Trèsor――Ⅲ(2)
気まずさと自己嫌悪のあまり彼らの前に顔を出せなくなってから、気付けば思いのほか長い日数が経過してしまっていた。
すっかり呆れられてるかも、むしろ怒ってるかも……と、ともすれば弱気になって止まってしまいそうになる足をどうにか騙し騙し動かし、ようやくたどり着いた店の前。
夕日の照り返しにわずかに目を細めながら、翔は濃いブラウンの壁に走り書きされた【Trèsor】の白文字を見上げた。
(十日……いや。二週間ぶり、か?)
二人の前から逃げ出したあの日以来初めて、躊躇いがちに――だが意を決してドアノブに手を掛ける。
「翔くん……!」
軽やかな鈴の音を遮るように、中からいずみの声が響いた。
もう夕刻に差し掛かるというのに、店内には客の姿も見知った姿もなく彼女ひとりだった。
店の前に黒い単車が停められていたため、少なくともケンジはいると思ったのだが。
「もう、来てくれないのかと思ってた……」
「……」
カウンター内で、よかった……と小さくつぶやいてホッとしたように微笑むいずみ。
その顔が今にも泣き出しそうに見えて、胸が詰まった。
いつもどおり一番端のハイスツールに腰かけた翔の前に、コトリと軽い音を立ててコーヒーが置かれる。
ふわりと立ち上る湯気と久々の深みのある香りに、少しだけ気分が和らいだ。
「あの時はごめんね。心配して翔くん……ああ言ってくれたのに」
礼を言うより早く、申し訳なさそうな顔でいずみが口を開いた。
「!」
謝る理由など、彼女にはない。
自分が勝手に逆上して叫び散らして店を飛び出した。
逃げ出したのだ。いずみの前からもケンジの前からも。
ただ、それだけのことだ。
あらためて思い返せば情けなさ満載なあの日の自分の言動に、少しばかり落ち込んだ。
これではガキと思われても仕方がない。
「……いずみさん、大丈夫だった? その……もしかして、あれからまたアイツらが来たりとか――」
反省しながらもあえてバツの悪いそれには触れずに、別の角度から切り込んでみる。
「あ、ううん……大丈夫よ」
微笑みながら軽く首を振って答えてはくれたものの、揺れ動きすぐさま伏せられる目。
思ったとおり、やはりケンジには未だ打ち明けられないでいるのだろう。
「……俺、わかんなくてさ」
「え?」
「いずみさんがひとりで困ってる理由が、わからない」
「――」
言いたかったことの大本はあの日から変わっていない。
今度はしっかり落ち着いて伝えなければ、と慎重に言葉を選んでいく。
「もう少し、さ。甘えてもいいと思う」
あの人に――。
恋人同士ではないと、なぜか双方思い込んでいるフシがあるものの。
「どっから見ても……俺が見たってわかるよ、はっきり。二人が想い合ってることなんて」
「……違う」
「ってか、だからこそ他のライダー兄さんたちだっていつも」
「違うの、翔くん」
黙り込んで目を見開いていただけだったいずみが、少しだけあわてたような表情で首を横に振る。
お互いに気持ちを伝え合ったわけではないから、ということだろうか。
「? 違わないって。まだ言ってないだけにしろ、ちゃんと――」
「違う! だってそれは――フリだから!」
今度は強い口調で遮られていた。
フリ?
「あたしを咎めないために……あたしに負い目を感じさせないために、平気なフリしてくれてるの。それだけ」
「え?」
「決して、望んで……なことじゃないのよ。だって――」
「……」
徐々に興奮してきたのか、次第に要点を掴みかねる話運びになってきている。
が、主語こそないものの誰の話をしているのかははっきりとわかった。
(ケンジが? 咎めない……負い目を感じさせないために……って、え? 望んでない……って?)
