Trèsor――Ⅰ(3)
あまりの前触れのなさに勢いよく振り返ってしまってから――ハッとする。
(うわあぁぁ、しくったあぁぁぁ……)
これではすでに認めてしまったようなものではないか、と翔は思わずしゃがみ込みそうになってしまった。
ほぼ真後ろに立っていたのは、紺色のパンツスーツで身を固めて長い髪を後ろの低い位置で無難に束ねた、隙のないイメージそのままの中年女性。
おそらくは補導員。
非常にツイてない……。
「高校生ね? 今日が創立記念日だという高校はないはずだけれど。名前は? どこの学校?」
翔の最初の反応で確信が持てたのか、本来学校にいるべきはずの学生だとふんだ女性補導員は矢継ぎ早に質問を繰り出してくる。
「なぜこんな時間、こんな所に? ひとり? それとも誰かと一緒?」
当の翔はといえば、初めての校外でのサボりがいきなり補導員に見つかってしまった自分の不運をおとなしくも只々呪っていた。
「そのズボンだと……そうね、東商業か藤川洸陵? それとも松浦第一高かしら? 素直に言いなさい。それから住所と電話番号もね。どうしたの? さあ早く。名前は?」
「え……と――」
「言っておくけど、こんな状況で隠し立てしたって不利なものは不利。わかるわね?」
ポカンとする翔をものともせず彼女は捲し立ててくる。
本当に相手に喋らせる気があるのか、と疑いたくなるほど間をおかずに。
(な……なんだ、このオバサンは……?)
「まあいいわ。とにかく一緒に来なさい」
ここまでくるともう逃げようという気も起きず、翔は目の前の女性補導員にひたすら呆れるばかりであった。
有無を言わせずこちらの手首を掴みあげ、女がそのまま足を踏みだそうとした――――まさにその時。
「よおっ、悪い悪い、遅くなっちまって」
後方反対車線の方から妙に堂々とした男の声が投じられた。
振り向くとそこには、黒色ベースの大型バイクを引いてこちらに歩み寄ってくる長身の青年の姿。
歳は明らかにいくつか上。
ジーンズに肘下まで腕まくりしたモスグリーンのパーカーをさらりと着こなし、一見ラフなスタイルであるにも関わらず、どこか野性的な印象を放って止まない――。
そんな男の顔がじゅうぶんに見える位置まで近付いてきたところで、翔はその理由を暗に納得する。
所々に明るい栗色が見え隠れするだけの全体的に濃い茶髪と、そんな長い前髪から覗く強い眼差しとが、ひどく印象的な青年だった。
「やっぱり出掛けに戸惑ってな。かなり待ったか?」
その彼が、なぜか初対面であるはずの翔に話しかけてきているらしい。
どうやら補導員に捕まっている自分を助けてくれるつもり――のようである。
ピンときて、そういうことなら……と翔は口を開いた。
「お……おう、すんげー待った。メチャクチャ遅ぇよ」
「だから悪かった、って」
たどたどしくも芝居に乗ってやる翔のセリフに律儀に言葉を返しつつ、すでに至近距離まで近付いてきていた青年がおもむろに足を止め、ほいと黒いフルフェイスヘルメットを手渡してくる。
「んじゃ、行くか」
一瞬呆然として、だがあわててヘルメットをかぶる翔。
それを見届けて青年が勢いよくバイクに跨った。
「ちょ……っ、ちょっと待ちなさい! どういうこと!? あなたは何なんですか!?」
始動する豪快なエンジン音に負けぬよう、つい金切り声になってしまうのを抑えもせず、女補導員は突然現れたこの青年に詰め寄り始める。
「え? 何、って……コイツの兄ですが。あれ、見てわかりません? 似てるでしょ?」
すでにメット内にある翔とむき出しになった自分の顔とを親指で比べてみせる。
「そ、そう言われれば……似てる、ような似てないような……」
けろりと言われて、補導員は生真面目にも二人の顔を見比べていたが――
