長い夜は未だ終わらず(3)
熱と涙で霞む目を上げると。
すぐそこには、真剣そのものの表情で侑希に向き合ってくれている横顔。
(早杉さん……)
そうだ。
自分のせいで……という気持ちを今誰よりもわかってくれるのは、きっと翔だ。
いつも、いつも助けてくれる。
こうしていつの間にか助けられて……心を軽くしてもらって……。
そしてまた気持ちは引っ張られる。ダメなのに。忘れなきゃいけないのに……。
おそらく彼自身にそういう意識はまったくないのだろうけど。
さらに潤んでくる目を伏せ、震える手をごまかすように膝の上の布団を強く握りしめる。
「………………わかった。じゃあ念のために診てもらってくるよ」
深く長いため息を吐きながら、ついに侑希が折れた。
「ほ、ほんと?」
「うん。だからほら、西野はさっさと寝る。熱下がらないよ?」
「う……は、はい」
濡れタオルを拾ってもそもそと布団に入り込みながら、ちらりとその表情を窺うと。
そこに浮かんでいたのは声と同様、少しだけ困ったような――だけどこの上なく優しい王子微笑。
(よ、よかった……。とりあえず診察を受けてくれれば後は……)
一気に緊張が解け、ぐらつく頭を抱えながらも心底ホッとして枕に沈み込む。
――――と。
「でも正直な話。ずっと帰宅部だった翔とは鍛え方が違うから大丈夫だと思うんだよねー」
込み上げる笑みを隠しきれず、翔への感謝と安心でふにゃふにゃになった思考に。
気のせいだろうか、爽やか王子らしからぬ変なセリフが聞こえた気がした。
「え……」
「は……?」
「あ、傷ついた? ごめんごめん」
(いや……ごめんごめん、って……。お、沖田くん、いったい何を――)
翔にとっても同様だったらしく、固まって目を見開いたまま目の前の幼馴染を呆然と眺めている。
「それにしても翔、変わったねー。なんか、面倒くさがってテキトーに上辺だけでごまかす人間じゃなくなってきた、っていうか?」
突然どこかで何かのスイッチが入ってしまったのだろうか、この爽やか王子は。
先ほどまでよりもさらに喜々として身を乗り出し、楽しそうに(?)翔の顔を覗き込みながら何やらまくし立てているようだが。
「え、まさかの自覚ナシ? 嘘でしょ? こんなにガンガン感情表に出るようになってきてるのに?」
「……は? ゆ、侑……?」
「で? それって誰のせいかな? 心当たりくらいあるよねえええ?」
「!?」
「あ。ほら動揺した」
「お……おま――な、な何……!?」
(ええと、結局……何? 全然わかんない……)
謎は謎のままだったが、楽しそうな彼らのやり取りを眺めながら、やっぱり仲良いなこの二人……と思うと自然に嬉しい気持ちが湧き上がってきた。
もしかすると朦朧レベルもそうとうヤバいのかもしれない。
爽やかなはずの王子スマイルがなぜか爽やかに見えないし。
これはイカンと試しにゆっくり瞬きを繰り返してみるも、意味はなかった。
それどころか、なんと沖田侑希の顔にありえない黒い微笑みまで見えるような気がして――
ああそうか、考えている以上に熱が上がってるということですねハイ、とすぐさま合点がいく。
それ以上深く考えてもしょうがないらしいという結論に達した。
(熱のせいじゃしょうがないな……話が理解できないのも無理ないよね……)
程なくしてあきらめの境地に至ったが、それでも彼らがやいのやいのとやり合っているこの空間をなぜか居心地がいいと思えるから不思議だ。
「だって今回の件なんて。俺らを心配なのはわかるけど……怒りすぎっていうか? ねえ西野? すっごい心配してくれてたねー? さっきからずっとこうなんだよ?」
「は……はあ」
それはありがたいことですね。でも勿体のうございます。言わないけど。
――とは心の声。
「あれっ、あれれっ? もしかして翔、自分が助けたかった、とかかなああぁ?」
「え……」
「はああぁ?!」
驚きのあまりばっくりと口を開け、そのまま呆然と幼馴染を見つめている翔。
対して侑希は、やや意地の悪そうな笑みを一瞬たりとも絶やすことなく、そんな翔の反応さえ心から楽しんでいるように見える。
「フラフラしてないでもう少し早く陸上始めてたら良かったのに。翔の場合あんまり成績に影響しないでしょ。そしたらほら、先に西野助けられたんじゃないかなーあ?」
「お、おま……何言ってんだ?」
(同感です……)
朦朧さ加減に拍車はかかっているものの、さっきから何を言ってるのだろう沖田王子は?という疑問を抱けるくらいには彩香の思考も働いている。
病院に行ってくれるという言質を得てすっかり安心してしまった一瞬の隙間に、何か彼のスイッチが切り替わるような出来事でもあったのだろうか? 見逃してしまったか? 聞き逃してしまったセリフがあったとか?
