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ツーリスト  作者: ノイ
1/3

01:音無

 青い草原のような海原を行く一隻の船があった。その甲板のパラソル付きテーブルにて優雅な音楽を聞きながらコーヒーを飲む青年がいた。

 青年は雲一つ出ていない晴天の下だというのにスーツ姿で、足下にはアタッシュケースが一つ横たわっており、スーツと同じ色の帽子がその上に乗せられていた。シルクハットの様にぐるりと鍔が広がっている帽子だが、右と左は上にそり上がっていた。

 スーツには皺が無く、中に着ているシャツも袖のボタンがぴったりと閉じられている。

 そのベルトからは革製のホルスターが下がっていたが、スーツの影に隠れてしまっている。

 暑い中で暑いコーヒーを飲んでいるというのに青年の額には汗一つ浮かんでいなかった。

「相席、よろしいでしょうか?」

 青年がコーヒーを楽しんでいると視界の端に青年よりも僅かに年上の男性の姿が映り、物腰低い態度でそう頼み込んで来た。男性の顔には一筋の汗が垂れていたが、誰が見ても優しそうと思わせるような、そんな人柄の持ち主だった。

「えぇ、構いませんよ」

 と、青年は言う。

 足下に置いておいた自分の荷物を座っている椅子の下へと動かしながら着席を促すように手を伸ばした。

「いやはや、すみません。 どうも他の席は空いていないようでして」

「それはそれは。 しかし物珍しいですね、これだけ暑ければ乗客全員船室に引きこもってしまいそうなものだと言うのに」

「確かに船室はエアコンが効いていますが、閉じこもってばかりだと窒息しそうになってしまいますよ。 そういうあなたはどうして甲板に?」

「船の上には良い風が吹くものです。 それを船室に閉じこもっていてはもったいない」

「はは、成る程」

 男は売店で買ったのであろう缶ジュースのプルタブを捻ると一息に開けて中身に口をつけた。ほぅ、と溜め息が漏れるのを青年は聞いた。

「この船に乗っているということは、やはりあなたもゾイリアへ?」

「えぇ」

「そのご様子ですと……お仕事か何かですか?」

「まぁ、そんなところです」

「お若いのにあんな所までお仕事とは……いや、感心致しました。 私の若い頃なんかそれはもう自堕落なもので」

「と、言いますと?」

「こう見えても演奏家の端くれをやっておりまして」

 男性は自分の唯一の荷物らしいケースを青年に見せた。長年大切に手入れをしたものなのだろう。時代は感じさせるが、古くささは無かった。

「若い頃は自分がどんな音楽でも奏でられると自惚れていたわけです。 ですがある日とんでもないスランプにぶつかりまして……。 暫くは苦悩との戦いでしたよ」

 青年は男性の顔を見ながらコーヒーを口にした。

「そしてスランプも極まった頃、この国にやってきたんです。 ほら、ゾイリアはあんな噂の立つ国でしょう? 何故かその時、妙にその国へ行ってみたくなったのですよ。 そうして帰ってきてみれば今まで引けなかったヴァイオリンが引けるようになっているではありませんか」

