Trèsor――Ⅱ(9)
「おし。来てみろ」
両手にはめた赤と黒のパンチングミットをバンバンと数回打ち鳴らして、ケンジが悠然と構える。
「さっき教えたあのフォームのままな。おら、構え。左手は?」
「え……っと、『こめかみのあたり』」
「脇もっとしめろ。で、右手が――?」
「『顎の、横』……?」
鏡の前での指導を反芻しながら、言葉どおりのポーズをとっていく。
「そうそう。…………うわー。あっという間にサマになりやがってマジでムカつくわー。モヤシのくせに」
「は?」
「なんでもあっという間にそつなくこなしちまえるおまえにイラッとする。モヤシだけど」
「はああ!?」
教えておいてそれは何だ。
そしていちいちモヤシを強調するなと言うのだ。
「ケンジ、おまえ大人げねーぞお」
「ぶはははは」
周りからすかさず笑い声や野次が飛んでくる。
「確かに。最初にここに来た時のケンジより遥かに巧そうだわなあ」
「ヘッタクソな上に生意気でしたもんねー」
「ケンちゃん、しっかりー!」
「おまえらうるせえ! 船さんまでひでえ! ってか『ケンちゃん』はやめろ!」
「おらおら、教える側が気を散らしてどうするんだ? しっかりサポートしてやれー」
船さんの指摘に言葉を詰まらせ、あからさまに憮然とした表情になりながらも再度パンチングミットを構えるケンジ。
「……んじゃ、来い。まずジャブな」
(脇を締めたまま、内側に引き付けるようにして勢いよく――繰り出す!)
教え込まれたフォームを反芻しながら、ミットの中央めがけて一発左を当ててみる。
スパン、とサンドバッグよりいい音が響いた。
「おお……」
「自分でビビってんじゃねーぞ。おらもう一回。素早く戻す。はい、もういっちょ左! 戻すだけじゃなくそのままガードな! おし来い。ジャブ! そうそう。おら、もっかい!」
テンポよく飛んでくる声に反応して、いつの間にか重さの抜けていた体が軽やかに動き、腕も自在に振り抜けているような気がした。
「脇開いてきたぞー。きっちりしめろー。はいジャブ! そうそうそう。もういっちょ!」
(うわ……やっべ。ミット打ちはちょっと楽しいかも……)
「おーしおし、じゃ続けてワンツーやってみな。こうだ、こう。『ジャブ、ワン・ツー』――ってタイミングでな」
「お、おう」
「さ、来い。ジャブ。ワンツー」
数瞬前のケンジの手本どおりに、左、左、右の順番で踏み込んで当てに行く。
靴底が床に擦れる音とともに、バンバンッ!と空気を裂くような音が鳴り響いた。
ささやかながらも誰かの「おお……」という驚いたような感心したような声が重なる。
「悪くねえ。もういっちょ。どんどん来い」
「おう……!」
嘘のような手応えと立て続けに響く革のいい音に、ものすごい勢いで気分が高揚してくる。
ダルさは残っているものの、今は繰り出すこの拳を止めようという気はさらさら起こらなかった。
――――が。
さらに2セット打ち込んだところで、ケンジの掛け声と動きがぴたりと止まった。
「……」
「え――な……何?」
呼吸を調えながら、神妙な面持ちで見下ろしてくるケンジを見つめ返す。
何かドジをふんでしまったのだろうかと、やや不安に襲われた。
「ああいや――細っこいけど体の芯がしっかりしてるっつーか、初動のキレがいいっつーか……。なんかスポーツやってたのか?」
「あ……剣道を、ちょっと……。……大昔だけど」
応えながら浮かび上がりかけるのは、祖父の顔。
湧きおこる懐かしさとともに、ふいに言いようのないバツの悪さが押し寄せる。
まったく意味はないが、思わずケンジからも目をそらしてしまっていた。
――『おじいちゃんも待ってるから……』
脳裏によみがえる瑶子の言葉。
(でも、俺は……)
まだ、何も変われていない。
この場に立ち止まったまま、少しの光さえ見つけられずにいるのに――――
「ああ、なーるほど。だからか」
ひたすら沈み込んでいくだけに思われた思考をかき消すように、ケンジのあっけらかんとした声が浴びせられた。
「はいはいはい。どーうりでねーえ」
「な……何だよ?」
合点がいったとばかりに、何やらやたら愉しげな響きなのが気になる。
響きばかりでなく、実際ケンジの口元に浮かぶのは明らかに愉悦の色。
「姿勢が良すぎんだよ、おまえ」
「え」
「構えだけは立派なモンだけど、動き出すとなーんか変だと思ってたんだよなあ。姿勢、まずどうにかしろ」
姿勢の良さがマイナスポイントになるとでもいうのだろうか。
生まれてこのかた初めて言われたが。
「ど、どうしろと……」
「もっとこう……屈みこんで、自分の内側守る感じで――」
(内側を守って……屈みこむ……?)
両拳を構えたまま、言われたとおり徐々に上体を倒していく。
言われてみれば脳内のボクサーイメージに少しずつ近付いてこれた気がする。
「そうそう――……って、やり過ぎ。お辞儀かよ!」
「!? だ、だって屈め、って……」
「程度ってもんがあんだろーがよ。真面目か! どこまで礼儀正しい剣道少年だよ! 俺には全っ然礼儀正しくねえくせによ!」
「真面目で悪いか! ってか教え方がマジで大雑把すぎるっつーの! 指示も過程も超テキトーっぽいし!」
「ああああああ!? んっとにクソ生意気なガキだな、オメーはよっ! ぬあーにが『格好良い』だ! 何でもできると思って調子こいてんじゃねーぞコラ!」
「何でもできるなんて思ってねーし! つーか何かってーとすぐガキ呼ばわりすんのやめたほうがいいんじゃねえ?! ジジイっぷり強調してるだけだと思うけど?!」
「ああああん?!」
「ンだよ!?」
互いににじり寄り、変に動いたら唇が触れ合ってしまうんじゃ……と思われるほどの至近距離にいつの間にか至っていた二人。
そんな状況にはまったく気付かず、怒りにまかせて歪めた顔面を突き合わせながらさらに火花を散らす当人たちを、いいモノ見れたとばかりに周りは囃し立てる。
「なにこれ、いいコンビなんだけど、この二人」
「イイ。大人げねえケンジがイイ!」
「いいぞ少年、負けるなー!」
四方から遠慮なくわき起こる笑いと声援。
その中心で、埒のあきそうにない攻防はその後しばらく続いたのであった。




