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陽だまりにて待つ!  作者:
第5章 Trèsor――追憶のはざまで――
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Trèsor――Ⅱ(7)




 車通りもまだそれほど多くない、ようやく薄墨色に染まり始めた街の中を、二人乗りの漆黒のVMAXが颯爽と駆け抜けていく。


「けど、いいのかよー? いずみさん一人で」

「ああ? なんだって? 聞こえねえ!」


 ちょっとやそっと声を張っただけでは簡単に走行音にかき消されてしまう。

 怒鳴る勢いで、翔は腹の底から声を張り上げた。


みーせ! これから混み始めるんじゃねえのー!? いずみさん一人で大丈夫かな、ってー!」

「ああ! ウチは夕方もそんな混まねえから問題ねえ!」


 必死でケンジの背中にしがみつきながらも、おいおい店長がそれ言っていいのかよ……と思わず唖然とする。


「そんな長く留守にするつもりねえし、あいつらもいるし! 大丈夫だろ!」

「……」


 本当は店の混み具合などではなく、(ケンジ)が居ない隙にもしまたあの二人組が来店したら……という心配のほうが大きかったのだが――。

 まあ本当に彼女一人を残してきたのではないということが、せめてもの救いだった。

 今はそう思っておくことにする。







 ◇ ◇ ◇







 いずみに断りを入れ、ライダーたちに無理やり店番を任せたケンジに連れられて向かった先は、店から数分の距離にある六階建てのビルだった。


 古いエレベーターが軽い音を立てて三階到着を知らせる。

 扉が開くなり、立て続けに何かを打つ乾いた音や人の声が幾重にも重なって響いてきた。

 とともに、ほんのりと漂ってきたのは革のような薬品のような匂い。


「ここだ」


 そう言ってケンジが正面の頑丈なガラス戸を押し開くと、一気に、いっそう大きく雑多な音が押し寄せてきた。

 威勢のいい掛け声や独特な呼吸音、縄跳びの音やテンポよく靴底が床に擦れる音。

 そしてあちらこちらでタイマーのような機械音や、打ち合うグローブの音が響いていた。


「うーっす。ちょい場所借りるぞー」


「あ、ケンジさん」

「ちーっす!」

「お疲れさまです!」


 どうやらここが、ケンジとヤスヒロが顔を出しているというボクシングジムらしい。


(おお……)


 クリアで明るい照明に白い壁、照り返しがまぶしいほどに磨き上げられた木目調の床。

 奥にまだ更衣室やシャワー室、トイレなどもあるようだ。

 予想以上に広く清潔感のある空間にまず呆けてしまった。

 何というか、もっと暗いどんよりとしたイメージがあったのだ。


 中央には青いシートの張られたリングが二面。

 意外に低めな天井からは数本のサンドバッグやら球体に近い黒い物体(パンチングボールというらしい)やらが物々しい雰囲気で吊り下げられていて、その隙間を埋めるようにウエイトトレーニングマシーンや見たこともない器具が床やら壁やらに所狭しと設置されている。


 一見至極健全で明るい空間ながらも、何とも言えない重圧感に思わず上げてしまった口の端がやや引きつった。 


(『ガキはガキらしく発散しろ』……って)


 ニンマリと笑った顔で付き合えと言われた時点で、ある程度予想はできていたが。

 発散の手段として迷わずボクシング(これ)をやらせに連れてくるとは、何ともワイルドなボスらしい。


(ワイルドっつーか単純っつーか……)


