手遅れだよ(1)
「ええええええええ!? キス――」
「しーーーーっ! 彩香、声!」
その単語が出るなり思わず叫んでしまった口が、ベッド脇から伸びた柚葉の手のひらに塞がれた。
なんだかんだ(遅い夕食やら柚葉の風呂やら、宣言どおり爽やか王子からの電話やら)で時間はもう深夜近くになっていたことを、熱に浮かされた頭でようやく思い出す。
数秒待ってもご両親のお小言が飛んでこないことにとりあえずホッとしつつ――――
もうっ!と頬を染め軽く睨んでくる親友に「ご、ごめん」と謝りながら、とりあえずへにゃりとごまかし笑いなどを浮かべてみる。
その一方で、それにしても……と思ってしまった。
侮りがたし――沖田侑希。
やっと思い出したと思ったら、早速か?
(速いのは足だけじゃなかったのか……。そ、そういえばただの友人にまで冗談でキスしようとしてきたようなヤツだしな。だ、大丈夫だろうか……我が親友は?)
この分では柚葉が食われてしまうのも時間の問題なのでは……?と思うと、嬉しい半面やや違う方面での心配が湧き起こってきた。
まあ柚葉がいいなら――――いいのだが。
別にそういうことを、しても。
長年一途に想ってきたのだし、外野がとやかく言うことでもないだろう。
………………たぶん。
(って、うわああああぁぁ)
やんわりと想像しただけでボッと顔面が沸騰するのは、彩香にとっては如何ともしがたいどう考えても仕方がない現象である。
そちら方面どころか恋愛の「れ」の字さえ関わりなく生きてきた十六年を振り返れば、まあ……しょ、しょうがないだろっ!と開き直りたくもなる。
……というかもう開き直るしかないのだが。
「そ……そういえば、さ」
さらに無駄に上げてしまった顔の熱を下げようと両手でぱたぱたと扇ぎながら、ふと思い出したことを口にしてみる。
「沖田くんのこと、柚ママたちは知ってたんだ?」
幼いころからそれほど仲が良かったのなら、当然親も把握していただろうとも思ったが。(沖田家の場合は違うらしいが)
「侑くん」と、娘と同じ呼び方を口にしていた千草の嬉しそうな笑顔が易々と思い出された。
「そりゃあね。侑くんのお母さんが亡くなる前はよく二人で遊びにきてくれてたし……」
寝仕度を再開して床の布団に戻りつつ、柚葉が伏し目がちに言う。
そういえば彼が父親と二人暮らしだという話は、出どころは定かではないがかねてより耳にしてはいた。
そうか、ではかなり昔に母親と……と思うと少しだけ気持ちが重くなった。
「でも引っ越しちゃってからはあたしに気を遣って、っていうか……? あえてお母さんも口に出さないでくれてたみたい」
それは……そうだろうと思う。
悲しみに沈んだ娘を気遣って、あえて触れないように。
極力寂しい思いをさせないように……?
なんとも言えない気分になってしまい、柚葉から天井へと視線を戻してそっと息をつく。
「そうそう。知ってたと言えば、さっき最初にうちに駆け込んだ時、玄関でね――」
ふいに、床からぷぷっと小さく噴き出す声。
「ん……?」
「やっぱりお母さんにとっても、侑くん昔の面影ばっちりあったみたいで。突然感動の再会が始まっちゃったんだけど」
何を思い出したのか、横たわってベッドを見上げたままの柚葉がやけに愉しげに見える。
「あ、でもね。もちろんお母さんの見立てで『彩香は大丈夫だろう』ってホッと一息ついてから、なんだけどね?」
「う……うん?」
柚ママ――千草は元看護師なのだ。
――『あなた……もしかして――』
――『あ、お久しぶりです。おばさん。侑希です』
――『あら……やっぱり!? あらやだまあ格好よく立派になっちゃって……。やだわ、同じ学校だったなんて柚葉一言も言わないものだから……! お父さまは? お元気? またいつでも遊びにいらっしゃいね?』
――――といった世間一般でいうところのよくあるやり取りが、四人で高瀬家に到着するなり始まってしまった、ということらしい。
そこまではまあ、理解したのだが。
「……で。今の話のどこに柚葉はそんなウケてるの?」
「ご、ごめん……」
謝罪を口にしてはいるものの、布団の中で丸くなりすっかり笑いのツボに嵌っている親友。
「ちょっと嬉しくて面白すぎて……。思い出し喜びというか……」
「?」
何ゴト?と訝りつつ痛む頭を軽く持ち上げ、ついには上体を起こして柚葉を見下ろしてしまっていた。
