さっき。もっと気を付けないと」
緊急事態とはいえ酔っぱらった彼女を部屋まで運び入れたあげく、あんなコトに及んでしまった自分が言うのもなんだが……。
基本的に、いずみには危機感が足りないと常々思っていた。これは意地悪でも何でもなく。
「好きでも何でもないヤツに隙みせたらダメっス」
救急箱をぱちんと閉じて真顔で言い切ってやる。
……と。
それまで一言も口を挟まず聞いていたいずみが、わずかに首を傾げた。
「どうして? ……だって翔くん好きよ?」
「……」
――――違う。
口を開いて確かめるまでもない。反論するまでもない。
そんなこともわからないと、思われているのだろうか。
いずみはあいつを……ケンジだけを想っている。ひたむきなほどに。
そしてケンジもまた――
表情も変えずにただ黙って見つめ返す目線を非難と受けとったのか、ふっといずみは笑ったようだった。
何かをあきらめたような、どこかやりきれないような、そんな表情で。
「ごめんね……? 翔くんみたいな真っすぐでキレイな子、こんな最低な女に関わらせちゃダメよね?」
わざとらしくそらした目線をやや泳がせて、自虐的にいずみが笑った。
初めて目にしたそんな表情に、さすがに翔の眉根が寄る。
「何言ってんスか、別にそんな」
「そうなの……っ!」
「――」
悲鳴に近いほどの彼女の声に、すっかり固まってしまっていた。
「……知りたい? ねえ。あたしがどんなに最低な人間か」
「あたしもケンジに拾われたの。もう……五年くらい前になるかな」
目の前で紅茶のポットを傾けながら、そういずみは切り出した。
「もともと、あたしの家っていうのが凄く悲惨でね」
聞けば、小さな工場を経営していたといういずみの父親はかなり高圧的で、何もかも思いどおりにしないと気が済まないタイプだったらしい。
機嫌がいい時はいいが、何かあると豹変してとたんに周囲を口汚く罵り始める。妻には時折手が出ることもあったという。
当然人は離れ、仕事もうまく回らなくなっていった。
それでもいずみの母親は方々に頭を下げ、夫を支え続けた。殴られても、八つ当たりに詰られても、ただひたすらに。
「あんな目に合ってるのに父の側を離れない母がホントに理解できなくて……。大人になったらわかるのかな?とか思ってたけど、やっぱりムリだった」
両手で包み込んだカップに目線を落とし、いずみが軽く首を振った。
数年後、いずみが短大卒業を間近に控えていたある日。
頑張っていた母親が病に倒れ、ついに還らぬ人となってしまった。
それでもやはり愛していたのだろうか?
父親は悲しみを吹っ切ろうとしてか、日中でも浴びるように酒を飲むようになってしまったらしい。
そして、何が原因かもわからない特に理由が要るわけでもない父親の無茶苦茶な怒りの矛先は、娘のいずみに向けられるようになった。
「でもあたしはそんなに我慢強くないから。三度目?に殴られた時だったかな……。もうこのままじゃ絶対ムリ!って思ったら、夜中なのに家飛び出しちゃってた」
「それでアイツに会って……?」
「そう、拾われたの」
はにかむように、いずみは笑った。
「雨まで降ってる真夜中によ? 顔に青アザ作っていかにも訳アリそうな、見ず知らずの女を……」
ケガを見るなりあわてて連れ帰り、兄夫婦にどうにかしてくれと頼んだのだという。
前から豪快で面倒見がよかったのだな、と翔は少しだけ胸温まる思いがした。
手当てをして事情を聞いてくれた兄夫婦が「それなら開店準備を終えたばかりのあの店で働きながら、短大に通ってはどうか」と持ち掛けてくれ、どうせ部屋が空いているからと、なんとそのまま居候までさせてくれたらしい。
そのおかげでいずみは、残りわずかだった学生生活を無事に終えることができた。
だから拾ってくれたケンジと生きる場所を与えてくれた彼の兄夫婦には感謝してもしきれないの、といずみは神妙な面持ちで目線を手元に落とした。
兄によって「元々おまえのために準備した店だから」とケンジが店長に据えられ、結局いずみも卒業してもそのまま【Trèsor】で働かせてもらえた。
さすがにこれ以上は迷惑をかけられない、と一人暮らし用にアパートを借りたのもそのころだったらしい。
そして、初めは感謝だけだったいずみのケンジへの気持ちにも、徐々に変化が表れだしたのだという。




