Trèsor――Ⅱ(10)
ジムのシャワー室を借りて小ざっぱりし、ケンジと二人ああだこうだと言い合いながら【Trèsor】に帰り着いたころには、時刻は二十時をまわっていた。
それほど長居するつもりはないと聞いた気はするが、たっぷり二時間は経過しているではないか。
すっかり失念していたが、店やいずみは大丈夫だっただろうか……と今さらながら案ずる気持ちがせり上がってきた。
「おおー、ずいぶんシゴかれたみてえだなー」
「だあーいじょぶかあ?」
連れ立って店に舞い戻った二人を目にするなり(というか疲れ果てたうえに仏頂面で右頬を押さえ込んだままの翔を見るなり)、中央のテーブルからライダーたちが愉しそうに声を張り上げた。
ものぐさ店長の予想どおり店内に他の客の姿はなく、カウンター内のいずみも「おかえり」といつもどおりやわらかく微笑んでいる。
(何ごともなかったんなら、よかった……)
穏やかな様子の彼女の姿に、翔は密かに息をつく。
いずみと仲間たちに礼を言いながら、ケンジが真っ直ぐに奥のスタッフルームへと向かっていく。
そんな彼をやり過ごし、ライダーたち四人が豪快に笑いながら翔をテーブルの輪の中へと迎え入れた。
「どうだったよ? 初のボクシングは?」
「打たれたのか? そこ」
「後でイイ青アザになるぞーそれ」
「イケメンが台無しじゃん」
「……」
なんでそんなに愉しげなんだ……と気にはなったが、まあいい。今は置いておく。
痛む口の端を無駄に動かしてまで言及することでもあるまいと判断し、右頬付近を押さえたまま翔は憮然とソファに腰を下ろす。
今はとにかく体が重く、疲労感、脱力感が半端なかった。
腕も思うように動かせない。
右頬を押さえ続けるのも一苦労で、疲れのあまり一定時間毎に左右交代しながら、といった有りさまだ。
今でこうなのだから恐らく明日はもっと大変なことになっているかもしれない。
ひどい筋肉痛で腕が上がらず、箸一本さえまともに持ち上げられないのではないか……と恐ろしい未来を想像して思わず天井を睨み上げる。
驚くべきことに、なんとあれから結局スパーリングにまで持ち込まれ、1ラウンド終了を待たずしてケンジに殴り倒されてしまったのだ。
「大丈夫大丈夫、ビビんなって。本気で反撃しねえから」という茶髪男の口車についうっかり乗っかってしまった自分が恨めしくて仕方がない。
しかもミット打ち終了を待たずして始まったあの低レベルな言い争いから――というしょうもない流れだったため、ケンジは攻撃用のグローブではなく、受け専用のパンチングミットのまま。
それも「本気」からは程遠いパンチ(とさえ呼べないような軽い当たり)。
にも関わらず、衝撃に耐えられず膝をついてしまったのだ。
己の弱さと情けなさに呆れ、なおさら悔しさに拍車がかかっているといった状態なのである。
とはいえ――
「……ひどくねえ? 初心者にさ。イジメじゃん……」
恨み言の一つも吐き出したくなるというものだ。
初めてボクシングジムに足を踏み入れ、基本姿勢を理解してやっとサンドバッグやミット打ちを経験したばかりの初心者相手にまともに(『マトモじゃねえぞあんなの。全っ然。軽く弾いただけだ。つか避けただけ』と本人言い張っているが……)打ち込んでくるとは何ごとだ。反撃しないと言っておきながら。
しかも普通、ズブの素人相手にいきなりのスパーリングはしないのだという。
「いやー、わりいわりい。おまえがあんまり生意気なんでつい」
黒エプロンを片手にいつの間にか小部屋から出て来ていたボスライオンが、真後ろからぐりぐりと頭を撫で付けてきた。
悪びれるという言葉は、どうやら彼の辞書にはないらしい。
「いや、全ッ然理由になってねーからそれ!」
意地悪く笑んだ表情を見ると、やはり最初からアレを狙っていたのではないかと思えてしょうがない。
鬱陶しい撫でくり攻撃を払いのけようと、思わずブンと大きく振り上げてしまった拳。
「おお、意外にまだ動けんじゃねえか。フラフラだけど」
「……!」
あっさりとそれを躱し、ケンジが声を立てて笑いながらカウンターの方へと戻っていく。
元より当てるつもりなどなかったが、軽々と避けすぎだろあのヤロ……と胸中で悪態をつきながら捻っていた体を戻した拍子に、唇の横から頬にかけてじわりと響くように痛みが伝わってきた。
