不確かで、あたたかな(1)
時刻はもう二十二時を大きくまわっていた。
彼女ら――彩香と柚葉――の最寄り駅であるI駅の、改札を抜けてすぐの広いスペースで。
不機嫌を隠そうともせずにエスカレーター脇の壁に寄り掛かって、早杉翔はため息を吐いた。
(ああ……帰りてえ)
目の前では、二十代半ばと思われるやたら化粧の濃い女二人組とやや困ったように微笑みながら対応する幼馴染の、なかなか埒が明きそうにない押し問答が繰り広げられている。
「ほんとにぃぃ? どーしてもダメえぇ?」
「はい。せっかくなんですけど」
……要するに逆ナンしてきたしつこい女どもへの対応を侑希に丸投げしている真っ最中、というわけである。
改札を抜けるなり突然時間を尋ねられ、ついうっかり答えてしまったら――
「このあと時間ある? よかったら食事でも」……などと始まってしまったのだ。
よくよく考えたら駅なのだからあちらこちらに時間表示はされているし、しかもよく見ると彼女たちはしっかり携帯を手にしていた。
しまった油断したこのパターンだったか……と、思った以上に疲れている頭で自己嫌悪してみるも時すでに遅し。
まともにエンカウントを許してしまった女たちは、呆れるほどにしつこかった。
普段なら軽くいなせるこういったシチュエーションも、今日は疲労のせいかどうにも対応する気にならない。
うんざりと「とっとと散れ」オーラを醸しだして高い天井を仰ぐだけの翔の目の前で、鼻にかかった耳障りな声で女たちは大げさにしなを作りながら侑希に詰め寄り始めた。
「えーショックううぅ。私達そんなに魅力ないかなあぁぁ?」
「そもそもそういう問題じゃないんですけどね」
「でも一緒にご飯行ってくれないんだ?」
「はいっ。無理ですね」
「えええぇ冷たあぁーい」
突然一人に振り向かれ、その粘っこそうな視線から思わずげげっ……と顔を背けてしまった。
(ってこっち見てんじゃねーよ……。色目使われたって知らねーし)
侑希が駄目なら自分を、ということだろうか。それとも彼をうなずかせる手助けをしろとでも?
どちらにしてもありえないが。
とっとと帰らせてほしいと思うと、げんなりとただひたすら重いため息が口をついて出てくる。
何なのだろう、この話のわからない化け物どもは?
朗らかで爽やかなのは表情だけで、侑希はきっぱりハッキリ断っているというのに――なぜ退かないのだ、こいつら……。
ある意味感心する。
馬鹿なのだろうか。絶対に断られるワケがないとでも思っているのだろうか。
見れば二人とも確かに自分に自信がありそうなタイプではあるが。
色の薄いたっぷりした巻き髪にド派手なメイク、まるで真夏のような露出度の高い布切れに身を包んだ彼女らはいったいどこ帰りなのか(……まったく興味はないが)、すでに酒とたばこの匂いをプンプンさせている。
(うぜええぇ……)
数分前から変わり映えしない光景を忌々しげに(だがどこか他人事のように)眺めながら、翔は心の内で毒づいた。
「ほんとおーに美味しいお店なんだよ~? アンナとチカのオススメぇ~」
「いやもう……本当に遅いし。明日も朝から部活あるんで。すみませんホント!」
「やーだー部活だって。可愛いー!」
「じゃあさじゃあさ、携帯教えて? 今度絶対ごちそうするから」
「やーすみません。今日に限って忘れちゃって」
「えー自分の番号くらい憶えてるでしょー?」
「すみません、俺馬鹿なんです」
まぶしいばかりの爽やかな笑顔で吐く返しに、危うく噴き出しかけてしまった。
とっさに腕組みした片手で口元を隠し、喉の調子を調える小芝居まで打ってなんとかごまかすことに成功する。
何をやらせてもそつなくこなし、すべてにおいて完璧な爽やか王子が「馬鹿」とか……。
しかもその制服着てそんなこと言っても簡単に信じてもらえるわけがないだろうに。
勇者――侑希が厚化粧モンスターどもを完全に撃退するまでのその後四十五秒。
そんなことを思いながら翔はそっと肩を震わせつづけた。
「あのさ。翔」
今までで一番粘られたかもしれない女たちを終始穏やかで丁寧な対応のままで、だがキッパリと退けた直後。
名残惜しそうに半泣きしながら退散する彼女らの背中を見送って、侑希が物言いたげに横目を向けてきた。
なんと器用なことに、笑みを刻んだ口はそのままの形で。
「――ちょっと。仕事してよ、ボディーガード」
「……侑のほうが平和的に追っ払えるんだから、いいじゃねーかよ」
なるほどこのあたりも「爽やか王子」と呼ばれる所以なのかもしれないと思いつつ、翔は憮然として逆側に視線をそらす。
そもそもあれくらい自分で追っ払えなくてどうする?