何やらよくわからない領域にまで話が発展してしまっているらしいし……これはいったい……?
しかもそこに時々ちょいちょい放り込まれる自分の名前。
……ダメだ。
やはり、その意味するところもさっぱり――である。
(これ、熱が下がって体も頭も正常な時にもっかい聞かせてくれないかなぁ……? それでもアホにはわかんないかもだけど……)
「ああ、でもあの時はたまたま俺のほうが近くで話してたからねー。やっぱり先に追いついてたかなー? どっちみちこうなってたかもだね。ごめん、期待させて。翔、ドンマイ!」
「――――」
驚愕のあまりすでに言葉もないらしく、ひたすら口をぱくぱくさせて翔は幼馴染をガン見している。
(ま、またしても……同感です。どうした? 爽やか王子よ……?)
そして極めつけとばかりに。
「まあ、イヤなら次からは誰よりも近くに居るようにするんだね」
しれっとへろっと笑ってそっぽを向く彼に、ついに翔が爆発した。
「お、おおおまえどうしたー!? やっぱあの衝撃でか!? 明日なんて言ってる場合じゃねえ、今すぐ病院行くかーーー!?」
目を覚まさせようとしているのか、必死で訴えかけながら掴んだ両肩をガクガク揺さぶり始める。
「どう、って失礼な。別におかしくなって……とかじゃないって」
「しっかりしろ! 俺だけは見捨てねーからな!」
「聞いてる? ヒドイな。柚のことが大好きな自分に戻っただけなのに」
頭がアレだと言われたも同然な本人、なぜかまるで頓着していないようであるが。
それどころか――
「ああ……『だけ』じゃなかったか」
飄々と悪びれなく宣い続けていた侑希が、ふっと思い出したように微笑んでベッドに視線を投じる。
「やっぱり西野にはちゃんとお礼したいなあ、って思ってさ。応援というか。――ね?」
「……え」
微かな声とともにわずかに見開いた目を上げると。
爽やかなのになぜかそうは見えない――どこか油断ならないような笑みが、しっかりと彩香に向けられていた。
(……『ね?』って……え……?)
男二人のじゃれ合い(?)のさなか、唐突に話を振られて思わず薄く反応してしまったものの。
お礼はともかく(いや、それだって要らないが)『応援』とはいったい何のことだろう……と彩香はぼんやりと考える。
(……熱が早く下がるように『応援』。……違うなきっと……)
それだと、先ほどから侑希の様子がおかしい理由にはまったく結びつかない。
これまた心当たりがさっぱりな言葉に、ダメもう降参……と正解を求めて王子スマイルを見上げた――次の瞬間。
「っつか侑! そ……そこ! それっ! お、おまえいったいどういうことだっ!?」
唐突に、またもキレ気味に翔が声を張り上げた。
「え? それってどれ?」
「名前のこと! 『柚』なのに『アズ』なんて――な、なんっっでわざわざ違う名前を俺に教えてたー!?」
幼いころ――侑希が近所に越してきてすぐのころからウマが合いよく行動も共にしていたらしい翔は、当然のように大好きな女の子の話もよく聞かせられていたという。
ところがフタを開けてみると――――
そう。
名前が違っていたというのである。
「ああ……」
それか、とばかりに軽い反応で侑希が見返った。
「いっくら聞いても親父さん『知らねー』っつーわけだよな!? おかげで俺どんっだけ苦労して探したと思ってんだ、ええ!?」
「うーん、どっちみち父さんにはそういう話詳しくしてなかったと思うから大差無いはずだけど……。でも、ごめんね?」
「『ごめん』はいいから理由! 納得できるように言ってみろ! なんでだー!?」
