Trèsor――Ⅰ(7)
「いずみサン?」
「そ。あの女」
またもや男どもの陣取るテーブル付近で、翔。
掃除(してるフリしつつ一休み)しながら、情報収集に勤しんでいるのである。
「ケンジの女」
「へーぇ……」
教えられて、カウンターの傍らに立つ女性に視線を移す。
ゆるやかにウェーブのかかった髪の毛を肩よりも少し上で切り揃えた、小柄な女性。
ケンジと何やら言葉を交わしながら、奥の部屋から持ってきた黒いエプロンをつけている。
(だからって、あんなに――ピザを潰してしまうほど――狼狽えるかフツー?)
やや白い目でツーショットを見ながら、つい先ほどのケンジの失態を思い返す。
見かけによらず「純」なのだろうか?
超迫力な元ライオンにまたもや意外な一面が――?
(でも)
手を止めて、再度ちろりといずみと呼ばれた女性を窺う。
(……似合いといえば似合いかも)
決してド派手な美人というわけではないが――
ケンジとの会話の端々に、時折パッと笑みが宿る女性。
ささやかに控えめに、けれどごく自然に、見ている者を妙に安心させるように彼女は笑う。
ラフなTシャツ、ジーンズにまだら茶髪の野生顔だが、妙に仲間に慕われる、街なかで見知らぬ人間を助けてしまうような男に、線の細い物腰やわらかな、キレイというよりは可愛い系の女――――
ふと、何かの拍子にこちらを向いた彼女とマトモに目が合ってしまった。
手に店のモップを握る少年を見て、いずみの表情がぱっと華やぐ。
「あ、バイトのコ? 雇ったんだ?」
「今日だけな」
憮然として隣のケンジが付け加えた。
ったくこの俺様のメシをタダ食いしようとは……とぼやきながら、咥えたたばこに火をつけている。
修復を終えたピザはとうにオーブンの中に放り込まれているらしい。
香ばしいピザ生地とチーズの匂いがゆったりと流れてきて鼻をついた。
おいでおいでと手招きされて近付いた翔を、低い位置からいずみが微笑んで見上げた。
「何歳?」
「あ……十六」
答えるやいなや、ケンジの指からぽろりとたばこが落ちた。
「じゅ……っ、じゅうろくだあー?」
「なっ、なんだよっ」
真ん丸に目を見開かれて思わずムッとしてしまう翔である。
「高校生だとは思ってたけど、まさか十六歳とは……」
信じられんと言わんばかりに首を振っていたケンジが、はたと顔を上げた。
「――おい、まさか高一とか言わないか?」
「……そーだけど?」
「そしたら何か? ついこないだまで、まだ中学――」
「だからそれがどうしたよっ!?」
言わんとすることを何となく想像できてしまうだけに、つい声を荒らげてくってかかってしまう。
「……ホントにホントのガキだったんだな、おまえ……」
はぁーあ、とわざとらしくため息までつき始めるケンジに、もちろん翔も黙ってはいなかった。
「っるせぇなっ、ジジイ!」
「じ、ジジイ?」
思ってもみなかった反応に、ケンジは心底驚いて目を瞠る。
「まだ二十八だぞ……」
「立派にジジイだ、ジジイ!」
「こンの……ガキっ!」
仕返しとばかりに声を張り上げる翔にとうとうキレたらしい。
大人げなくもケンジは、小生意気な翔を羽交い締めにして首をぐいぐい締め上げ始めた。
「な……っにすんだ! 放せクソジジイー!」
「まだ言うかーっ!」
「ぐぇっ……大人げねーぞぉ! ジジイたるもの、もっと寛大にぃー!」
「ホンっっっト、かわいーなぁおまええぇぇぇー」
「うぇ……やめろーっ!」
すでに店内、大爆笑の渦である。
二人のやり取りを笑う大声や、いいぞーもっとやれやれーなどとさらに煽る声が頻繁に飛び交う。
そんな中、一人驚いた顔でいずみが二人を眺めていた。
……が、その見開かれた瞳はじゃれ合うような彼らを追ううちに、次第にやわらかく細められ、優しげな色を帯びたものに変わっていた。
◇ ◇ ◇
帰り際。
今日はやけに首が攻められるな、とブツクサ言いながらドアへ向かう翔に、くすくす笑いながらいずみが見送りをと続いた。
「驚いたあ……。あんなケンジ見たの初めて」
あんな――
大人げなく狼狽えたり怒ったりするところだろうか。
ふんわりと優しい笑顔のままの彼女を見返り、うーむと翔が唸る。
あらためて近くで見ると彼女は――やはり小柄である。
目線にゆるやかなウェーブを捉えた時、ふいに何かの微かな香りが嗅覚をかすめた。
(香水……?)