「あの国で何か?」

「大したことではありませんよ。 若く、愚かだった自分が忘れていたものを取り戻した、ただそれだけのことです」

「忘れていたもの、ですか」

「えぇ。 とても簡単なのに、とても失くし易い。 あの国で私はそれを取り戻したんです」

 二人の間に僅かな沈黙が流れる。

 それを破ったのは先ほどまで艦内のBGMを流すことに徹していたスピーカーだった。

『当船は間もなくゾイリア共和国へと到着いたします。 停泊後、各自下船をお願い致します。 お忘れ物が無いよう、お手回り品をお確かめ下さい』

「おぉ、もうそんな時間でしたか。 歳を取ると時間が経つのが早く感じる。 席を譲って頂きありがとうございました。 この恩は忘れません」

「恩ってことの程でもありません。 機会があれば、またゾイリアで」

「えぇ、本当にありがとうございました」

 そう言って男はテーブルを離れた。

 暫くすると陸地が見え、それが大きくなり、港が現れた。海原を進んでいた時からかなりスピードを落とした船はゆっくりと入港し、やがて停まった。

 下船を促すアナウンスに誘われて人々がタラップを降りて行く。青年も帽子を頭の上に乗せアタッシュケースを左手に持って船を降りた。

 ゾイリアに入国する際、金属探知機のようなゲートを潜ったが特に何も反応はなかった。パスポートに印を押してもらい、すんなりと入国を果たす。

 まずは宿探しだ。それから大きな荷物の入るキャリーバックと食料、鉛と火薬とその他諸々を買い出さなくてはならない。

 宿は港近くですんなりと見つけられた。適当な空き部屋にチェックインすると青年はスーツをハンガーに掛けてホルスターをその中身ごと机の上に置いた。窓の向こうには先ほど青年が乗って来た船舶の他、タンカーやコンテナ船、漁船など大小さまざまな船が港に止まっている。

