「怖がらなくても大丈夫、僕がなんとかしてあげるから」
住宅街のどの家もフロントガーデンにプリムラやストック、パンジーが植えられ、色づいた街路樹とともに美しい風景を生み出している。調和のとれた町並みは一枚の絵画を思わせた。英国の人間は大概、この手の景観にとても敏感だ。リリアンの住む借家も例外ではない。赤い屋根の家はフロントガーデンに紫色のエリカや黄色いユリオプスデージー、赤と白のストックが咲き誇っていた。ディンゴドラが緑の絨毯を敷き、ベアグラスが風に揺れている。
隆弘が感心したような声をあげた。
「見事なもんだな。お前が手入れしてんのか?」
「まあちょっとは手入れしてるけど、元からこんな感じだったよ。大家さんがガーデニング好きなんじゃないかな」
家の鍵を取り出そうとバッグに手を突っ込んだリリアンは、いつもの場所に鍵がないことに気がついて眉をひそめた。
隣にいた隆弘が彼女の異変に気づく。
「どうした?」
「鍵どっかいっちゃった」
「落したのか?」
「んーいつもここにいれっぱだからそんなことないと思うんだけど……今日鍵しめたのドリーだし……落したんならいつ落したんだか」
「連れのほうは帰ってねぇのか?」
「自転車ないからまだみたい」
隆弘の質問に答えつつ、女は飛び石と砂利で作られた道を通り玄関まで辿り着く。
未練がましくバッグの中を漁り、玄関のドアに視線をやったリリアンがピタリと動きをとめる。
「あれ?」
隆弘がリリアンの横に立った。
「どうした?」
「鍵あいてるっぽい」
勘違いかもしれないと思い試しにドアを引いてみると、あっけないくらい簡単にリビングへ続く廊下が顔を覗かせた。
リリアンの横に立っていた隆弘が、女を手で制して家の中をのぞき込む。
「……相方は帰ってねぇんだろ?」
リリアンは大人しく男に従い1歩さがると、頷いた。
「うん。自転車に乗ってったの見たもん。駐輪場に自転車ないから、たぶん帰ってないよ」
「警察に連絡したほうがいいかもな」
「誰か、いる感じ?」
「わからねぇな。ちょっと邪魔するぜ」
「あっ、まってよ! 私もいくよ!」
隆弘がスタスタと家の中に入っていったのでリリアンもあわてて後を追う。リビングには誰もいないし、誰かいた形跡もない。周囲を見渡す男の横でリリアンは首をかしげた。
「鍵、かけわすれただけなのかな……?」
「だといいがな」
隆弘がリビングからダイニングルームをのぞき込み、人の有無を確認している。リリアンは周囲を見回して、2階を見に行くことにした。
「ちょっと自分の部屋みてくるね」
隆弘が眉をひそめる。
「おい、誰かいたらどうすんだ。1階全部確認したら行くからちょっと待ってろ」
「大丈夫だよーたぶんー」
階段を上がって右手側の一番奥にリリアンの部屋がある。手前にあるドリーの部屋も、リリアンの部屋も、扉が少し開いていた。女は階段に視線を移して西野隆弘を呼びにいこうか悩んだ。それから結局、隆弘もすぐにこちらに来るだろうと判断する。これで部屋に誰もいなければ一安心なのだ。
まず半開きのドア身を隠すようにして背中をピッタリつけると、顔を出して部屋の様子を覗く。
――誰かいた。
「……っ!!」
リリアンは急いで身体を扉の影に隠し、極力音を立てないようにゆっくりと深呼吸する。ドクドクと心臓が大きく脈打っていた。顔が熱いけれど頭の芯は冷え切っていた。人影は窓のすぐ近くにいるものの、曇り空のせいで詳細はよく見えないが確かに人だ。とにかく速やかに家から出て警察に連絡したほうがいいだろう。今日は厄日だ。相手は1人だろうか。リビングに人影はなかったからいるとしたら2階。ドリーの部屋か浴室だ。
とにかく音を立てないように、だれかと鉢合わせしたりしないように、速やかに1階へ下りなければならない。
――くそ、物取りなら物取りらしく部屋荒らしてくれればこっちだって入ってこなかったのに。
別にリリアンが警察に通報している間に逃亡されたとしてもそれはそれでかまわない。鉢合わせて襲い掛かってこられるよりはるかにマシだ。
――自衛がなってない!