初めて感じた類の、甘すぎず控えめな――ごく爽やかな……。
「もうちょっとゆっくりしてけばいいのに」
その香りを形容しきれぬうちに、残念そうないずみの声がやわらかく響いた。
「あ、いや。早退した病人を心配して親戚から電話があるとマズいんで」
「そっか」
少年の返答にわかっているのかいないのか、微妙な笑みをこぼして彼女は少しだけ首を傾げる。
それから、わずかにあらたまって翔を見上げた。
「あ、あたしはいずみ。あなたは?」
「……翔」
少し考えて、先方に倣って名前のほうだけを告げる。
「翔くん、か。また遊びに来てね?」
「あ、うん」
不思議と少しのためらいもなく吐き出された素直な返答。
優しげな彼女の笑顔と、絶対来いよーというライダーたちの豪快な誘いがそうさせているのだと、翔は暗に感じていた。
――――が。
「もう来んな、サボり小僧!」
突然カウンター内から響く不機嫌そうな声。
未だふてくさっているのかジジイ――もとい、茶髪の青年があさっての方角を見ながら眉根を寄せ、すぱすぱと喫煙に勤しんでいる。
(そうきたか……)
自分の目が徐々に据わっていくのを感じながら、盛大に反論をかましてやろうと翔は深々と息を吸い上げた。
「ぜってー来てやる!」
◇ ◇ ◇
「あ、本当に来やがった」
入口ドアの鈴が鳴るやいなや、呆れ返ったようなケンジの声が届いた。
「来てやる!」と宣言したとおり、いずみに教えられた近道を通って翔は再び【Trèsor】に足を踏み入れていた。初めてここを訪れてから四日後のことである。
一瞬止まっていた食器を拭く手をせかせかと動かし始めながら、粗野な雰囲気そのままに茶髪青年は「信じらんねえ」と大げさにため息をついてみせた。
「悪いか」
もう一度鈴を鳴らしてドアを閉めた後、翔はケンジから最も離れたカウンター席にどかっと腰を下ろす。
そんな二人の様子にくすくす笑いながら、いずみがコトリとコーヒーを置いてくれた。
目の前でふわりと立ち上る白い湯気。
「あ、ども」
「ホントはね……待ってたみたいなのよ、翔くん来るのを。よっぽど気に入られたのね」
恐縮してぺこんと頭を下げる翔をよそに、相変わらず柔和な笑みをたたえたまま彼女は声をひそめる。
誰に?と思わず本気で聞き返したくなってしまう発言だ。
「まさか」
それは絶対ありえん、とばかりに翔は小さく手のひらをはためかせた。
「何コソコソ話してんだ?」
目ざとく耳ざとくケンジが睨みつけてくる。
「……すっげえ地獄耳……」
「ああん!?」
「いや、まあまあまあ……。あれ? 今日はあの人たち来てないんだ? バイクの――」
目の前の二人以外、人の気配がないことは入店の際すでにわかっていたのだが、思わずぐるりと店内を見回してしまう。
この前と違うことと言えば、あのにぎやかな男たちが居ないことだ。
一瞬、奥の部屋にでも?とも思った。
世に言うスタッフルーム的な空間だということは前回のうちにライダーたちの口から聞かされていた。
店員の休憩室であるその部屋は、ちょっとした備品置き場にもなっているのだという。
しかしながら、仲間内(?)にケンジの目を盗んで何かしら悪行に及ぶ連中も居ただけあって、もはやスタッフ(ケンジといずみ二人だけらしいが)のためだけの部屋ではないのだろう、と翔にも容易に想像できた。
親しい仲間たちには自由に使えるようにでもしてあるのだろうか。
そのへんきっちり線引きしていないことが、なんとなく意外に思えた。
このキップのいい、粗野な言動の、仲間内に対して影響力の半端ない彼にしては。
「ああ、あいつらな」
憮然としたまま、それでもケンジは律儀に口を開く。
「さっきまで居たよ。ちょっと走ってくるっつって出てったけどな」
(……居たんだ。いったいどういう生活を送ってるんだ? 揃いも揃ってフリーターとか?)
またしても疑問は浮かぶが、そういう自分もまた学校抜け出しの身ゆえ突っ込まないでおくことにする。
今日も無事に(?)保健室経由で脱走してきたのだ。
「ふーん……。そういえば、あんたのバイクは? 店の前にあるのは違うヤツだよな」
今しがた通りがけに目にした黒い大型の単車を思い出す。
色こそ同じだが、それは先日補導員の前から乗って駆けた青年のあのバイクとは形状を異にしていた。
「……分かんのか? 俺のVMAX」
なぜかケンジが驚いて目を瞠っている。
「こないだあんたが引いてんの見たじゃん。つか乗ったし。それ忘れるほどボケてねーよ」
「けどそれだけでよく――……おまえ、ひょっとして頭よかったりする?」
自身の頭部を人差し指で指しながらケンジ。
「そういや補導員に『松浦第一高』っつってたっけ?」
「言っ…………た、けど――」
(あ)
あれは嘘だとここで言うべきか、一瞬考えてしまう。
何せ目の前の青年は「嘘」もキライな神様らしいから。
「おまえが? あの名門の『松一』? おまえが?」
「えー翔くん、すごーい」
……名門は名門でも別の高校なんだが――とは何やら言える雰囲気ではなくなっていた。
自分にとってはあまり聞き慣れない名の、だが彼らが名門と呼ぶ校名が出ただけでこの反応だ。
本当は県内屈指の超進学校、藤川洸陵だなどと申し出ようものなら、何を言われるかわかったものではない。
「別に…………普通だよ」
おとなしく口をつぐむことにした。
「えー、でもそんな優秀な生徒さんがそうやってわざわざ私服に着替えて学校抜け出しちゃって……いいの?」
たしなめる、というよりは純粋に驚いているといったトーンでいずみ。
良いか悪いかで言ったら、良いわけはないのだが。
「――そういういずみさんこそ、こんなトコで油売ってていいんスか?」
「ちょっと待て。これのどこが油売ってるように見えんだよ?」
すかさず反応したのはケンジ。
トレイを拭きながらにこやかにやり取りを見つめるいずみを指して威張る。
「立派な店員だ!」
「……」
なぜかドヤ顔で見下ろしてくる茶髪青年に、はあーっと大げさにため息をついてみせた。
「やっぱ冗談も通じねーな、ジジイには」
「!」
「おっ……落ち着いてケンジ。今のもきっと翔くんの冗談よ」
不穏な空気を察していずみがフォローしようとするが、すでに遅かった。
「こンのガキ、全っ然クチ減らねーな!」
「ぐぇ……首はやめろ首はーっ!」
「うるせえっ!」
前回の続きは、悲鳴も高らかに首絞め攻撃から再開された。