 青年は机の上に載せたホルスターから回転式拳銃を抜いた。アタッシュケースの中から整備用の道具が入った小さな箱を取り出し、小慣れた手つきで分解していく。

 部品に欠損が無いかを調べ、必要なところには油を注す。

「長い付き合いだ。 貴方に壊れて貰っては私が困る」

 作業が終わった頃には青年の指先は僅かに黒くなっていた。

 銃の整備が終わるとホルスターに戻して再びベルトから下げた。それから先ほど思いついた品を近くの店で取り揃えてから夕食を取り、その日は床についた。

 翌日、青年は一つの音を耳にして目を覚ました。窓の向こうでは海の向こうから太陽が半分程出ており、港町が起き始める時刻を示していた。

 聞こえた音は小さく、僅かなものだったが青年にはそれが演奏なのだということが分かった。シャツに腕を通して着替えるとホルスターだけベルトから下げて部屋を出た。

 演奏が聞こえてきたのは宿の上階。建物の構造は来る時に頭の中に入れておいたので道には迷わなかった。記憶が正しければ音源はテラスにある。

 階段を上り、等間隔の照明で照らされる廊下を進み、テラスへと出る。青年が入ってきたのには気付かず、小さな演奏家はトランペットを鳴らしていた。

 少年の演奏が一通り終わった所で青年はぱちぱち、と拍手をした。それに驚き少年が咄嗟に後ろを向く。

「す、すみません。 ひょっとして起こしちゃいましたか?」

「いえ、この時間になると勝手に目が覚めてしまうのです。 そうしたら外から何やら音が聞こえたもので」

 少年の手にあるトランペットは新品の輝きを既に失っていたが、かといって年代物の雰囲気を醸し出しているわけでも無かった。恐らく手になじませている途中なのだろう。

「しかしこのゾイリアでは音楽が禁じられていたはず。 ほとんど誰も聞いていないとはいえそうして演奏をしても良いものなのでしょうか?」

「お兄さんひょっとして旅人さんかい?」

「まぁ、そんなものです」

「あぁ。 だったら納得だ。 ゾイリアでは確かに音楽は禁じられているけど、最近になってようやく一般市民が『演奏権』を獲得したんだよ!」

 少年の顔がぱぁと綻ぶ。

「これでもう昔みたいにちょっと音を出しただけで逮捕されるようなことは無くなったんだよ。……まぁ、レコードとか作品として発表するのはまだまだだけど」

「それでも、話を聞く限り随分と情勢も良くなったと思いますが」

「そう、……そう……だね……」

 少年はどこかバツの悪そうな表情をしてもじもじとしている。青年から目を離すとトランペットを抱えてたたた、とテラスの出口へと掛けて行った。

「お兄さん、まだこの国にはいるの?」

「えぇ。 明日には出るつもりですが」

「だったら今日の夜にやるクレナイって人のコンサートには絶対に行った方が良いよ! 絶対に!」

「そこまで言うのでしたら……考えておきましょうか」

 青年の返事を聞くなり少年の顔はまたぱぁと綻び、にっこりとしたまま階段を下っていった。

 自室に戻ってスーツに着替えた青年は宿の食堂で朝食を取りながら従業員に話しかけた。

「すみません、クレナイという方のコンサートが今日あると聞いたのですが」

「あぁ、それかい。 お客さん港近くのホールは見たかい?」

「えぇ」

「会場はそこさ。 国の人間だろうがそうじゃなかろうかタダで入れる。 まぁ聞いて損は無いから行ってみるのも面白いんじゃないか?」

「どうもありがとうございます。 ……それから、この近くに音楽学校ってあったりしますか?」

「よく知ってるな。 ちょっと前に出来たばかりの小さな学校だが、それがどうしたんだい?」

「お気になさらず。 ちょっとした興味ですよ。 ……ごちそうさまでした」

「あ、あぁ、お粗末様」

 口元を軽く紙ナプキンで拭うと、青年は立ち上がり宿を出た。

 財布の中身を確かめながら当初の予定通り、必要な物資を買い込む。特にキャリーバックは頑丈さと収納量を考慮して大きめのものを選んで購入した。多少値は張ったが旅に必要なものなのだから仕方ない。荷物を守るバッグに貧乏性を発揮していたらきっといつか痛い目を見る。その考えに青年は絶対の自信を持っていた。

 それから火薬と鉛、食料の類いをこれまた多めに買い込みバッグの中にしまっていく。宿に戻ってくる頃にはキャリーバッグはそれなりの重量になっていた。

 再び食堂で昼食を取り、一旦自室に戻る。備え付けの鏡の前に立ち、ホルスターに収まった回転式拳銃を引き抜き、構える動作を一通りこなす。それが終わると銃を除いた全ての荷物は部屋に置いて港の方へと繰り出した。

 コンサートまでしばらく時間はあるというのにホールの客の入りは多く、一階席と二階席の半分ほどは埋まってしまっていた。青年が三階の席に座る頃には日も暮れており、コンサート開始まであと十分を切っていた。

 ざわついていた会場も、照明が落ちブザーが鳴ると水を打ったかのように静まり返る。ホールの前方、ステージ上の照明が輝き一人の男性が舞台袖から登場する。

「あれは……」

 その顔を青年は知っていた。青年がゾイリアへ来る際、相席した男性だ。あの時の穏やかな雰囲気は存在せず、凛とした演奏家としての鋭い光が目には宿っている。

「彼が、クレナイさんだったんですね」

 誰に言うでもなく、周りの観客に聞こえない呟きを漏らす。

 クレナイは観客に向かって一礼する。それだけでホールは拍手に包まれた。

 それが終わるとステージの上の演奏家はすっとヴァイオリンを持ち、左肩に乗せた。弓を持つ右手がそっと弦に近づくと、一息に擦った。


 一言で表すならば、クレナイの演奏は何処までも自由だった。何者にも囚われず、演奏者の思うがままに音を手足のように操る。演奏中、観客は一人残らず息を飲み目と耳をステージの上から離そうとするものはいなかった。

 まるで一瞬煌めく星のような演奏が終わった時、観客は青年を含め誰一人として動くことが出来なかった。終了の空気がステージ上から青年の座る三階席の後ろまで駆け巡った直後、ホールはスタンディングオベーションに包まれた。

