Trèsor――Ⅱ(11)
(――――だ、ダメだ……。どうした、俺……)
チャイムが鳴り続けるなか、がばりと机に伏して翔は頭を抱えた。
たった今終了した三時限目も含め、今日はまったくと言っていいほど集中できていないのである。
いや、それを言うなら「今日は」どころか「昨夜からずっと」この調子なのであるが。
原因に関しての心当たりももちろん、ある。
「………………」
つい【Trèsor】でのあの一瞬を思い出してしまい、謎の自己嫌悪に駆られてますます強く頭を押さえ込む。
不意打ちを食らったとしか言いようがない急接近。
頬に触れたいずみの指が……笑顔が……頭から離れない。
(……やっべえ。これってまさか……)
仄かなあの甘い香りも常に周囲を漂っている気がするあたりがもう――
…………重症としか呼べない段階なのではなかろうか。
どうしてこうなったのだろうかと頭を上げて考えてみる。
なぜこんな――いろいろすっとばして一気に階段を駆け上がるかのような気持ちに?
――いや。気付かなかっただけで、もしかしたら最初から何か…………
(や……いやいやいや、何にしたってダメだろ。何考えてんだ俺! いずみさんにはケンジがいるのに)
どれだけあわてふためいて違うと言い張られようと、あの二人が互いにしっかり想い合っていることは確かなのだろうし、そんな彼らに不毛で無謀な横やりを入れるつもりもさらさらない。
(ってか、ち、違う! べっべべ別にそういうんじゃねえかもだし……! ただ単に急に近付かれてびっくりしただけかも――……ってか『そういう』って何だ!? おっおおお落ち着け、俺!!)
「翔? 何か顔赤いけど、どうしたの?」
「え……おわっ!」
声とともに突然至近距離で篠原瑶子の顔を拝むハメになり、思わず飛び上がりそうになってしまった。
いつの間に1-Aに入ってきていたのか、前の席の椅子を拝借して横座りになり、ぼんやりと(時折り謎の挙動であたふたと)机に頬杖をついていたこの顔を覗き込んできていたらしい。
「熱でも――あ、やだ。もしかしてまた風邪引いちゃったんじゃないの?」
肩までの栗色ウェーブを揺らして、瑶子が整った顔をさらに近付けてくる。
さらに長い前髪を押しのけられ、額に手のひらまで当てられて。
「あー……や。違――」
「え……っ、何それ、ケガ? 口のトコ……どうしたの? 喧嘩!? それとも誰かに――」
「ああ別にこれは――…………ってか、近いって瑶子」
相変わらず距離感のおかしいイトコである。
昨夜のいずみ相手のときのように焦ってあわてふためいたり、ということにはならないが、ちょっと油断してる間に遠慮なく正面から顔を寄せてくるから――やや困る。
幼いころから心配性な瑶子のことだ。
こちらとしては慣れっこなのだが、普通イトコをそこまで大騒ぎして心配するだろうか?
たいして用もないのにこうして別クラスからやってくるのもしょっちゅうらしいし。(「らしい」というのは、その半分くらいは会えずに終わって、後でクラスメートから教えられたり本人からぼやきが飛んできて発覚するからなのだが)
一緒にいるだけで周りの男どもから突き刺さりそうな視線を浴びせられる身にもなれというのだ。
睨むだけでなぜかそれ以上のアクションは起こしてこないし、いちいち「いや、イトコだから」と弁解して回るのも面倒だから放置しているが。
「何よ、そうやってすぐ邪険にして」
「してねえって……」
そして周囲の反応を華麗にスルーしていても、こうして当人に拗ねられると少しばかりウザい。
「そういえば、昨日はどうしてたの?」
「ん?」
「電話」
少しだけ怒ったように、瑶子が眉根を寄せた。
「あー……」
そういえば、と宙に目線を漂わせてとある記憶にたどり着く。
ケンジとのバトルの最中に着信とメッセージが二、三件あったのだった。
身支度を整えてジムを後にする際気付いてはいたのだが、折り返しもメール連絡もつい後回しにしてしまったあげく、そのままうっかり忘れてしまっていた。
まあ……ものぐさ人間にはよくあることなのだが。
「翔のことだからすぐに応答してくれないのはわかってるけど。それでも全然返事がないと心配するでしょ? っていつも言ってるでしょ?」
「悪い……。ちょっとその、いろいろ……集中講義、受けてて」
「講義? 何の? 補習なんてあったっけ?」
「いやー……すばらしき人生の先輩たちに心身ともに鍛えられてた、っつーか何つーか……」
「?」
過激な性教育を施されたり、どつき回されたり、いずみの距離感に対して謎な動揺に苛まれたり――と、あらためて思い返すとなかなかに濃い一日だった気がする。
一気に何歳か老けこんでしまったのではないだろうか。
「おじいちゃん……会いたがってるよ」
「――」
前触れなく静かに切り込んできた瑶子の目をまともに見つめ返してしまってから、ハッとする。
「…………なんか、言ってた?」
「何も言わなくてもわかるわよ」
すかさず言い放って瑶子がきゅっと唇を引き結ぶ。
強い視線でまっすぐ見据えられたまま、やや重苦しい沈黙に包まれた。
なぜ会いに来ないのかと瑶子は訊かない。
週一程度にまで減った北校舎裏でのサボリ事情こそ知られていないものの、何に対しても誰に対してもまともに向き合えず逃げているだけのこの状態を、彼女は理解しているから。
家族にも、瑶子以外の親戚にも、祖父本人にさえ――この薄っぺらい心の内は見透かされているだろうことはとうに承知だ。
わかっていて、それでもみんな待ってくれている……?
それも……わかってはいるのだ。
ケンジの言うとおり、信じて、待って、見守ってくれているのかもしれない。
そんな価値もない……こんな、弱くて最低な自分なのに――。
「……や。つっても、もう剣道もやめたし、別に――」
「そういうことじゃない! 翔に会いたいんだよ。わかるでしょ!?」
思いのほか大きく響いてしまった瑶子の声に、ざわついていた教室内が一瞬にして静まり返った。
あちらこちらから興味本位な視線や様子を窺うような気配が漂ってくるものの、まるで頓着せず瑶子は真っ直ぐに射抜くような視線を向けてくる。
「わかるでしょ……?」
「……」
「いくら翔が気にしたって、誰にどんな遠慮したって、おじいちゃんもみんなも翔のこと――」
やがて鳴り出したチャイムに合わせて、皆ぽつりぽつりと席に着き始める。
廊下にいたらしいクラスメートたちもにぎやかに教室内になだれ込んできた。
「……お願いよ」
怒りはすっかりなりをひそめ、代わりに懇願の色が浮かんだ瞳が微かに揺れながら翔をとらえる。
「最近おじいちゃん、なんか元気もなくて……。お願いだから、会いに来て」
「……」
「待ってるからね?」
ポツリと言い置いて立ち上がり、瑶子は自分のクラスへと帰って行った。
正直なところ、なぜそこまで……と思う。
彼女も周りも何をそんなに……。こんな自分などもう見捨てて、放っておけばいいではないか、と。
真っ直ぐなイトコのあんな表情を目の当たりにしても、動き出せる気がしない。
自分はもう完全にどこか壊れているのではないか、とさえ思う。
暗闇ばかりが占める未来へ進んでいける気がしない。
それだけのことを、他人に――幼馴染にしてしまったのだから。
(ダメだ……。まだ会えない)
こんな自分では――
祖父にとって自慢の孫などではなくなってしまったこんな自分では……。