彼女は窃盗被害者になってしまった自分を棚にあげて不法侵入者に不満を抱いた。自分でもなにかが間違っているような気がする。
もう一度深呼吸してゆっくりと自室から遠ざかる。1歩あるくごとに背後を振り返っていたが、彼女が3歩目を踏み出したところで背後から声がかかった。
「リリアン・マクニール……さん?」
若い男の声だ。リリアンは肩をゆらして立ち止まると、振り向くべきか叫ぶべきか一瞬迷った。その間に背後の男がさらに話し掛けてくる。
「まって! 僕だよ……ジャッキー・ボーモントだ!」
言われた名前にリリアンが思わず振り返る。
「は?」
女と見紛う線の細い男が立っていた。背丈はリリアンと同じくらいで、ふわふわした髪が顔のまわりで踊っている。昨日間近で見た顔だから見間違うはずがない。ジャッキー・ボーモントだ。しかし彼は薬物中毒で病院にいるはずだ。仮に昨日の騒動が薬物を無理やり服用させられた結果だったとしても事情聴取はまぬがれないだろうし、そもそも心肺停止状態からこんなに早く動けるまで回復するはずがない。だとすれば、病院から脱走したのだろう。後ろ暗いところがなければ脱走などしない。つまり昨日ジャッキーは自主的に薬物を服用したのだ。
リリアンが警戒心を露わにして跳ねる癖毛を睨みつけていると、ジャッキー・ボーモントはほっそりとした頬を赤く染めて口元に穏やかな笑みを浮かべた。
「き、昨日は助けてくれてありがとう! 綺麗で頭もいい君に好いて貰えるなんて僕はとってもうれしいよ」
「いや、当然のことをしたまでで、好いてるとかそんなんじゃないから」
ジャッキーが笑みを深める。周囲の空気が華やぐような可愛らしい笑顔だ。
「大丈夫! 僕はちゃんとわかってるよ! 好きじゃない人間に人工呼吸なんかしないものね!」
リリアンが眉をひそめた。
「命ナメんな?」
「僕も前から君のこと綺麗だなって思ってたんだ! 光栄だよ!」
――ダメだ。人の話聞いてねぇ。
こうなると多少話の通じる西野隆弘のほうがマシだったとさえ思える。経済力では五分くらいだろうし顔もタイプが違うだけで同じくらいのレベルだから隆弘に軍配があがるのは『話が少し通じる』という一点のみだが。今日リリアンに絡んでくるのは残念な男ばかりだ。西野はファッションセンスが息をしていなかったが、ジャッキー・ボーモントは薬の影響で脳みそが壊死しているのではないだろうか。そのくらい会話が噛み合わない。彼はすっかり忘れているようだが、ジャッキーはリリアンの部屋に不法侵入している男だ。会話をするのはこれが2度目で、1度目は彼の意識がもうろうとしていた昨日の夜。当然家の合い鍵など持っているはずもない。決定打は先程の思い込みが激しいにもほどがある発言だ。間違いなくストーカー。その上薬で頭が壊れている。つまり彼は一分の隙もなく完全に犯罪者なのだ。
ヤク中ストーカーがニコニコと笑いながら話し掛けてくる。
「僕も君を素敵だと思ってるよ! だから、僕が君を守ってあげる!」
「生憎他人に守られなきゃいけないほどアグレッシブな人生は送ってないんでね」
「君を守れるなんてとっても光栄だよ!」
「聞けよ」
リリアンの身体と頭が疲れを訴えている。会話の通じない相手とコミュニケーションを図ることがこんなにストレスになるとは思いもよらなかった。
ジャッキーが明るい様子で話し掛けてくる。
「僕が頼んであげたから、もう安心だよ! 一緒にいこう、リリアン!」