 各々の感想を口にする人々を横に見ながら青年もホールを出ようとした。その視線の中で

見覚えのある顔が横切った。今朝、トランペットをテラスで鳴らしていた少年だった。

 少年は青年には気付かず、荒い息づかいで走っていく。彼の向かう先はホールの出口とは正反対の方向、主にコンサートの関係者が使う控え室の方向だった。

「…………、」

 人ごみをかき分けて青年は少年の後を追った。

 賑やかな玄関口とは異なり控え室方向はしんと静まり返っている。蛍光灯が照らす白い廊下は冷たさすら感じさせる。

 ホールの係員に見つからないよう、静かに廊下を進んでいくと話し声が曲がり角の先から二人分の話し声が聞こえてきた。

「なんでさ! 僕ももう十三なんだよ!? おじいちゃんに付いて行っても良いでしょ!?」

 こちらは少年の声。何やら息も荒く、捲し立てるように喋っている。

「いいや、駄目だ。 このゾイリアの音楽学校で頑張って行くんだと意気込んだのはレオン、君の方じゃないか。 投げ出すつもりなのかい?」

 こちらは演奏を終えて戻って来たばかりらしい演奏家の方だ。決して厳しい言葉遣いではないが、強い否定の意思を示している。

「だって……だって学校の皆が僕のトランペットを馬鹿にするんだ……『ぷいぷい鳴らしてそれじゃ鳥の鳴き声と一緒だ』って」

「そうか、それは酷いなぁ。 じゃあレオン、君はつまりこう言いたいんだね? 学校の皆が嫌だからじいちゃんに付いてきたい、と?」

 少年が頷くのが影から見えた。

「つまりレオンは……逃げるわけだ。 トランペットから、そして音楽から」

「だって、だってしょうがないじゃないか。 僕は皆と比べても全然下手だし……」

「レオン」

 少年を呼ぶ声が深みを増した。少年……レオンははっとした表情で祖父の顔を見上げた。

「音楽と、絵画や彫刻や文学との違う部分は何処か分かるかい?」

 ふるふる、とレオンは首を横に振った。

「ほら、絵も像も字も全部目に見えるだろう? でも音はどうだ、目で見ることは出来るかい?」

 またもレオンは首を横に振る。

「数ある芸術の中で音楽だけは耳が頼りだ。 形の無いものを表現する、それが音楽にとって一番難しいところだ」

 恐らく音楽の特性と、今レオン自身が置かれている立場を重ね合わせたのだろう。レオンは僅かに顔を俯けた。

「でも目に見えず、形にないからこそ音楽はとても自由なんだ。 演奏者次第で音を飛び回らせることだって出来る。 これは絵にも像にも字にも真似できないことだ。 そうだろ?」

 俯いたレオンの頭を演奏家は力強く撫でた。影になったレオンの目からは涙の筋が僅かに光って見えた。

「他人と比べてどうする。 下手を気にしてどうする。 音楽で大切なのは自分が一体なにを演奏したいか。 それさえ分かっているのならばきっと、必ずレオンは素晴らしい音を奏でられるようになるよ。 ……レオンはどんな演奏家になりたくて音楽学校に入ったんだい?」

「僕は……僕は、聞いていて自然と楽しくなる音を出せるようになりたい」

「そうかそうか。 ならその気持ちを忘れずにトランペットを吹き続けるんだ。 大丈夫、心配に思うことは無い。 毎日肌に触れていればトランペットの方もレオンに応えてくれるさ」

「お爺ちゃん、また来年も来てくれる?」

「あぁもちろん来るとも。 来年も、再来年も、そのまた来年もレオンのために必ず来よう。 でも一つ爺ちゃんと約束してくれ」

「なに?」

「爺ちゃんだけ聞かせるのは不公平だ。 ……レオンも、来年、再来年、また来年とトランペットを聞かせておくれ」

「……うん!」

 レオンの目に涙は無く、彼の祖父と一緒に笑った。


 係員に見つかると大変だから、と促されたレオンは来た道を戻って行った。その足取りは軽く、迷いは消えたように思えた。

「見ていたのでしょう? もう隠れなくても構いませんよ」

 と、陰でこちらは見えないはずのクレナイが青年の隠れている方を見て言った。青年はゆっくりと姿を露にするとバツの悪そうな顔をして頭を下げた。

「すみません。 盗み聞きなんて少し卑怯でしたね」

「まぁあなたには席を借りた恩がありますから、水に流しましょうか」

 と、クレナイは船の上と変わらない優しげな微笑を浮かべている。その笑顔の作り方がレオンそっくりだ、と青年は心の中で思った。

「あの、コンサート……今回が初めてで?」

「毎年必ずこの国で一回は演奏するようにしています。 それでもう……四十年近くなりますかねぇ。 はっは、体はもうすっかり草臥れてしまいましたが、初心を忘れたことは一度もありませんよ」

