Trèsor――Ⅱ(4)
「ふーっ、やっぱまだ暑ー……お、また来てる」
片手に大袋三つを提げ、空いた方の手でしきりに襟ぐりをはためかせながらケンジが大股で入ってきた。
今日の買い出し担当は彼、ということだったらしい。
「お、おう! 来てやったぜ」
「相変わらず減らず口ばっかだな。――ってか、なんで突っ立ってんだ?」
「え……あ、ああ……」
立ったままカウンター越しにいずみとやり取りしていたことにようやく気付き、あわてて手近なハイスツールに腰掛ける。
「なんだ、どうした?」
「え」
「珍しく怖え顔してるからよ。なんか怒ってんのか?」
「……や、別に……なんでも」
もちろん、怒ってなどいない。……が。
ワケがわからないとはいえ、よほど熱くなってしまっていたのだろうか……と、少なからず愕然とした。
「それにしても暑ーな今日。俺にもコーヒーくれ、アイスで。あちち……」
カウンターに荷物を下ろしながら、切り替え早くケンジがいずみに声を投げる。いつもどおりに。
「暑いなら脱ぎゃいいじゃん。無理は老体によくねーぞ」
我慢大会でもあるまいし、と捲くられてるとはいえ見るからに暑苦しそうな長袖シャツを指差してやる。
と――。
「……ふっ。……んだな。けどおまえ『老体』はねーだろ」
いつものように倍返しで小言か鉄拳が降ってくると思いきや。
コノヤロ、とばかりにニンマリ顔で翔の額を軽く小突くと、ケンジはそのまま奥の部屋へと向かった。
(えっっ……明日、槍でも降るんじゃ……?)
あの人物の珍しくやわらかめな対応に、半分本気でゾッとしてしまった。
完全にドアが閉じられるのを見計らってか、視界の端ですかさずいずみが動く。
カウンター向こうから身を乗り出すように、切羽詰まったような表情を近付けて――。
「――お願い、翔くん……」
ケンジには何も話さないでほしい、と。
小声ながら強く、念を押すように。
「――」
気を遣っているのは彼女のほうではないのか。
なんとなくそんな印象も抱いてしまった。
(なんで、そんなに……)
「お願い」
再度小さなつぶやきを残して、いずみがゆっくりと離れていく。
と同時に、微かに甘いあの香りがふわりと鼻先をかすめていった。
間もなく鳴らされた、来客を知らせる鈴の音。
「ういーっす!」
「いずみさん、こんちゃー」
いつもの気のいいケンジの仲間たちだ。
「おー、坊主!」
「あ……どもッス」
「今日もちゃんと放課後になってから来たのか?」
「意外と真面目じゃーん」
「エライエライ」
「はあ……まあ……」
仕事中なのか、ヤスヒロとスーツ男の姿はない。
が、にぎやかさがそれほど変わらないのはどういうわけだろう?
不思議なこともあるものだ、とぼんやりと考えながら曖昧な返事を返す。
「なんだなんだ、勢いねーな少年!」
「わかった。誰かにフラれたんだろ。そうだろ」
「ちょ……川っち、脚ジャマ。狭いんだからもっとそっち詰めて!」
「えええ、この長い脚をどうしろと?」
「んで、坊主。誰にフラれたって?」
「おにーさんたちに言ってみ? 笑っ――聞いてやっから」
「…………」
皆、思い思いに喋って笑ってどつき合って――
何というか、本当に自由な男たちだと思う。今さらだが。
「うーん、それにしても腹へったー」
「いっつらんちたーいむ!」
……そしてすでに話題は変わっているし。
「むしろ晩飯じゃね?」
「何でもいい、いい! かーっ、今日もいい走りしたねええ!」
「いずみさーん、何かテキトーに食わしてー!」
「ええー? 何かって何ー?」
ライダーたちのいい加減な注文を受け、カウンターの向こうでいずみがクスクスと笑っている。
やわらかな微笑み。控えめな笑い声。
こうして見ていると、いつもと何ら変わらない。――が……。
「高えモンばっか出してやれ、いずみ」
エプロンを付けながら、奥からケンジが出てきた。
暑がっていたわりには先ほどの長袖のままだ。
「あ、何だよケンジ居たのかー」
「何ィ? 居ちゃ悪いか」
「せっかくいずみさん口説こうと思ったのによー」
「ばけーろー、いずみは面食いなんだ」
「ど、どういうイミだ……?」
「ケンジひでえ……」
いつもどおりの他愛ないやりとり。ケンジもいずみも仲間たちも。
クスクス笑ういずみを何となく目で追いながら、つい重ね合わせてしまう。
先ほどの――二人組に絡まれて苛立ったような怯えたような表情をした彼女と、直後、それを知らせるなと懇願してきた切羽詰まった様子を――
「おい」
またもや額を小突かれ、いつの間にかカウンターを挟んだ真正面にケンジが来ていたことにようやく気付いた。
「え……? あ……」
「どした? 元気ねーな。具合でも悪いか」
「あ、や――別に」
「フラれたんだとよー」
「可哀想になあ。……って思ってねーけど! むしろざまあ!」
「まあ、人生いろいろなんだぞ。めげるなよ少年!」
何やら好き勝手言われているようである。
ちょっと待て、とさすがに眉間にシワが寄った。
「…………んなんじゃねーって。ただ、ちょっと……」
腑に落ちないことが――