 完全に緩んでしまった口元をおっとイカンと隠しつつ、さらにぐるりと室内を見渡してみる。


 学生ふうの若い男子から会社帰りと思しき中年男性、さらにはごくわずかだが女性までいる。

 リングにいる人たちも含めて総勢二十名ほど。実にさまざまな年代の練習生が思い思いに汗を流していた。

 スパーリングだったり縄跳びだったり、シャドウボクシングだったりトレーナーから付きっきりでフォームの指導を受けていたり。

 各自それぞれの練習メニューに没頭しているといったところか。


 幾人かなんとなく見覚えのある顔も視界に飛び込んできた。

 もしかしたら一部では、練習後そのまま【Trèsor】になだれ込むという図式が出来上がっていたりするのかもしれない。 


 リングの向こう、鏡の前のスペースにヤスヒロの姿もあった。

 一人の中年男性を相手に姿勢の指導でもしているのか、自身の肘を触りながら和やかに何か話し込んでいた。



 とりあえず上だけ着替えときな、と渡されたTシャツに着替えて待つこと数分。


「おらよ。まずコレ」


 どこからか戻ってきたケンジから、唐突に何かやわらかい物体が放られた。


「え? ――っととと」

「それがバンテージな。新品だぞ」


 なんとかキャッチして見ると、きれいに巻かれたその物体は真っ白な包帯のようなものだった。

 包帯にしては厚みもありかなり頑丈そうではあるが。


「え、いきなり? 初心者も必要なん?」

「うちでは最初から巻かせてる。いいからホレ、同じようにやってみ。まず親指にそこの輪っか通して……そうそう、それな」


 すぐ隣に立ち、ケンジが同じような形状のやや使い込まれた感のある黒い布を自身の手に巻き始める。


「んで、手の甲側からぐるっと手首の方いって巻く」

「甲側から手首の方にいって……巻く」

「そそ。んでまたこっちから戻ってそこで巻いて、ここと同じ幅で山を作る。打った時に当たるのがここな。おまえは――四往復くれえかな」

「四往復……っと、こうか」


「………………おまえ、器用だな。なんかムカつく」


「はあ?」

「もっとモタついてくんねーとツッコめねえだろが」

「目的なに……?」


 おかしな掛け合いをしながらも両手分のバンテージを巻き終えたころには、すっかり気分が高揚しているのに気付いた。

 白でピシリと覆われた拳。

 自ずと身が引き締まる。


「気分が違うだろ」


 お見通しと言わんばかりにケンジが高々と口の端を上げた。


「お、おう」


 まだ何もしていないのに、少しだけ強くなったような気にさえなってくるから不思議だ。

 自分もなかなかゲンキンな性分だったのだな、とあらためて自覚する。


「ほんじゃグローブはめてリング入れー。さっさとしろー」

「え、……って、え!? もう!?」 


 そんなにいきなり入っていいものなのか。

 というか、何も知らないのに突然打ち合い?


「せ、せめて準備運動とか……? け、ケガ予防に何か……」

おまえは生意気だから省略」

「何それ!?」


 しかも理由がとてつもなくおかしい。


「こらー、駄目だぞケンジ」

「ちゃんとやらせてからにしろ」

「会長に言いつけるぞー」


 いつの間に見られていたのか、周りにいたジムのロゴ入りTシャツを着た男たちから笑いを含んだ声が飛んでくる。


「(舌打ち)……んじゃホレ。縄跳びから。跳べ。三分。テキトーに」

「…………」


 あからさまに面倒くさそうなオーラが漂ってくるのはどういうことだろう。

 最初に舌打ちまで聞こえたような気がするし。

 付き合えと言ってここに連れてきたのは誰だ?と声高らかに言いたい。


「終わったかー? 終わったなー? んじゃ次、基本フォームな」

「フォーム?」

「そそ、基本姿勢。初めの一番いっちゃん大事だからな。あとフットワークとか」

「……」


「それが終わったらサンドバッグ行って、次ミット打ち。で、ようやくリング上がってスパーリング」

「ちょっと待て! やることめちゃめちゃ多いじゃねーか! どんだけすっ飛ばす気だったんだアンタ?!」


「……うるせえ。いちいち過去を振り返ってんじゃねえ。小せえ男だな」

「いい加減! テキトーすぎ!」

「ちっ。今日はスパーまで行けねーか」

「鬼?! っつーか聞いてる!?」


 初心者相手にまともに打ち合いに持ち込んだあげく、殴り倒してやろうとでも思っていたのだろうか。

 そんな仕打ちをされるほど……自分は何かしでかした?