「生涯現役のおつもりで?」

「えぇ、もちろん。 レオンがこの国のホールで演奏する姿を見るまで死んでも死にきれません。 もし神様が許してくれるのなら、彼と一緒に演奏会をやってみたいと思っているのです」

「それはまた……素晴らしい夢ですね」

 クレナイは二度、深く頷いた。

「私が若い頃のゾイリアはそれはもう酷かった……。 歌謡曲を流すのは法律違反。 町中で軽い演奏をしようものなら即逮捕。 演奏会でも役人が騒ぎ立てる。 『音無の国』なんて揶揄された時期もありました」

 青年の前でしみじみと当時を思い出すクレナイの目がすっと細まる。手に持っているヴァイオリンケースにも自然と力が入っているのが青年の目にも分かる。

「でも、そんなゾイリアだったからこそ、私はそこで改めて音楽の大切さを知りました」

「それでスランプを克服した?」

「簡単に言ってしまえばそうです。 それから、私が歳を重ねるのと共にゾイリアは段々と音楽の縛りを解いて行った。二十年程前でしたでしょうか、いつもならホールにどっしりと構えている役人がいないものですからとても驚いた覚えがあります。ホールだけで無く、町中での演奏もある程度までは行えるようになり、そしてつい近年には音楽学校が設立された。レオンがその音楽学校に入っていることはご存知で?」

 青年の方が頷いた。

 今朝、レオンのトランペットに刻印があることに気付いたのだ。断ち切れた鎖と音符のマークをした校章だと判断するのは難しくなかった。

「そうでしたか。 このゾイリアで音楽が解放された今、音を奏でていくのは彼らのような若い世代です。 レオンなら……彼らならば、きっとゾイリアを良い方向へと導いてくれることでしょう」

「クレナイさんの思いは、きっとレオン君の心の中に届いているはずですよ」

「それは、ありがたいことです」

 その時、控え室の方からクレナイの名を呼ぶ声が聞こえた。はい、と返事をしたクレナイはそっと青年に目配せをした。

「お邪魔してしまって申し訳ありません」

「邪魔だなんてそんな。 あなたと話すことで私も心が軽くなりました。 これでまた明日からの演奏にも身を入れられそうだ。 ……そうだ、あなたの名前を聞いていませんでしたね。 お名前は?」

「本名は長ったらしくて皆覚え辛いと苦情を言うのですよ」

「でしたら通称ですとか、ニックネームでも構いません」

「そうですね、ではエルドとでも呼んで下さい」

「エルド……覚えておきましょう」

「ではクレナイさん。 機会があればまた何処かで」

「えぇ、機会があればまた何処かで」

 手短に別れの挨拶を済ませるとエルドはホールの出口へ。クレナイは控え室の方へと戻って行った。

 翌日、いつも通り日が昇りきる前に目を覚ましたエルドは再びトランペットの音を聞いた。吹いている調子こそ昨日と変わりはないが、音色に変化があることは素人のエルドにも分かった。何処か芯のようなものが音の確立している。

「あれなら……見失わなくて済みそうですね……」

 トランペットの音を背景音に、エルドは出国の準備を進めた。

 ゾイリアへ来る時は船を使ったが、出る時は陸路を使おうと船の上で決めていた。宿をチェックアウトし、内陸側を外敵から守っている巨大な壁をくぐって国を出る。

 スーツ姿にキャリーバックという出で立ちのエルドを、出国を見守る役員は怪訝な目で捉えていたが当の本人は全く気にする様子は無かった。

 舗装された道路を行きながら空を見つめる。雲が遠くの方でぽつぽつと浮いているが晴れの青色が眩しかった。

 キャリーバックをごろごろと引くエルドの頭に、宿で鳴っていたトランペットのフレーズがリフレインした。一音一音をおぼろげながら思い出して口笛を吹いてみる。下手とも上手とも取れない音楽は空の青に混じって消える。

 誰もエルドの演奏を止める者はいなかった。


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