突然はっと我に返ったらしい。
「だ、だとしても! 弟のほうは高校生でしょう! なぜこんな時間にこんな場所をうろついているんです!?」
「実はさっき親父が事故って病院に運ばれましてね」
間をおかず、この自称兄貴の青年は淡々と話を続ける。
「この辺で弟を拾って、駆けつけるところだったんですよね」
「見えすいた嘘つかないで!!」
女の金切り声がキンと耳を刺した。
「そんなの学校を抜け出す常套手段でしょう! 第一ここに至るまで全然急いでいるふうじゃなかったじゃないの!?」
「――だからこれから急ごうとしてるでしょう」
「……っ」
決して声を荒らげたわけではない。
「邪魔しないでもらえませんかね?」
すでに後ろに乗り込んでいる翔からは表情こそ見えないものの、鋭さを伴って青年の声が低く静かに続けられる。
「なんなら病院の名前も言いましょうか?」
言い表しようもないその迫力にやや怯んだように女補導員は口をパクパクさせて何かを言いかけていたが、意を決したように唇を引き結ぶと、あらためてバイク上の男二人をキッと見据えた。
「わ、わかりました。でも一応学校側に確認をとっておきます。学校名と名前をお……お願いします」
それが彼女にとっては最後の意地だったのだろう。
さっさとおっしゃい!と言わんばかりに、その手には携帯電話が握られていた。
とりあえずメモるつもりなのか、この場で電話して学校に確認をとろうというのか。
「えーと……」
え? 学校と名前だけ? 学年は言わなくていいのか?と一瞬ツッコみたくなったが、あえて目を瞑ることにする。
そう、今現在の最大の課題はさっさとここから立ち去ること。
少しだけ考えて、翔は口を開く。
「――――松浦第一高校。出川哲◯」
瞬間、前の青年は小さく噴き出しながらも勢いよくバイクを発進させていた。
……が、それには気付かず女補導員は――。
先ほど自らが口に出し選択肢として与えてしまった、翔にとってはあまり馴染みのない学校名と、とある芸能人の名前を、何の疑問も持たずにおぼつかない手つきで入力していたのである。
◇ ◇ ◇
二人を乗せて堂々と補導員の前から走り去ったバイクは、駅前から続く大通りとは反対方向にさらに激走し、いくつ目かの角を曲がった所で止められた。
「もうこの辺でいいだろ」
別段返答を求めているのでもなく青年が言い、後ろを振り返る。
ちょうど慣れない手つきでヘルメットを外しながら、翔がバイクからアスファルトに降り立ったところだった。
そのまま髪の乱れを整えようとわずかに頭を振り、思い出したように、はたと青年を見る。
「……いやはや先ほどはドーモ、危ないトコロを助けていただきまして……」
「取って付けたような礼なんか要らねえよ」
飄々とした態度の翔に苦笑し、青年は受け取ったヘルメットをハンドルに掛けてようやくエンジンを切った。
要らないと言われ、翔もさいですか……と素直に感謝の言葉を引っ込める。
「しっかしおまえ、制服なんかで彷徨いてたら捕まんの当たり前だぞ?」
言いながら青年が、高さのある車体をものともせずに長い両脚をひょいと地面に降り立たせた。
あらためて見るとかなりの長身である。
高一で決して低いほうではないこの身長よりも軽く十センチ近く高いかもしれない。
「今度脱走するときは親に見つかるの覚悟でまっすぐ家に帰るか、コインロッカーに私服詰めとくかするんだな」
サボりをたしなめられるかと思いきや、青年は口の端を高く持ち上げ、そんなとんでもないアドバイスをしてきた。
「……助けてもらっといてナンだけど」
一瞬だけ面食らってしまったものの、青年の野性的な瞳を訝しげに見上げながら翔は口を開く。
