「ああ。舌が腐るかと思いながら食ってるぜ」
「ねぇ西野ぉ、手ぇ離してよー」
「隆弘だ」
リリアンの言葉に反応はするものの、男が彼女の願いを聞き入れる様子はなかった。手をもぞもぞと動かしても隆弘の手はびくともしない。
「1人であるけるよー」
「悪いな、良く聞こえなかった」
「ちくしょう意地でも離さない気だなこの暴君め」
「さすがだぜ優等生。よくわかったな」
「今に見ておれ」
大通りを出て少し歩くと『ハウス』ことクライストチャーチが見えてくる。もはや城といっても過言ではないゴシック様式の建築は、古い町並みの中でも異彩の存在感を放っていた。どんよりと重い曇り空が重厚な建物を薄い影で覆い、一瞬町中にうずくまる巨人のようにも見える。
この周囲には観光スポットが多い。今も道路の向かい側にある赤い電話ボックスの横で、2人組になった警官が観光客に道を聞かれていた。
隆弘は背が高くやたらと目立つので、手を握られているリリアンも自然と周囲に注目される。人通りの多い大通りなのでなおさらだ。気恥ずかしさから彼女が必死に手を振りほどこうともがくも、隆弘のほうが力が強くびくともしない。
リリアンはまだ手をもぞもぞと動かしながら横の男に言った。
「最近観光客増えたよねー」
「そうだな。先週俺もアリスショップまでの道聞かれたぜ」
「あっ、私もあるー! なんかさ、もともと多かったけど、最近来る人めっちゃ増えたよね? あれなに、なんかに紹介でもされた?」
「去年日本とアメリカのアリス展に出品したらしいからな。それじゃねぇのか」
大通りにドンと構えたトム・タワーに夢中になっていた観光客の女性が、写真撮影の手を止め隆弘を見る。それからリリアンに視線をうつし、
「あれが……ロイヤルカップル……!」
と呟くと、しばらくカメラを持ったまま立ち尽くしていた。
横で『ハリポタみたい!』とはしゃいでいた女性も友人の異変に気づいて動きを止め、同じようにリリアンと隆弘を見送る。恐らく2人とも隆弘の首から下をよく見ていないのだろう。
突き刺さる視線に耐えきれずリリアンは肩を竦めた。このまま針のむしろは嫌だったので、再び隆弘の手を振りほどこうともがくがやはり無駄な努力。むしろさきほどよりも強く手を握られたので、抵抗をあきらめて大人しく現状に甘んじる。
てっぺんにお姫様でも幽閉されていそうなトム・タワーを通り過ぎ、観光客を見守るように立っている警官の横も通り過ぎると、向いから2人組の警官が歩いてきた。リリアンが挨拶をすると硬い感じの挨拶を返してくれる。
すれ違う警官2人を横目で追った隆弘が、しばらく歩いたあとリリアンに言った。
「やたら警官が多いな」
リリアンも首を傾げる。
「なんかあったんかねぇ」
「お前以外にも観光客に絡まれたやつがいたんじゃねぇのか」
隆弘の軽口にリリアンが声をあげて笑う。
「ありうるわー! 元気そうだったもんあの2人!」
隆弘がククッ、と喉の奥で笑った。
「今から警察行ってあいつらのモンタージュでも作ってもらうか? それで犯人がつかまったら感謝状かなんか貰えるかもしれねぇぜ」
繋がれたままの手をリリアンがパタパタと揺らす。隆弘の腕も一緒に揺れた。
「えー、やだー! 私今日食事当番だからはやく家帰らないと、夏の戦利品読み返す時間がなくなるぅ!」
「勉強する時間がなくなるって言えよそこは」
「そっちはもう確保してあるから問題ないの」
プリリズムを終えて無事進級したリリアンは、カレッジから出て町の南側にある借家を借りている。オックスフォードの学生は1年と3年時にはカレッジで暮らし、2年になるとカレッジを出て借家を借りるのが普通だ。2年時にカレッジへ留まるのにはよほどの 理由がなければ認められない。学生用に良心的な家賃が設定されているし、その家賃も大抵が友人と分担して払う。リリアンはドリーとルームシェアをしていた。家がはす向かいと言っていたから隆弘も同じだろう。
リリアンが手をブラブラと揺らして首を傾げた。
「隆弘は急がなくて大丈夫? 今日食事当番だれなの?」
「ああ、俺は1人だから時間は自由だ。気にしなくて良いぜ」
「マジか。一緒に住んでくれる友だちもいねぇのかボッチマン」
「天才が孤独なのはいつの世も一緒だな」
「ポジティブシンキングにもほどがあんだろうがよ」
「事実を言ったまでだぜ」
リリアンは男の発言を無視することに決めた。
「1人だと家賃高くね?」
「ウチの物件だから家賃なんかねぇよ」
女が口をへの字に曲げる。
「おっふ……クッソボンボンめが……家事1人だと大変じゃないの?」
「別に。飯はだいたいカレッジいって食うから準備なんかしねぇし、洗濯はコインランドリーがあるしな」
「カレッジのご飯不味いじゃん」
「ああ。舌が腐るかと思いながら食ってるぜ」
冬のテムズ川を越えて住宅街へ入ると、比較的落ち着いた色の三角屋根が立ち並ぶ。リリアンの住む借家はすこし珍しい赤い屋根の家だ。彼女は借家をはじめて見た時、昔遊んでいたドールハウスを思い出した。動物の人形がついてくるタイプの、部屋に明かりが灯る玩具だ。