すっかり興奮状態でガクガクと両肩揺さぶり攻撃が再開していた。
彼のこれまでの苦労や「なんっじゃそりゃー!?」という心境を思えば無理もないような気もするが。
記憶を失っていた今まではしょうがないとしても思い出せたとなったら話は別、何が何でも聞き出さねば!という考えに至ったのかもしれない。
「アズ」という呼び名だけを頼りに今まで一生懸命(密かに)探してきたらしい翔にとっては……なるほど、確かに理不尽以外の何ものでもないはずで――。
(が……がんばれ早杉さん)
朦朧としながらも、布団の中からこっそり応援エールなどを送ってみる。
ところが。
「さあ?」
当の侑希の反応は思いのほか淡白なものだった。
あまりに飄々と白々とした返答に、肩を揺さぶる翔の手がピタリと止まる。
「さあ…………って」
「なんでだろね? 何もかも全部思い出したわけじゃないし、俺もわかんない」
「…………」
悪びれなく続けられる侑希の言葉に、翔の眉がぐにゃりと寄せられ、精悍なはずの顔はこれでもかというほど歪められた。
どこまで本当なのかわからないが顎に手を当ててわざとらしくウーンと頭を傾げてみせる爽やか王子と、それを間近で胡散臭げに見下ろす怒りイケメン。
(ああ……あんな顔しててもカッコいい……。写真撮ったら怒られるかなあ……? やらないけど)
ふよふよ気分で二人を(特に片方を)眺めながら――
実際に口に出したら間違いなく小突かれそうな不届きなことを、いつの間にか考えてしまっていた。
朦朧レベルが半端ではないのだろう。
さらに珍しいものを見れているような気がして、望まずともにへらとどんどん顔が緩んでいく。
「でもまあ、何となく想像はつくかな」
視線の先では、ぼそりと言いながら侑希がチラと翔を見上げていた。
「……何だよ?」
「柚の本当の名前なんか教えたら翔にとられちゃう、って思ったのかもね」
「は? なんでそうなるんだよ……」
「だからわかんないって。想像だって。翔は何やらせても凄くてカッコ良かったし、同じコをとり合ったら絶対負けるって思ったんじゃない? 当時の俺も」
「はあああ!? んなわけねーだろ、なんで俺がそんな――」
「だって。現に今だって西――」
「ば……っ!!」
どうしたことか、電光石火で今度こそ容赦なく口を塞ぎにかかる長身。
「おまえ、そ、そん……っ、ふ、不確定なアレを……こ、声高らかに言うんじゃねえ……っ」
「?」
なぜか突然背を向けられたうえにズンズン遠ざかられ、ベッドに取り残された彩香にとってはやはり話の内容はさっぱり――である。
今日はもういろいろとダメらしい。
考えるという行為そのものをあきらめたほうがいいのかもしれない。
視線の先では、ニマッと爽やか王子らしからぬ笑みを乗せた侑希が、ひょいと翔の手のひらから逃れていた。
「『不確定』……ね。ま、翔にしては進歩かな」
「て、てっめえええ」
ワナワナと震える両手が今度はワイシャツの喉元にまわり、首絞め攻撃に移行しかけた時。
「あれ? 二人ともケンカ継続中ですか?」
タオルや氷をのせたトレイを持って、ようやく制服姿の柚葉が姿を現した。
こちらも取り巻く雰囲気はすっかり明るく穏やかになっている。
「え……やっぱりケンカしてたの? なんで……?」
続けてベッドから発された呂律の怪しくなっている声に、男二人の動きがピタリと止まった。
そうして固まったまま数秒間、複雑そうに互いの視線を合わせていたかと思うと、
「……そろそろ帰ろっか」
「お、おう……」
それぞれ苦笑いを浮かべてわずかに視線が泳がせながら、ほぼ同時にのろのろと立ち上がっていた。




