Trèsor――Ⅱ(3)
「いい加減にして!」
わずかに開いた隙間から漏れ聞こえてきた声に、店のドアノブにかけた翔の手が固まった。
(え……)
怒鳴り声に近いくらいの大きさで店内から響いてきたその声は、明らかにいずみのもの。
あまりに意外でしかも唐突なあまり、そう気付くのにも少しばかり時間を要してしまった。
(やっべ……。ケンジと何か――ケンカ中とか……?)
まさかの男女の修羅場に遭遇してしまったのだろうか。
そう思うととたんにどうしたらいいのかわからなくなり、夕暮れ時の店周辺を意味なくキョロキョロと見回してしまう。
まだこちらの存在には気付かれていないようだし空気を読んでこのまま立ち去るべきだろうか、とわずかにバックしかけた時。
「やめてったら。仕事中なんだから……!」
「いーじゃん、固いこと言うなって」
「!」
いずみを遮るように発せられた軽薄そうな声があの聞き慣れた人物のものではなかったことに気付くなり、思わずがあんと音が鳴るほど強くドアを開け放っていた。
「――!」
突然勢いよく開けられたドアとけたたましく鳴った鈴の音に、カウンター前の通路に居た三人の視線が一斉に入り口に注がれる。
「あ……翔くん、い……いらっしゃい」
やや強張ってはいるが、幾分ほっとしたような笑みを浮かべて、いずみ。
カウンターを背にした彼女と。
それを不自然にかなり近い距離から取り囲むように立つ――どう見ても、迫ってカウンターまで追い込んだという状況の――例のガラの悪い男二人組。
ケンジも客も他には誰も居ないようだった。
「――」
平日は特に客が少ないというのは今に始まったことではない。
が、数瞬前がどんな場面だったかなんて誰が見ても明らだ。
「ああ? 何、おまえ?」
手前にいた派手なシャツの男がゆらりと反応した。
邪魔されたことに対する怒りか、ついまともに見続けてしまったことが気に障ったのか、苛ついた表情と声で入り口の翔に向き直りながら。
「何だって訊いてんだよ、このガキ――」
「おいやめとけ。ほら、こいつアレじゃん。ケンジの……」
忌々しげににじり寄って来ようとする相方を引き止め、後ろの男が顎でしゃくって吐き捨てた。
何かに思い当たったのか、ああ……とつぶやいて舌打ちする派手シャツの男。
さらにひと睨みしてから、二人は荒々しく肩がぶつかりそうな勢いで横を過ぎ去り、またもや乱暴にドアを開け放って出て行った。
「あ……。しょ、翔くん座って? 何飲む?」
ハッとして、唐突に努めて明るく声を張り上げるいずみ。
何ごともなかったかのように取り繕って、無理やり笑顔を浮かべようとしているのが見え見えだ。
「――」
「そうだ、今日はちょっと良い豆が入ったのよー。ちょうどねえ淹れたて……の――」
説明を求めるようにじっと向けていた視線にさすがに気付いたのか、いずみから不自然な笑みが消えた。
そのままバツが悪そうに目線を落とし、小振りなトレーをキュッと胸に抱え込む。
「……ケンジには、言わないで」
うつむきがちな表情から消え入りそうな声がもれた。
「『言わないで』って……」
第一声が、それなのか?――と少なからず驚きだった。
二人組に迫られて困っていたのはいずみのほうだ。どう見ても彼女が被害者のはずなのに――。
「お願い、翔くん」
「……」
なぜ彼女のほうがこんな――発覚を恐れるような表情をするのだろう。
何か理由が……?
わからない。わからない、が。
「いずみさん……もしかして初めてじゃない、とか? こういうこと」
「え……」
先日の微妙な空気の変化に合点がいった。
いずみはあの二人組に極力関り合いにならないようにしていた、のではないだろうか。
だからあの時もわざわざ用事を作って、パンをケンジに持って行かせていた――?
