悪魔だったの!?(2)
「昨日の部活終わりから具合が悪そうではあったんだよ」
「え……」
「で、朝起きたらもうこんな感じだったって。たぶんただの風邪だろう、って翔は言ってたけど。でもこの分じゃさっきよりずいぶん熱上がってるなーきっと……」
どのくらい熱があるのかは教えてくれなかったけどね、と腕時計に視線を落として侑希。
やっぱり自分が風邪を伝染してしまったのだ。
思い至り彩香は唇を噛む。
あるいは――伝染したのでないとしたら……。
(やっぱり早杉さんの服、借りるべきじゃなかったんだ……)
この寒がりなヒトがしばらく薄着にならざるを得なかったあの状況のせい――かもしれない。
あの時、濡れてしまったブラウスを気遣って服を貸してくれたりなんかしたから。
「だ……大丈夫なの? 病院とかは――あ、日曜か……。あ、でも救急外来とか」
「そう言ったんだけど『ただの風邪だからいい』って」
「ただの……って」
でもこんなに辛そうなのに――
見ているだけで喉の奥がきゅっと苦しくなる。
依然苦しげな息遣いのまま、これほどすぐ側で繰り広げられている会話にもまるで目を覚ます気配がない。
ひょっとしたら先日の自分よりも重い症状になっているのでは?という恐れが一瞬浮上した。
「ご、ご家族は……?」
「一昨日から旅行だって。明日の夜まで誰も帰ってこないらしい」
「だ、だったら……よ、瑶子さん呼ぶべきじゃないのっ?」
「え?」
自ら口にしながらもチクリと胸が痛む。
が、そんなつまらない動揺や痛みに振り回されている場合ではない。
好きなヒトにいつまでもこんな苦しい状態のままでいてほしくない。
「彼氏がこんな大変な状態ってわかったら、きっと瑶子さんだって……。だ……だからほら、電話っ」
心配でしょうがなくてすぐにでも駆けつけてくれるはず。
そんな誰でも考えつきそうなことを、なぜ彼は見逃してしまっているのだろう。
――が。
「そうか、そこからか」
なぜか返ってきたのは間の抜けた――というか呆れたような声だった。
「『そこ』……? そ、そうでしょ、だって――」
何ごとにも優先順位というものがあるではないか。
家族がいないうえに病院にも行く気がない。
であれば真っ先に、親戚であり彼女でもある篠原瑶子を呼ぶのが筋では?と思うのだ。
こんなのに声掛けてる場合ではなかろう、と。
「あー……鈍いうえに問題をさんざん先送りにしてきた結果がこれだザマミロ、って気がしないでもないけど」
「?」
「でも俺の口から言うことじゃないしなあ。そのへんは本人に聞きな。起きてからでも。――――というわけで西野、看病よろしくね」
「えっっ!? だ……だからこういうのは『彼女さん』のほうが……」
こんな……変な女としか認識されてない一後輩に居られたって、良くなるものも良くならないのでは!?と真剣に訴えたい。
しかも「というわけで」の意味がまるでわからない。
「西野、よろしくね」
何だろう……淡々と話す侑希の笑顔が怖い。
爽やかなのになぜかまた黒い何かが見える。
「…………柚……お、沖田くんたち、は?」
「その辺でデートしてるから。どーーーしても何か困ったことがあったら連絡して。でもできれば邪魔しないで?」
「ひ、ヒド……」
「酷いだなんて心外だな。『西野頑張れー』って思ってのことなのに」
「!? な……っ、な、何っ……ゆ、柚葉何か言っ――!?」
「あ、あたしじゃない……あたしは何も……!」
入口で待機する柚葉を鬼の形相で振り返るも、
「西野の気持ちなんてとっくにバレバレだよ。本人以外にはね」
「!!」
沸き立つ疑念や焦りは、爽やかできらびやかな王子スマイルにあっけなく握り潰され、撃沈。
「それに西野、心配じゃないの? 目の前で翔が熱出してうなされてるんだよ?」
「うっ……!」
「一昨日のうちに西野から伝染った何かかもしれないのにさ」
「うっ! そ、それは……!」
「純粋な西野菌だけならまだしも、翔の中を巡りめぐったもの、柚に伝染されちゃったら嫌だし?」
「……お、おのれ」
「それに西野言ったじゃん。『何でもする』って」
「!!」
――『念のために……お願い沖田くん……! もちろん治療費払うし、な、何でもするから! だから……』
そうだ。
自分を庇ってブロック塀に激突してしまった侑希の体が心配で、とにかく病院に行ってほしくて必死なあまり――
(い……言いました。そういえば……)
約束どおり翔に引きずって行かれ病院で診てもらい、幸運なことに結果本当に軽い打ち身程度で大丈夫だったという報せは昨日のうちに受けていた。
だから……というわけではないが、すっかり安心してしまってか「何でもする」発言はほぼ忘却の彼方に押しやられていたようだ。
「て、でもだからって……やっぱりあたしなんかが――」
いいわけないだろう、普通に考えてマズいだろうと思う。
こんな親戚でも幼馴染でも彼女でもない変な女が――本人の意識もないうちに勝手に家に上がり込んで、同意も得ないうちにかかかか勝手に看病とかお世話とかあり得ないだろ……っ!