そう思いながらケンジの隣をチラリと見遣ると。
いずみがじっと視線を向けてきていた。
不安を滲ませた、わずかに強張った表情で。
どうあっても喋るなということらしい。
「『ただちょっと』? どしたー?」
「カノジョとケンカでもしたか」
「なんだケンカだけか。まだフラれてねーのかよ……ちっ」
「まだ……って、そ、そもそもそんなん……居ねーし」
「え、嘘。居ねーの?」
「う……ま、まぁ」
「なんで?」
「な、なんで、って言われても……」
「絶対居ると思った」
「おう。面白くねーけど、おまえモテそうだしよ」
「口開かなきゃ問題ないんじゃね?」
「うん、あたしも居ると思ったー。翔くんカッコいいじゃない」
褒めているのか貶しているのかわからないライダーたちのヤジ(?)に、いつの間にかいずみまでしっかり同調してうなずいている。
「う……」
そう言われて、もちろん悪い気はしない。
むしろちょっと――いや、かなり頬が緩んできつつあったのだ――が。
あからさまに喜ぶわけにもいかず、微妙な気分で視線を泳がせかけたところに。
「……『格好良い』だ? このガキが?」
向かいからケンジがめいっぱい目を見開いて鼻先を指差してきた。
例のヤキモチとも取れるオーラを漂わせながら、「嘘だろ、マジで? こんなクソガキなのに?」と言わんばかりに仲間たちといずみに衝撃を訴えかけるような視線を向けて。
「んだとっ!? 『ガキガキ』言うな、このジジイ!」
「最近まで給食くってたガキが偉そうに『ジジイ』呼ばわりか? あああん?!」
「きゅ……給食って……か、関係ねーだろっ!?」
「ねえ、翔くんって……」
一触即発の空気にはお構いなしに、いずみの意外そうな声が響き渡った。
「もしかして、女の子と付き合ったことって……ない?」
「!」
ぐっ……と言葉を詰まらせながらも何でもないことであるかのように、なるべく冷静を装ってみせる。(すでにバレバレで無駄かもしれないが……)
湧き起こるこのバツの悪さのようなものは何なのだろうか。
「う……まあ。あ……あんま、興味なかったし」
ぼそりとつぶやいたところで、なぜかハッとしたようにケンジが後ずさり始めた。
「は? お、おまえまさか……。……言っとくが、俺はソッチの趣味はねーぞ?」
「俺だってねーよっ!」
ガタリと音を鳴らして立ち上がりながら、ちょっと待てーい!と心の声がすかさずツッコミを上げる。
「べ、別に……た、ただ付き合いたいとか思うほどの相手が、居なかった、っつーか……」
「けど坊主よ、コクられるとかはあっただろ? 今までによ」
「ま……まあ」
「ほら、あるんじゃねーか!」
「っかーーー! かわいくねえええ!」
「なんて贅沢なっ」
そうは言われても……そんな気にならなかった。
本当にただ、それだけだ。
「――けど。……ふっ、そうか少年」
ふいにロン毛のライダー――川っち――がニヤリと片方の眉をつり上げた。
「ってことはまだか」
「!?」
「ふふふ、そーかそーか」
「いーねえ、初々しいねえ」
「な……っ、なんだよっ」
とたんにやたら愉しげにふんぞり返り出した男たちに、思わず食って掛かっていた。
この年齢差でそのテの話題は反則ではないのか。
どう考えても勝てるわけがないではないか。
「馬っ鹿だねえ少年。とりあえずは付き合ってみるモンなんだよ」
「そうそう。何ゴトも経験しとかねーと、オトコ上がらねぇぞ?」
「うー……」
そう、なのだろうか?
「顔がイイとか威張ってるだけかぁ?」
「るせーなっ! ……ってか、いつ威張ったよ!?」
「もう何つーかね、キミの顔と態度が」
「そうそう。滲み出るオーラがもうダメ。威張ってる」
「立ってるだけでもうダメ」
「はあああ!?」
どうしろと言うのか。
塚本らといいこの男たちといい、何やら謂れなき非難を四方八方から無駄に浴びせられているような気になってくる。
「なんか……ケンジみてーだな、翔」
翔の愕然とするさまを面白げに見つめたまま、男の一人が感心したように口を開いた。
「何いィ? 俺をこんな翔と一緒にすんな!」
「はあぁ? なんでこんなジジイと一緒に――」
丸かぶりしてしまった事実に思わず向かいのケンジと顔を見合わせ、揃ってぐっ……と唸る。
「ほら、よく気も合うし」
「兄弟か」
「うははは。翔もアタマ染めてみ? もっとそっくりになんぞ」
全身で威嚇し合う二人を遠くから眺めて存分に沸いている仲間たち。
そもそも誰のせいでこういう話題になったのだったか。
そう思いながらギロリと振り返ってライダーたちを睨んでやる。……もう考えるだけ無駄な気がするが。
とにかく、何があっても絶対茶髪にだけはするもんか!――とこの日この瞬間、強く決意したのであった。
テーブルの輪の中にケンジも加わり、それぞれが思い思いに盛り上がるなか。
やはり気になって、こっそりといずみの様子を窺う。
「……」
そんなささやかな視線に気付くことなく、相変わらずやわらかい……が、少しだけ不安そうな色が浮かんだ笑顔が、ひたむきにケンジを追っていた。