「あんたって、補導員に捕まってる非行美少年を悪いほうへ助ける趣味があったりする?」
「ん?」
「そ……それか、アッチのひと? 助けてやったんだから好きにさせろ、とか言う……?」
「ねーよ。何ビビってんだ……。さっきのアレな――まあ普段はあんまりやらねえな。捕まってビクビクしてる奴は助けようとも思わねえが――」
意味ありげに横目で翔を見、フッと笑う。
「おまえがあんまり堂々としててあのまま連れてかれようが関係ねえって顔してたからな。思わずしゃしゃり出ちまった」
ま、天の邪鬼なんだよな俺も、と青年は軽く肩をすくめ、腕組みしたままバイクに寄りかかった。
「あの落ち着きようからすると、抜け出し常習犯だろ?」
「や。初めて」
事実をケロリと伝えてみせる。
保健室経由での北校舎裏歴は一週間だが、校外は初犯だ。
「……ホントかよ?」
露骨に驚いた顔をする青年の態度にややムッとして、翔は眉根を寄せながらワイシャツの袖をくいと引っ張って見せた。
「だから私服の用意なんてのもしてなくて、しょーがねーから制服で出てきたんじゃねーかよ」
「威張るなよ。しっかしまあ……えらく肝っ玉なガキだな」
補導されかけた時のことを指しているのか今の開き直り方を言っているのか、驚いた目を翔に向けたまま、どこか感心したような口ぶりで彼は続けた。
「ま……だったら、まだ遅くはねーよな」
「?」
何を言われているのかイマイチ掴めず、翔はキョトンとしたまま視線を返す。
青年の口元に微かに笑みが宿った。
「今ならまだ何ごともなかったかのように元の道に戻れるんじゃねえ?ってことだよ。――おまえにその気があれば、の話だがな」
「……」
要するに今からでもまっとうな道に戻れと、そういうことを言われているのか。
取るべき反応も返すべき言葉もすぐには思いつかず、翔はそのまま立ち尽くす。
わずかな沈黙の後、そっと吐息して腕組みを解き、青年は踵を返した。
「じゃあな。もう変なオバサマにナンパされんなよ?」
長身のガッシリした体躯で危なげなくバイクを支えながら、ゆっくり歩き始める。
「……あ、えと」
ためらいがちに発せられた翔の声が、その歩みを止めた。
振り向きざま、陽に透けて明るさの増した茶髪がさらりと揺れる。
自分を見据える野性的な瞳をしっかり受け止め、翔はボソリと――だが憮然と口を開いた。
「あんたのバイクに助けられたおかげで道、迷ったんだけど。……駅、どっち?」
「――」
呆として青年が言葉を失う。
「あ……っ」
翔自身、しまった今この状況で出すべき質問ではなかった、と瞬く間に後悔するが時すでに遅し。
次の瞬間、もの凄い勢いで青年が噴き出していた。
「ぶ……っはははははははははははは!」
「なっ、何だよ!?」
「イイ! お前イイっ! だぁーっはっはっはっはっは……!」
「もういーよっ!」
道順なんてそのへんの誰かに聞けば済む。
こうまで大笑いされてなぜ俺は、と真っ赤になりながら自分の馬鹿さ加減を呪い、くるりと回れ右をした。
「ま、待て待て……っ。は、ははははは。やっべ腹痛ええ」
未だに腹を抱えながら青年。
かなり苦しそうな表情(口元だけは緩みまくりだが)であるにもかかわらず、手のひらはしっかりと翔の襟首を掴まえている。
「んだよっ!?」
「悪い悪い、笑うつもりはなかった」
存分に笑っておいて何を今さら?の世界である。
収まりつつある笑いをそのままに、青年は感心したように話し始めた。
「いやー……たいした奴だよ、おまえ」
「どーいうイミだっ」
結局からかわれているとしか思えず、つい上目遣いに睨んでしまう。
ようやく落ち着いた表情に戻り、青年はあらためて翔に向かい合って見下ろしてきた。
「――腹、減ってねーか?」
「は?」
「来るか? 一緒に」
「――」