それに、思い返せば結構な頻度であの二人組が来ていた時に限っていずみが買い出しとして出掛けていた――ような気がする。
「今までにも何回かあった、とかじゃないスか?」
ああいった状況になるのを避けるため、と考えるなら何もかもすんなりと納得できる。
「……」
責める気はさらさらなかったしそんな権利もあるはずがないのだが、知らず問い詰めるような流れになってしまっていた。
容赦なく真っ直ぐに見据えての問いかけに、もうはぐらかすことなどできないと観念したのか、力無くいずみがうなずいた。
「……たまに、だけど……。そう……。しつこくて……」
「――」
それでもやっぱりわからない。
彼女がすすんで他の男と不誠実な行いに及んでいたわけではあるまいし、なぜこんな悪びれた表情をしなければならないのか。
被害に合っていることをなぜ恋人に――ケンジに隠そうとするのか。
「だったらなおさら、ちゃんと言って助けてもらえば? 彼女なんだから」
仲間たちに一目置かれている、かなり影響力もあるだろう存在のケンジ。
自分の彼女に妙なちょっかいを掛けてくるような奴らを排除することなど、彼にとっては容易いのではないだろうか?
いずみの懇願が理解できず、自然、ぐにゃりと眉根も寄ってしまう。
――――と。
「え……」
か細い声とともに、目の前で徐々に見開かれていく瞳。
「――『彼女』って……ケンジが、言ったの?」
見上げてくるいずみの瞳には、紛れもなく驚きの色が灯っていた。
(え?)
「あ、や……他の人、だけど……」
何とも言えない妙な沈黙が流れた。
「そう……。……あ、こ、コーヒー……ホットでいいのよね?」
伏し目がちに少しだけ笑顔を見せてから、気を取り直したようにパタパタとカウンター内へと回り込むいずみ。
「あ、翔くんお腹空いてない? サンドイッチとかならすぐ作れるけど。それかパンケーキとか……あ、焼きうどんもできるよ? あと――」
「い、いや……ちょっ……いずみさん!」
無理やり気分と話題を変えようとしているいずみの声を、思わず遮ってしまった。
ここで話を終わらせてはいけない。
一瞬沈んだように見えた彼女の瞳を見て、そう確信した。
「え、だっていずみさん――『彼女』なん……スよね? あのひとの」
ライダーの一人から確かにそう教えられた。
二人を冷やかすような話題が時折ナイショ話として持ち上がっていたことからしても、仲間内での共通認識としてもそれは間違いではなかった……はずである。
意外に似合う二人だと、自分も事ある毎に思っていたし。
「…………そう、なのかな……?」
「『なのかな』……って――」
「わかんない」
「はァ?」
眉間のシワは解消されたが、思わずぱちくりと瞬きを繰り返してしまう。
自分が「彼女」かどうかわからない――――ようするに微妙な関係の二人、ということなのだろうか。
ケンジの態度や言動――狼狽えてピザを潰したり、恐ろしい笑顔で制裁を下してきたり――も、ただの従業員に対してのもの、と考えるにはあまりに無理があるし……。
ますますワケがわからなくなってしまった。
「ごめんね? とにかく……言わないで。お願い」
くるりと踵を返して、いずみがコーヒーマシンへと向かう。
手には見慣れたマグカップが強く握られていた。
完全に顔を背けられて、どんな表情をしているのかはわからない。
でも――
「なんで……スか? あの人だって、いずみさんがあんな目に合ってるって知ったら」
絶対どうにかしてくれるはず――
そう続く心の声を遮るように、かちゃりと目の前にコーヒーが置かれた。
いつもどおり、軽い音とやわらかな湯気を立てて。
「あたしのことに、これ以上気を遣わせたくないの」
「え……」
気を遣う――――とは、どういうことだろう。
普通に特別な人を心配する、というのとは違うのだろうか。
「や……けど、それって当たり前じゃ――」
重ねて食い下がろうと身を乗り出しかけた時、ドアの鈴が清らかな音を立てた。