そう鼻息荒く意気込んで続けようとしたところに。
「……んだよ、……るせぇ……」
苦しげな息とともに、低い位置からくぐもった不機嫌そうな声が聞こえた。
よほどうるさかったのか、頭のてっぺんまでほぼすっぽりと布団に潜り込んだまま、もそりと身動きする早杉翔。
「……ごっ、ごめんなさい……(超小声)」
「あれ、翔起きちゃった?(普通に大声) じゃそういうことで。あとよろしく。はいこれ鍵ね」
「ちょ……っ!?」
ポイと放り投げてよこすなり颯爽と踵を返し、爽やか笑顔を貼り付けた悪魔はオロオロする柚葉を引っ張って部屋を後にした。
(だ……っ、だから『そういうこと』ってどういうことだ!? この悪魔あああああ!!)
心の声で思う存分叫びきって――
そうしてようやく(ほぼ無理やり)一息つく。
背後のローベッドから聞こえてくるのは、依然辛そうなくぐもった呼吸音。
心中かなり荒れ狂って煮えたぎっていたが、さすがに病人の前で噴出させるわけにはいかない。
混乱と驚愕をなんとか抑え込みつつ、いや怒るのは後だ落ち着けー落ち着けー……と深呼吸を二、三回。
二人の足音が遠ざかり閉じられた玄関ドアの音が聞こえてくるころには、どうにか平常心を取り戻し――というか、あきらめもつき――つつあった。
(そうだ……今一番大変なのは――苦しいのは早杉さんなんだから……)
気を取り直して、声が上がるなりとっさに後ずさってしまっていた距離から一歩だけベッドに近付く。
「だ……大丈夫、ですか?」
とはいっても、まだゆうに三メートルほどの距離があるのだが。
「え」
一呼吸おいて、がばりと捲り上がった布団。
驚きに目を瞠られた早杉翔の顔が、そこで――枕の上の空中で――一時停止していた。
「あ……れ……? なん、で彩香……」
「す、すみません勝手に……。何かワケわかんないうちに沖田くんに呼ばれて……あの」
(ほらああぁ! やっぱり迷惑そうじゃん! 許すまじ沖田!)
爽やかな顔をした悪魔に向かって胸中で盛大に悪態をつきつつも。
苦しげに息をしながら「あーあのヤロ……」などとつぶやいて宙を睨んでいるさまを見ると、なんだか無性に泣きたくなってくる。
「す、すいません、あたしなんかで……。お怒りはわかります当然です。よ、瑶子さん呼びましょう、か?」
「え」
万能薬――とまではいかないにしても、やはり側にいて安心できる大好きなヒトにこそ来てもらうべきではないだろうか。
後ろめたさのようなものもあるが、何よりそれが彼自身のためだと思うから。
「あの……ご家族の皆さん、居らっしゃらないって聞いたから。だったら瑶子さんに来てもらったらどうかな、って」
「あー……そっからか」
ふうっと力が抜けたように、翔の頭が枕にたどり着く。
「そこ、って――」
先ほど侑希にも言われたが、そことは?
「それなー……えーと、それなんだけどなー……」
「は、はい?」
頭痛がひどいのだろうか……?
額を押さえた手のひらの下――――うっすらと開かれた目が彩香をとらえて数秒後。
「あー……うー…………やっぱ無理。頭回んねえ……。その話はまた今度な」
気だるげな呻き声とともに、翔がわしゃわしゃと長い前髪をかき乱し始めた。
(その、ってどの?)
やはりわからずぱちくりと瞬きを繰り返す。
それでも、布団から出た彼の腕や肩が長袖スウェットに包まれていたことにひとまずホッとした。
今度はしっかり着込んで寝ているようでよかった。
この期に及んで薄着だったりしたら一声ぶちかまそうかと思っていたところだ。
「つか、おまえも帰って……いいぞ。せっかく治ったのにこんなトコいることねーって……。どうせ寝てりゃ治る……」
「い、いや……」
そんな苦しげにゼーハー息を切らして言われても……と、思うと自然に眉根が寄る。
「寝てるだけじゃ治りませんって。ちゃんと――」
ふいに、軽やかな電子音とともに机の上に置かれていたスマホが大きく震え始めた。
「あ、で……電話みたいですよ」
「あー……いい。面倒くせえ」
「そんな……」
動くのも辛いだろうから手渡してあげたほうがいいのだろうなと思い、そろりと、だが素速く机に歩み寄る。
「――」
着信を示す画面表示には「瑶子」という文字。
筋だ呼ぶべきだと散々口にしておきながら、その名前を目にしたとたん――
伸ばしかけた指と思考が瞬時に凍りつくのがわかった。