 生意気だった、ということだろうか?という不安が一瞬だけよぎる。


 ――――が。

 それほど間を置かずにいやいやいやいやと振り始めた頭。

 どう考えてもこの男がおかしい。やることなすことテキトーすぎるし横暴だ。

 店での対応と一緒ではないか。


(悪くない悪くない。俺は絶対悪くない……たぶん)


 そのままあーだこーだと言い合いながら鏡の前まで移動して、一通り基本のフォームを教わる。


 ジャブ、ストレートなど、言葉だけ何となく聞いたことはあった。

 が、どんな形で繰り出されるパンチなのか、身体全体の動きを細かく修正されながら詳しく教えこまれるのはもちろん初めてのことだ。

 重心移動だの腰のひねりだの脇をしめろだの……ここぞとばかりにドヤ顔で指摘されまくったものの、構えについてだけは「……まあ、そんなもんでいいんじゃねえの?」とものすごく不服そうに超小声で吐き捨てられ、ああ一応これでも褒められたのか、と微妙な気分ながら悟った。


 続いて「じゃあやってみろ」と移行したサンドバッグは――――

 超絶ハードだった。

 初めて装着したパンチンググローブは重さはそれほどではないのだが、とにかく大きくて違和感が抜けない。


「まーだ曲がってんぞ。当てる時は拳まっすぐ! んで顔の高さに!」


「え……俺まっすぐ当たってねえ?」

「ねーな。しっかり曲がってる」

「……」


「違う違う違う。押すんじゃねえ。弾くように打つ。こうだ、こう!」


 横から完璧なストレートフォームでケンジが手本を示してみせる。

 サンドバッグもさほど揺れず、パン、と小気味いい音が響いた。


「…………(ぐっ、さすがに格好いいなオイ)」


 同じようにやっているつもりでも、なかなか思うようにはいかない。

 手応えはイマイチだし、返ってくる音もモサッ、パスッとどうにもパッとしないものばかり……。


「こらーーーー。腕だけで打とうとすんなーー。腰使えーー」


 もっといい音を立てて気持ちよく連打できるものと思い込んでいた(勝手な思い込みだが)ためか、あっという間にシンドさとモヤモヤのほうが大きくなり、すかさず飛んで来るケンジの注意もいちいち癇に障る。

 そして、打ち当てる一発一発がとにかく重い。

 重くていいパンチという意味ではない。一振り一振りがやたら鈍く、思いどおりに腕を振れてるようには感じられない。


 要は――――バテたのだ。

 素直に認めざるを得ないが、いくらなんでも始めて数分でこの状態になるとは正直思っていなかった。

 驚いたとともに、おそらく明日はこれまでで一番の筋肉痛に苛まれることになるだろう、と密かに覚悟する。

 そして明らかに八つ当たりになってしまうだろうことはわかっていたため、あれこれ言い返すことはせずグッと堪らえた。

 その反動か、最後の最後は意地でも渾身の一発を決めてやる!と思ったのだが――。

 つい倒れこむようにまたも押し込んでしまい、重いサンドバッグを不必要に大きく揺らしてしまった。


(うっわ……マジでしんど……)


 ゼイゼイと大きく肩で息をするのに呼応するように、目の前で黒いサンドバッグが未だ小刻みに震えている。

 振動でギイギイと金具が小さく悲鳴を上げていた。



「――――キッツイだろ?」


 ガラリと調子の変わった、やけに神妙なケンジの声が届く。


「たばこ。気持ちはわからくはねーけど、やめとけ。まだ早え」


「!」







バンテージ、本当の包帯を使う人もいるしあえて巻かない人もいるようです。

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