長い夜は未だ終わらず(2)
「そうだ、携帯」
ジーンズのポケットをまさぐりながら、翔が枕元に置かれていたこちらの端末を顎で示してくる。
「さっき言ってたろ。連絡先教えろって」
「え……あ、あああの時は……」
そういえば緊急事態であわてふためくあまり、つい意味なく訊いてしまったのだった。
目の前にいる人間に大至急で話があるから連絡先を教えろ、とは……。
わかっていたがマヌケにも程がある。
「おら、受信準備」
「えっ! そ、そんな……あたしのような雑魚キャラにダ、ダメですよ。そ、そんな貴重な個人情報を……」
しかもそんなお宝級の爆弾を!
じょ、冗談じゃありませんと両手を布団から出し、ふるふると痛む頭を振る。
「おまえが訊いてきたんだろーが」
「い、いえもう……あれは問題解決したし……。も、もうまっっったく必要ありませんので、大丈夫ですっ」
「………………それはそれでなんかムカつく。いいからオラッ、送んぞ」
「め、めめ滅相もない……というか畏れ多いというか、あの……これ以上越境して近付いたら実際恐ろしいヒトが待っ……あ、いえその……」
「何言ってんだ? あーもー、いーから寄越せ」
「あっ」
……枕元から奪い取られてしまった。
一生懸命あきらめなければならない人の連絡先なんてゲットしてどうする、自分?
どうしてあの時うっかり教えてくれなどと言ってしまったのだろう……。
「おらっ、パス解除」
「う……は、ハイ……」
打ちひしがれながらどっぷり後悔に浸かっている眼前に再度画面だけを向けられ、気付けば条件反射的にオロオロと解除してしまっていた。
(ま、まあ……連絡先知ったからといっても使わなきゃいいのか。というか必要になる場面なんてとうてい訪れないだろうし……。で、でも、どどどうしよう……もしこのことが『彼女』に知られたら今度こそいろいろとマズイかもしれない)
青くなってうち震えている間にしっかり登録まで終えてくれたらしいパールピンクのスマホが、「ホレ」と手元に戻される。
新規リストには『超絶イケメン』という名前が追加されていた。
「ぶ……っ」
いや確かに文句のつけようもないくらいイケメンですけど?
困っちゃうくらい……おとなしく隣に並んでいられないくらい格好いいですけど!
(こ……これはイカン。いくらなんでも編集し直さなければ……)
でも見つかるとうるさそうなため、編集作業は後ほど行うことにする。
「ちなみにおまえは『弾丸アヒル』で登録しといたから」
「な、何ですかそれ……」
「『飛び出しアヒル』に変更してやってもいいぞ」
「う……は、ハイ、どうぞお好きに……。っていうか、やっぱりそれ当分言われるんですね、あたし……」
「当ったり前だろおまえ! 無闇に飛び出しやがって。幼稚園児だってもっと落ち着いて渡るわ」
「ふが……っ」
今度は鼻攻撃。
――が。
ひどい。熱あるのに……と訴えるまでもなく、すぐに鼻は自由になった。
というか、涙目になりながらもようやく「ちょい怒」の理由に合点がいく。
やはり親友カップルのハッピーエンド直前の、車の前に飛び出してしまったあの件をかなり根深く怒っているらしい。
千草に対して憮然として見えたのもそれの延長……ということだったのだろうか?
だとしたらホントにごめん柚ママ、あたしのせいだよ……と階下に向けて大反省。
そして目の前の怒りイケメンに対しても、それに関してはもう――
もう本当に本当に心から平謝りするより他はないと判断した。
「す、すみませんすみません……本当に反省してます」
無理して土下座でもしようものならさらに雷が落とされそうなため、出来うる限り顔と目線でペコペコと謝り倒す。
「ホントだぞ? 二度とナシだぞ」
「う……ご、ごめんなさいぃぃ」
それにしてもこうしてこの人に叱られるのももう何度目だろう。
そんな疑問が脳裏を掠めた時。
「おっかしいなあ、助けたの俺なのに」
開け放された入口に。
クスクスと爽やかな笑みと気配を振りまきながら、彼の人が学校鞄を携えて姿を現した。
「沖田くん……」
まぶしい笑顔で颯爽と部屋の中に踏み入ってきたのは、爽やかさと煌めきの権化――沖田侑希その人である。
忘れ物(ってもしかして学校鞄……?)を取りに行っている間に乾いたのか乾かしてから出掛けたのか、多少の汚れは見られるものの制服もやわらかそうな髪の毛ももうすっかりいつもどおりだった。
階下で何かしているのか、一緒に戻ってきたであろうこの部屋の本来の主――柚葉はまだ姿を現さない。
「ねえ西野、ちょーっと変だと思わない? なんでそこまで翔が怒るんだろうねー?」
「え……なんで、って……」
そういう君はなんでそんなにご機嫌なの?と思ったが、あえてそこには触れずに訊かれた内容に重い意識を向かわせる。
確かに、今回もまたずいぶん翔に怒られた。……が。
それはここまでの流れや彼の人柄を鑑みるに、こんな後輩のことでも普通に心配してくれて――ということではないのだろうか。
朦朧としたまま心の声でそう続けつつ、ベッドの足元近くまで歩み寄ってきた侑希を小首を傾げて眺めやる。