言葉に主語がない。彼が誰に何を頼んでなにがもう安心だからどこに一緒にいって欲しいのかリリアンにはまったく解らなかった。もっとも解りたくもない。
ジャッキーが1歩自分に近づいてきたので彼女は思わず肩を振わせた。
「やめて! くるな!」
女の悲鳴に、ヤク中が首を傾げる。
「リリアン、どうしたの? まだ不安?」
リリアンは1歩ジャッキーから後退して首を何度も横に振った。
「言ってる意味がわからない!」
ジャッキーが笑った。
「ああ、僕の説明が足りなかったね! 薬のサンプルをリリアンが持ってくれば安全を保証するって、約束してくれたんだよ!」
「く、くすり?」
そうだよ、とジャッキーが頷く。
「ネズミが空を飛んだときの薬だよ」
リリアンの肩がビクリと震えた。
――ジャッキーもネズミのことを知っている。
あの男2人とジャッキーはグルなのだろうか。
ジャッキーがあの2人に情報を流した?
しかしジャッキー・ボーモントは専攻が違う。あの研究室にくる必要性がない。
たまたま通りかかったのか、それとも。
リリアンが身体を硬直させたままジャッキーを凝視していると、ヤク中はニコニコと笑ったまま口を開く。
「あれは素晴らしい薬だね! 生物の進化を促進させる薬だ! あの薬に携わっていた君は、是非とも保護されるべきだと、僕は思うよ!」
ジャッキーがニコニコと笑ったままリリアンとの距離を詰めてくる。女はたまらず1歩下がった。
ジャッキーの細い指先が伸びてくる。
「怖がらなくても大丈夫、僕がなんとかしてあげるから」
冗談じゃない。
知られている。
情報が、どこからか漏れている。
生物の進化を促進させる薬。
ネズミが空を飛ぶ薬。
どうしてそんな話になったのか。
ルーベンの部屋は荒らされていた。
リリアンはそのあとの、警察の調査についてはよく知らないけれど、部屋が物色されていたのは確かだ。
なにか、盗まれていたとしたら。
眉をひそめたリリアンがジャッキーを睨みつける。
「っ、まさか、アンタらが……クラブで飲んだのはっ!」
ジャッキーが頷く。
「そうだよ。データから復元した薬だ! まだ変化はないけど、きっと素晴らしい結果になってるはずだよ! 僕はきっと新しい力を手に入れられる!」
リリアンがゆるゆると首を横に振った。
「信じられない……自分の身体で、人体実験したの……?」
リリアンはクラブでジャッキーが無理やりドラッグを飲まされたのだと思ったが、もしかしたらジャッキーのほうがミックたちを騙して薬を飲ませたのかも知れない。
男は相変わらず笑ってリリアンとの距離を詰めてくる。
「人体実験なんかじゃないよ。新しい自分になるための試練さ!」
スラリとした指が肩に触れたのを感じて、リリアンが思わず叫ぶ。
「こっ、こないで!」
バタン、と1階から大きな音がする。ついでバタバタと階段を上る音と、西野隆弘の声が聞こえてきた。
「リリアン! どうした!」
ジャッキーの手がリリアンから離れる。駆け上がってきた隆弘が華奢な男の姿を見て驚いた声を上げる。
「ジャッキー……!?」
リリアンをまっすぐに見ていたジャッキーの中性的な顔立ちが、みるみるうちに怒りに歪んでいった。
隆弘は知り合いだといっていたが、この分ではあまり友好的な知り合いではなさそうだ。
怒りでほっそりとした顔を赤く染めたジャッキーがツバを飛ばして叫ぶ。
「隆弘! また君は僕の邪魔をするの!? リリアンに手を出すなっ!」
隆弘が鼻を鳴らす。