「……ってえ」
ケンジが「回避」と言い張る「払い」に無様に当たって倒れ込んでしまった瞬間の記憶までよみがえってしまい、思わず顔をしかめる。
とにかく一方的にやられすぎて(というか勝手にダウンしただけ)、反撃のチャンスすら見出だせずに終わってしまうほど自分だけ疲れ果ててしまっていたことが面白くないのだ。
初心者なのだから、これも当然といえば当然なのだろうが。
「……っきしょー。ジジイ、いつかぜってー負かす……!」
「おう、いつでも来い」
ぼそりと出てしまった負け犬の遠吠えとも取れる独り言に、すかさず自信ありげな応えが返る。
ささやかで密やかなリベンジの誓いは、カウンター向こうにばっちり拾われていたらしい。
「けーどよ、まずそのヒョロヒョロの体どうにかしてからだな」
「!?」
「とりあえずアレだな。翔さっき教えた筋トレとランニング、騙されたと思ってこれから毎日やってみな。最低3セット。あー……いや、もやしじゃ2セットが限界か? 1セットもキツイかあ?」
「だからその『もやし』って――!」
「じゃあせめて飯は倍食え。そうすりゃ今よりちったあマシになんだろ。せめてアスパラくれえには。――――ま、続けばの話だがなー、ははははははは」
「!!」
面倒くさいのは嫌いだが負けっぱなしで終わるのも癪だ。
この相手には特に。
(や……やってやるし!)
プロ志望だったか何か知らないが、いつか絶対打ち負かしてやる。
そのための努力なら厭わない。
おーし、やってやるとも。
彼が2セットというなら3セットでも4セットでも、陰で密かに取り組んでやる!
ケンジの高笑いが響く中、そう確固たる誓いを立てる翔の頬に――
突如ピタリと、冷たく固いものが触れた。
「うお……っ!」
「あ、ごめんね。びっくりさせちゃった?」
氷水の入った鮮やかな青色の氷のうを手に、いずみがすぐ右横に立っていた。
(……ち、近っ!)
『ごめんね』などと発してはいるものの、屈み込んでくるいずみの顔が冗談ではないというレベルで近い。
氷のうばかりではなく彼女自身の頬まで触れてしまいそうな距離に、座ったままの椅子を思わずガタリと鳴らしてしまう。
「あ、こらっ。動かないの!」
「う……」
わたわたと焦ってぎこちなく身動きしたところ、構わず腕を引かれ、痛む右頬にそっと氷のうを押し当てられた。
「少しでも早く冷やし始めたほうがいいんだから」
心配げに患部を覗き込むいずみの顔が、ふわりと揺れるやわらかそうな前髪が、当たり前だがますます近付いてくる。
(――ってか、い……息が! 息がかかってんスけど!)
「ふふ。ジムのひとたちよく来てくれるから、アイシング用に常備してあるの」
「あ……ど、どもです。……ってか、ちょ――」
「え?」
いつしか心臓はばくばくと謎の自己主張に励んでいた。
「や……もう、あの……じ、自分でやるんで」
「そう? じゃあ、はい」
「あ……アリガトウ、ゴザイマス……」
突然の冷たさもさることながら、ガンガンに火照った顔に触れてしまったいずみの指の感触が思いのほか細く、冷たくて。
控えめなその笑顔が、なぜかいつになく綺麗に見えてしまって――
一瞬、我を忘れた。
(な、なんで俺……急に、こんな……)
儚げな印象を帯びているのにもかかわらず、いつにも増してむせ返るような甘い香り。
隣に立っているだけなのに、いずみの放つ香りに――気配に、全身すっかり取り込まれ絡めとられてしまうような錯覚をおぼえる。
いつもと同じ香りのはずなのに。
いつもと変わらない、飾らない自然体なままの彼女に触れられて微笑まれただけ――で?
(接近しすぎてしまったから……? ただ単に虚をつかれたから? そ、そうだ……他に理由なんて……。だって別に、今まで何も……)
何が未だ鼓動を活発にさせているのか、わからなかった。
「しっかり冷やすのよー? 本当にイケメンくんが台無し」
やわらかな笑みが宿る彼女の顔も、今日はもう直視できる気がしない。
その理由もよくわからない…………が。
「……」
そのままでいいのだ、と――
むしろ、わからないままでいなければ――と。
カウンター内のケンジの元へ戻っていく小さな背中をちらりと盗み見ながら、心の何処かで思ってしまった。