「嬉しい」からそこまでの思い出し笑いに繋がる流れからしてすでに疑問なのだが。
――と。
「ああもう……彩香に見せたかったな、あの時の早杉先輩」
「え?」
目尻の涙をそっと拭いながら、柚葉が優しく目を細めて見上げてきた。
――『あの! すいませんっスけど! 和んでる場合じゃないっスよね!? 侑、おまえもだっ! おら、とっとと彩香の靴脱がせろっ』
「――って。ね? ものすごい心配の仕方でしょ?」
「…………」
それから着替えさせたりケガの処置やらを一通り終え、ようやく一息ついたあたりで。
「よっぽど心配だったんだね」「大丈夫だって言ったのに」などと侑希や千草に散々からかわれ、ますます機嫌が悪くなった――ということらしい。
それであの憮然とした態度だったのか……と熱い頭でぼんやりと思い至りつつ、なぜか緩やかに活発になり始める鼓動。
「直に彩香に触れてるの先輩だけだったし。どんどん熱上がってくるの感じてたから、目の前でそんな悠長な再会シーン繰り広げられて……怒っちゃったんだろうね」
そんな柚葉のセリフに「ん?」と一部引っ掛かりをおぼえる。
思わず目を見開いて今しがたの記憶を巻き戻し、ちょっと待って――と眉根を寄せた額を手のひらで覆った。
「え……『直に触れて』って――」
何だろう? 記憶にないが。
「いつ? それって……どういう状況での話……?」
知らず知らずうっかり近寄ってしまったあげく、また無意識にあのヒトに触ってしまってでもいた――のだろうか?
交差点で思わず手を取ってしまったあの時のように?
「いつって……公園からウチに運んでくる間ずっと。と、玄関先から部屋に至るまで」
ようやく笑いが収まった柚葉に、キョトンと見上げられた。
「へ……っ?」
「え?」
「い、いや……は、運んで――って、どういうことかなあ?って……」
「――」
何言ってんの?とばかりに目を瞠る柚葉が、今度は怖いくらいの無言で見つめ返してきた。
「あの……ご、ごめん……電池切れちゃってそこらへん全然……憶えてなくて。あ、あたし……その……ど、どうやってここにたどり着いたんでしょーか……そもそも?」
しどろもどろになりながら、思いきって訊いてみる。
「……まさか彩香、倒れたのに自分の足で歩いてきたとでも?」
「い、いえ……そ、それは――」
さすがに思わないが……。
――ならばいったいどうやって?
なぜかじわりと湧き出る冷や汗に手汗。
こういった疑問を抱くこと自体、何かそら恐ろしいような気がしてきた。
もしかしたら、考えては――知ってはいけない何かが、気を失った後の自分に起こったのかもしれない。
(ず……ずっと、直に触れて……って?)
熱があるはずなのにスーッと嫌な感じで頭の一部が冷えてくるような気がするのはなぜだろう。
起き上がり、信じられないとばかりに目をしばたたかせて見つめ返してくる柚葉に、思わずごくりと喉を鳴らした。
「先輩のお姫様抱っこに決まってるでしょ」
「ええぇっっっ!?」
い、いや……決まってはいないないない、いないはず――と思いながらも、またも大きく反応してしまった口元を今度は自ら塞ぐ。
(だ、だって前、塚本先輩は普通に(?)おんぶしてくれて――。……って、ててて違う! 今食いつくべきはそこじゃなくて!)
自らを叱咤しながらもつい思い浮かべてしまうのは、早杉翔にお……お、お姫様抱っ(ぎゃー!)れた意識の無い自分――。
「なっ……な、なななんで……お姫……え、え? 早――な、なんで? なんで?! 柚葉たちに押し付けられたの!?」
今度は顔全体が異様に火照って、ぐわんぐわんと目眩まで襲ってくるような感覚。
さらに二、三度ほど熱が上がってしまったのではないだろうか。
マズイ。このままでは脳みそが茹であがってしまう。
「ううん? 呼ばれて駆け寄って行ったら、すでにしゃがんだ膝の上に抱っこ状態だったよ?」
「――――」
茹だるどころか一瞬で干上がりました。(脳内ナレーション)
電車を降りるなり沖田侑希に置いていかれ、意識が途切れる寸前のあの瞬間まで行動を共にしていたことから、まさか……もしかして……とは思っていたが。
(だ……っ、抱っこって……だ、抱――)
一瞬想像するだけで容赦なく襲いくる目眩。
(だ、ダメだ……)
本当にあの格好いいヒトに――大好きなヒトに抱きかかえられたのかと思うと……
冗談ではなく、ふうっと意識が遠退きかけた。