「今も昔もテメェのジャマした覚えはねぇよ」
「黙れ! 君はいつだってそうやって僕の邪魔をするんだ!」
ジャッキーが隆弘に夢中になっている間に、リリアンはそっと彼から距離を取った。隆弘は彼女の行動に気づいているのか、ジャッキー・ボーモントの神経を逆撫でするようにあからさまな嘲笑を浮かべてみせる。
「なんだ、ユニオンでコテンパンにやられたのまだ根に持ってやがんのか? 2ヶ月も前の話だぜ?」
ジャッキーが苛立った様子で床を蹴った。ドンッ、と重い音がする。
「君はいつもそうだ! いつも自分が正しくて自分が強いって疑わない!」
「事実だろうが」
ジャッキーの顔がさらに赤くなった。せっかく白くてなめらかだった肌が今や酔いつぶれたように真っ赤だ。
「なんて傲慢で、冷徹で、残酷なんだ! 世界が自分を中心に回ってるとでも思ってるんじゃないのか!?」
「世界が俺以外の誰かを中心にして回れるはずもねぇだろ」
またジャッキーが苛立った様子で床を蹴る。
「うるさいうるさい! だから君は嫌いなんだ! リリアンに近づくな! 彼女も迷惑してるんだ!」
「そうは見えねぇな」
「なんて傲慢な男なんだ!」
リリアンは心の底からどっちもどっちだと思った。
ジャッキーが下唇を噛んで怒りに身体を震わせる。
「君はいつだってそうなんだ! 僕の邪魔ばっかりする! 今回ばかりは君の好き勝手にはさせないからな!」
カチャリと金属音がした。ジャッキーの手に黒い固まりがある。
拳銃だ。
リリアンは自分の口元がひきつるのを感じた。銃口をまっすぐに向けられた隆弘は平然とした顔をしている。
「本物か?」
ジャッキーが小馬鹿にしたように笑った。
「すぐにわかるさ」
この態度からして本物のようだ。どうしてこう物騒なことばかりが続くのか。そもそも一介の学生であるジャッキーが拳銃などというものをどうやって手に入れたのだろう。
ガシャンと撃鉄を起こす音がした。
リリアンが思わず声をあらげる。
「西野っ!」
隆弘が床を蹴って左へ飛び退いた。
パァン、と風船の割れたような音が響く。
ビシリと廊下から音がした。弾丸がめり込んだようだ。
隆弘の身体には当たらなかったようで、男の身体に目立った外傷はない。
すぐさま1階から荒々しい音が聞こえた。
「なんの騒ぎ!?」
どうやら同居人のドリーが帰ってきたようだ。バタバタと階段を上がる音がして、ドリーが顔を覗かせる。
「リリアン! どうしたの!?」
ドリーの声から逃げるようにしてジャッキーがリリアンの部屋に逃げ込む。隆弘が追いかけるも、窓に手をかけたジャッキーが飛び降りるほうが早かった。
隆弘も窓に足をかける。
「待ちやがれテメェ!」
リリアンはとっさにかけよって男の身体にすがりついた。
「やめて! あぶない! お願いだから!」
庭からジャッキーの声が聞こえてくる。
「覚えておいて! 薬のサンプルを持ってきてくれれば、絶対に安全を保証する! 言うとおりにしてくれたら、僕が手出しさせないから!」
リリアンが窓の下を見ると、芝生の上に着地したジャッキーが走って行くのが見えた。華奢な身体のくせによく骨が折れなかったものだ。
とにかく、拳銃を持った凶悪犯が家から離れていくのを確認し、彼女は安堵の息をつく。
警察に通報したほうがいいだろう。肩にかけたバッグから携帯電話を取りだしたリリアンは手が震えていることを自覚しながら、手同様震えた声で
「警察に、通報しよう」
と言った。