「あたしがこういうふうに思ってるのもわかってて……。それならいっそあたしなんか切り捨てちゃえば、お互い楽になるのに……!」
「? いず……」
「わかってるくせに、側に置いてくれるの。あたしがそれを望んだから……!」
「……」
思い詰めた表情で何かを訴えようとしているのだろうが、もうさっぱりわけがわからなかった。
いったい、二人の間に何があったというのか。
「だからあたし――……あ」
彼女のはっとする表情につられて視線を動かす。
数歩先の位置に、店の奥からでも出てきたのか黒エプロンを手にしたケンジが立っていた。
いつの間にこんなに近くに……。
驚きはあったが、それだけ何か思い詰めたようないずみと彼女のそんな様子をどうにか理解しようとする自分に余裕がなかった、ということなのだろう。
仮眠でもとっていたのか濃い茶髪がところどころ跳ね、いつもは力強い野性的な目もどこか虚ろに見える。気のせいだろうか。
無言のまま殊のほか静かな、読めない表情で見下ろしてきていたケンジが、一瞬だけ間を置いてニマッと翔に笑いかけてきた。
「……おう。久しぶりじゃねえか。素行不良で停学くらってたか? それとも成績落として居残り坊主だったとか?」
「ち、ちげーし! そんなんどっちもなったことねえよ! それって自分の若かりし頃を押し付けてんじゃねえ?」
「いやー、おまえがいねえ間は静かでよかったわー。マジで」
「って、聞けよ!」
いつもどおりまるで普通にからかってくるケンジに、思わず調子を合わせてしまっていた。
情けなく逃げ出し二週間ばかり顔を出せなかったことに関して、バツの悪さを感じさせず自然なやり取りに持っていけるこの辺りはさすがだ。
……あえて口に出して褒め称えたくはないが。
そんなやかましく低レベルないつものやり取りを、少しだけホッとしたように見つめていたいずみ。
気を取り直して布巾を手にフロアに向かっていった彼女が、どこか不安気な、寂し気な表情だったのをどうにか視界の端にとらえることはできていた――。
しばらくして、例によってライダー仲間たち四人がにぎやかに入店してきた。
今日もすでにジムの仕事に入っているのか、ヤスヒロの姿だけ見当たらない。
「ういーっす」
「いずみさん今日もラブリー!」
「メシだ、メシメシメシー!」
「お。珍しくいるじゃん坊主」
……今日も安定のやかましさである。
「坊主ー! うぇーい!」
それでも久々のこの空気にホッとしかけるが、意味不明なハイタッチ(全員分)を余儀なくされ、口の端がやや引きつった。
そして、陣取った中央テーブルに「いずみさんいずみさん、裏メニュー持ったいずみさんをくださーい」と四人が彼女を呼び寄せ、何やら和気あいあいと語りだした隙に――
思い切ってカウンター内のケンジに身を近付けた。
先ほどのことを訊くなら今しかない。
「いずみさんと何かあったわけ?」
二人の間に何があったのか。気になるし知りたい。
咎めるとか何とか……話の内容もさることながら、二人の様子もやはり普通じゃないように見えたのだ。
ためらいもなく直球を投げてきた翔に一瞬だけ驚いた目を向けて、ケンジがふっと口の端を緩める。
「おまえが気にすんな」
「……へいへい。どーせガキには関係ねーんだろーけどよっ」
結局こうして濁されて終わるのか。
少しばかり予想はしていたものの、あっという間にシャットアウトされて当然おもしろくない。
そりゃあおもいきり年下のただの客でしかない自分ごとき、大人の二人を気にかける資格も根掘り葉掘り尋ねる権利もないのだろうが。
「心配すんなって意味だよ」
拗ねてそっぽを向きかけた額をコツンと小突かれた。鼻で笑われながら。
やはりガキ扱いされてるようで、思わずうぐぐぐ……と唸り声がもれた。
「おまえこそ、何があったんだよ?」
唐突なケンジの切り返しに、不覚にも額を押さえたまま固まる。
「え……」
「『松一』なんて有名進学校に通う真面目くんが、何を思って裏道に逸れ出したのか。そろそろ聞かせろや」
聞く気マンマンの構えで、ケンジがカウンター内の椅子にどっかり腰を下ろした。
もしかして目線を合わせてくれたのだろうか。
ほとんど変わらない高さになったものの、余裕綽々な彼のニンマリ顔が少しだけ癇に障る。
「……」
そういえば「松浦第一高」という嘘の学校名も未だ訂正していなかった、ということに今さらながら気付く。
放課後にここを訪れる時は必ず私服に着替えてからだったため、学校云々に関しては特に誰にも取り沙汰される機会もなく忘れていただけ、といったほうが正しいのだが。
いや、そんなことよりも――
こんな自分の話なんか聞いてどうする?
話したところで何かが変わるわけでもあるまいし。
そう思った――――はずなのに。
「1コ下の……幼馴染がいてさ」
なぜか、語りだしてしまっていた。