そのすぐ手前では、突然の幼馴染登場に驚くでも動じるでもなく「ちょい怒」キープのまま翔がギロリと振り返っていた。
「おまえもだ。侑」
「え? 俺?」
「ギリギリ無事だったからよかったものの――無鉄砲すぎんだよ。いつでも誰でも絶対助けられると思ってんじゃねーぞ!」
「えー間に合ったんだから別に……」
ポリポリ首の後ろを掻きながら、侑希が部屋の中央にドカリと腰を下ろした。
何が悪いんだ……?とばかりのその態度に我慢ならんと思った――――のかどうかは定かではないが。
ゆらりと不穏な空気を漂わせて、長身が大きく一歩詰め寄っていた。
仁王立ちのまま。眼球だけで見下ろす形で。
「うわー、翔ホラー調」
「茶化すなっ! 万が一ってこともあんだろーがよ! だいたいおまえもなあ、モノ考えてそうでなんっっでそういつもいつもいつもっ――!」
「あーはいはいはい。すみませんでしたー」
「返事は一回!」
「ハーイ」
「…………」
いくら熱に浮かされているとはいえ目の前で繰り広げられる珍しい会話に、彩香はすっかり唖然としてしまっていた。
いつの間にかポカンと開きっぱなしになっていた口をあわてて閉じたうえに、そそくさと顔半分まで布団を引き上げる。
この二人からまるでコントのようなノリとテンポの会話が聞こえてくることにまず驚きだった(いや……片方青筋立てて普通に怒っているが)のだが。
何を言われてもにこやかな――というより弛みまくった笑顔の沖田王子に、極限まで目を見開かずにいられない。
大切な女の子を思い出せたことでネジでも飛んでしまったのだろうか。
それとも、やはり先ほどのあのブロック塀に衝突した衝撃でどこかに何か――
(あ……)
「というワケで、西野ももう飛び出しちゃダメだぞー?」
「う……は、ハイ。それはもう……ホントに……す、スイマセン」
怖い可能性に思い至ったちょうどそのタイミングで、恐ろしく緩く軽いダメ出しをくらった。
数分前から再び絶賛大反省中だったし、まったくもってそのとおりなので、おとなしくペコペコと平謝り続行する。
――が。
芽生えてしまったとある可能性と不安はなかなか頭から消えてくれない。
ったくよー……とブツブツ言いながらようやく翔も腰を下ろしたところで。
その向こうから、優しげな濃茶の瞳に真っ直ぐに見つめられた。
「でも、ありがとう西野」
「え?」
「確かに危なかったけど……そのおかげで一番大事なことを思い出せたから。全部西野に言われたとおりだったし……。本当に大感謝だよ。何かお礼しなきゃってくらい」
「……」
でも道路はホントに気を付けなきゃダメだぞーと続いた緊張感のないセリフと笑顔に、横からすかさず「おめーもなっ」というツッコミが入っていた。
「あ、あの、沖田くん……」
怖いという気持ちを抑えこみ、意を決して彩香は口を開いてみる。
「お礼っていうより……あの、だったらこっちのお願いを聞いてほしいんだけど……」
「ん?」
そうだ。
その口でいくら大丈夫と言われても、心配と不安は完全に払拭できるわけがないのだった。
「ホントにごめんなさい、さっき……」
こちらも言葉だけではダメだ、と思い直し、右肘にぐっと力を入れて起き上がる。
上半身だけでもなるべく侑希に真っ直ぐに向き合うために。
悪寒は続いているしフラつきもあるが、そんなこと構っていられない。
「お願い。一応病院……行ってみて、くれないかな?」
「え?」
「大会も近いし、ちゃんと診てもらってほしい……。結構強くぶつかってたような気がするし……やっぱりあたし、気になって……。ほ……ホントにどこも何ともないってわかったら、それでいいから」
「大丈夫だって。本当に何ともないよ?」
「いや……で、でも――」
「もー西野も心配性だなあ。平気だってば。たぶん軽い打ち身くらい?」
「お、沖田く……!」
「侑が決めてんじゃねーよ。任せろ。明日俺が無理にでも引っ張ってく」
やわらかい笑顔でのらりくらりと躱されかけたところに、横から翔がぴしゃりと助け舟を出してくれた。
「ほ、ホントに……? お願いします……!」
「おう」
思わず涙ぐんでしまいそうなほど、ホッとした。
アレで――自分のせいで、もしどこか酷く故障してしまっていたら……と思うと怖くてたまらないのだ。
あの瞬間と衝撃を思い出すだけで、もしもの未来を想像するだけで――今でもじゅうぶん震えがくる。
「えー……大丈夫だってー」
「念のために……お願い沖田くん……! もちろん治療費払うし、な、何でもするから! だから……」
ベッド上という高い位置からで申し訳ないが、膝にくっつきそうなくらいおもいきり頭を下げる。
ぐらんぐらんとさらに波のような頭痛に押し寄せられたが、色よい返事が聞けるまで顔を上げるつもりはなかった。
「西野……」
「だから、お願い!」
侑希の困惑したような様子も理解できないわけではない。
でも本当に何も心配要らないのだという確かな安心が欲しかった。
とにかく無事であってほしい――要はその一心で。
何とも言えない沈黙がしばらく続いた後。
「……ほら。彩香にまで俺と同じ思いさせてーか?」
穏やかだがこの上なく心強い、まるで後押ししてくれているような一言がその場に流れた。