幼馴染の厚意をありがたく受け取れというのだ。
「『女除け』とか言ってついてきたの誰?」
「…………」
しまった、そういえばそんなことを言ってしまったのだった……と心の内で軽く反省。
だが冗談ではなく。大げさでもなく。
もう今日は本当に……いろいろありすぎて極限まで疲れたのだ。
疲労困憊という言葉を今日、この瞬間にこそ使いたい。
特にそう……アレだ、とつい思い返して頭を抱えたくなる。
高瀬家での終盤、ピンク色の妙な気配を垂れ流されたアレで大きく気力も体力も削られたのだ。(そうだ、アレを思えばしつこくケバい女の一人や二人侑希に丸投げしたところでバチなどあたらない気がする)
愛想笑いの欠片も浮かべる余裕がなくなっているこんな状態で、変に言い寄ってくるやつらにまで気を遣っていられるかというのだ。
行かないと断っている相手をどうにか誘いだそうとあの手この手で食い下がろうとする思考がまず理解できない。
図々しいうえに化粧品臭いし酒臭いしで気分も最悪だ。
しかもこんな時間に高校生を連れ回そうなどと――まともな社会人の考えることとは思えない。
あと一分でも粘られようものなら、さすがに侑希に代わって声を張り上げていたかもしれない。
というか、こんな状態の自分が口を開くと間違いなくブチ切れそうでマズイと、侑希もわかっていたからこそ応対をかって出てくれていたのではないのか。
「それに、今のお姉さんたちなんて明らかに翔狙いだったからね?」
ホームへのエスカレーターを上り始めてすぐ、知ってた?と呆れたように振り返られた。
「は? なんでだよ、おまえだろ?」
「俺こんな薄汚れた制服姿なんだよ?」
「俺だってこんな薄着なよれよれの格好だぞ」
いくら私服とはいえこんな見るからに金も持ってなさそうな、Tシャツにジーンズの高校生目当てとか――
どう考えてもナイだろ、とかなり本気で思う。
というか、そうだ。
最初から普通に釣り合いのとれそうなビシっとスーツでも着込んだサラリーマン風の男に声を掛ければいいものを。
なんだってこんな高校生なんかを……。
まったくもって女どもの考えることはわからない。
まあこんなことは今に始まったことではないし、どこへ行っても人目を引く侑希とつるんでいる以上仕方のないことでもあるのだが。
「はーやだやだ……ホント鈍感」
「はあ?」
まあこうなるとは思ってたけど……などとブツブツ言いながら、侑希が呆れ笑いを浮かべた顔を前方へ戻す。
こうして見ているとこれまでとなんら変わらない幼馴染。
だが――
「……なあ、侑」
どう訊いたものか……。
少しだけ逡巡した後、2ステップ先を上りゆく背中をまっすぐ見上げたまま、訊ねてしまっていた。
「ぶっちゃけさ、どんな感じなんだ?」
「え?」
「頭ン中。どんな心境――つーか」
人当たりというか、自分への対応やああいった逆ナン(?)のあしらい方に至るまで。
まるでいつもどおりの侑希ではあるのだが。
でも今日確かに、彼の内側は大きく変貌を遂げたはず――。
「うーん……」
一瞬だけ驚いた素振りを見せた侑希が、上りきって出たホームをさらに先へと進んで行く。
「たぶん……説明しても本当の意味でわかってもらえない――と思う。俺自身うまく伝えられそうにない感じだし……。ほらさっきも言ったけど、まだ微妙に思い出せてないトコとかもあるしね」
思いを巡らせるように宙を仰いだままホーム中ほどまで進み、煌々と灯りのともった自販機の前でようやく足を止めた。
「でも何て言うのかな……。今のこの気持ちが、何かすごくしっくりくる気はするんだよね」
今の――――
高瀬柚葉を想う気持ち、ということだろうか。
遅れて並び立つこちらを振り仰ぎながら「考えたんだけどさ」と、さらに軽く笑って侑希。
「たぶん柚のこと忘れてたのは、本当に本当に自分のせいじゃないかって思う。全然、翔のせいとかじゃなく。……まあこれは今までもさんざん言ってきたけどね?」
「……」
「ガキだったけど柚のことは本当に大好きで、でも離れなきゃいけなくて。あのころは遠距離なんて頭もまるで無かったしさ……。寂しくて辛くて、だったら忘れようって……あの事故に俺自身、無意識に乗っかっちゃったんじゃないかな?……って。――――ま、これも想像だけどさ」
「――」
どうとも反応できないでいると、やわらかくした笑みをついと前方に戻し、侑希は伏し目がちに静かな線路を見つめた。
「さっき、柚に言われたんだけどさ」
「? ……おう」
さっき――
忘れ物を取りに、と二人で洸陵に向かった時のことだろうか。
「思い出してくれただけでじゅうぶんだから、って。昔のことはもういいから今の気持ちを大事にしてくれ――って」
なるほど、彼女なら言いそうなことだ。
今の――彩香を想う気持ちを捨てる必要はない、と。
本当に心から侑希のことを想い、考えているからこそ言えることなのかもしれない。
「酷いよね。そんなこと言われても……もう俺の頭の中、柚でいっぱいなのに」
「…………そうなのか?」
「そう、それ。そんな感じで柚も『信じられない』って顔してた」
悪戯っぽい笑みをたたえたまま、すぐ鼻先を指差しながら侑希。
「『本当に気にしないで。あとは自分の心の問題だから……。頑張って忘れるから、それまでは――気持ち悪い思いさせちゃうかもしれないけど、ごめんね?』って、泣きそうな真っ赤な顔で一生懸命言われたらさ――」
「『言われたら』……?」
「あんまり可愛くてキスした」
「!?」
つい後ずさりそうな勢いで驚いてしまった。
(こ、こいつは……。それも今日の奇行(?)の原因か? いや結果か?)
「んで、『あと他にどうしたら信じられる?』って訊いたら、泣いちゃった」
「…………」
ちゃった……ってこの男は――。
先ほどとは違った意味で反応できなくなっていたところに、なんでだろうね?とばかりに飄々と首を傾げられた。
時々この幼馴染をすげえ……と思う。
いや、ほめているのではナシに。
まるで自覚の無い状態で、いつの間にかとんでもないことをしていたりするのだから。
何にしても……なるほど。そんなことをしていたから学校からの戻りが遅かったのか。
だからかと腑に落ちたとたん、若干の疲労感とともに目線も肩もガクリと落ちた。




