「君はリリーを知っているか?」
「チーズとアボカドのサンドイッチちょーだい! あとローストビーフのやつもいっこ!」
騒動から一夜明けてそろそろ正午という時刻。警察の事情聴取を無事に終えたリリアンは、カバードマーケットにあるサンドイッチ・カンパニーで昼食を取ることにした。買ったサンドイッチを持って店の横に置かれたテーブル席へ腰を下ろす。
ハイストリートを小さな路地に入っていくとそこがオックスフォードのカバードマーケットだ。タイルが敷かれ屋根の取り付けられた屋内市場はハイストリートとマーケットストリートを繋ぐ4つの道と、それを繋ぐ3つの路地で構成されている。落ち着いた色の赤や緑、白亜が使われた店は屋内であることもあってどれも綺麗だ。限られた場所に密集しているので店舗は小さい。日本の地下街と同じような雰囲気だ。デパートの専門店エリアを少し切り取ったとたとえても良い。ここに足を踏み入れるとドールハウスの中へ迷い込んだような気がするので、リリアンはカバードマーケットがお気に入りだった。雨だろうが曇りだろうがカバードマーケットなら関係ないし、観光客はだいたいクイーンストリートかコーンマーケットストリートで買い物をするからカバードマーケットは比較的穏やかに過ごせる。
椅子に座ってバッグを向かい側の座席に置いたリリアンは、通路を歩く人々の様子を眺めながらフゥ、とため息をついた。
事情聴取なんて20年生きてきて初めての経験だ。すこし気疲れしてしまったが、良い話のネタになるだろう。
昨日吐血した3人はすぐに死亡が確認され、薬物中毒による死亡と判断された。もともとジャッキー・ボーモントの救命措置をしただけだったリリアンは事情聴取に大した時間も要さず、こうして時間通りの昼食にありつけていると言うわけだ。
「さて、ご飯たべよ!」
彼女がバッグからいつも持ち歩いている胡椒を取りだしてサンドイッチにかけていると、横の席に腰を下ろした中年の男女が一瞬化け物をみるかのような目つきで彼女を見てきた。一見さんはだいたい同じような反応なので気にしない。サンドイッチの表面にまんべんなく胡椒がかかったところで、リリアンはアボカドとチーズのサンドイッチをひとくち食べた。相変わらず美味い。
横の席から突き刺さる中年男女の視線を浴びながらサンドイッチを完食すると、胡椒のついた手を紙ナプキンでぬぐい席を立つ。ちょうど店舗から店員の男が1人出てきたのでパタパタと手を振った。
「ごちそうさまー!」
これから休憩に入るのだろう男は笑顔で手を振り替えしてくれた。
しばらく男に手を振っていたリリアンは、男が歩いて行くのを確認するとバッグを持ち直してハイストリートへ向う。
生憎の曇り空で、カバードマーケットを出た瞬間湿った空気の匂いが鼻孔をくすぐった。太陽は灰色の雲で隠れており昼間だというのに薄暗かった。
赤い二階建てバスが通り過ぎるのを見送って道路を横断し、チョコレート色の外装が目を引くスイーツショップで一旦立ち止まる。ウインドウに色とりどりのスティックキャンディが飾られていた。ブリキのバケツに入ったキャンディは生花のように見える。目に楽しいディスプレイをしばらく眺めてから、彼女は人1人がギリギリ通れるくらいの通路に入っていく。道と言うより建物と建物の隙間といった感じだ。ただでさえ太陽の光があまり入ってこないうえ、今日は曇り空なので余計に薄暗かった。正午なのに夕刻のような影ができている。錆び付いた排気パイプを頭上に見上げてくたびれたレンガの隙間を通っていくと、向かい側からスーツを着た男が2人並んで歩いてきた。イタリア人のようだ。観光客だろうか。
リリアンはすこし迷ってから、男2人が道を通れるようにギリギリまで左に寄った。はずみで左手の甲がレンガに触れてざらざらとした感触が残る。男2人はリリアンが道を譲っても仲良く横一列に並んで歩いていた。このままでは左側の男とリリアンが正面衝突してしまうだろう。
――ちくしょう仲良く並びやがっておまえらホモかよ。
いちゃもんに等しい感想を抱いたリリアンがその場で立ち止まる。男たちはまったく気にした様子もなく狭い路地を直進してきた。彼らの目線が路地の向う側ではなく自分に向いていると気づいた彼女が違和感に首を傾げる。けれどおかしいと思ったリリアンが道を引き返そうとした時には、既に男の1人が彼女の腕をガッシリと掴んだ後だった。
険しい表情の顔を思いきり近づけられ、リリアンは思わず声を上げる。
「えっ」
ガチャリ、と脇腹に硬い感触がした。顔をリリアンに思いきり近づけた左側の男が低く呻る。
「騒ぐんじゃねぇぞ」
ウソだろ、とリリアンは思った。
オックスフォードはイギリスでも治安の良い場所だ。そもそもイギリス自体が銃の携帯には非常に厳しい。路地裏で銃をもった男2人に脅されるなどハリウッド映画の中だけで充分だ。
リリアンの脇腹に銃を突きつけた男が、彼女の耳元に口を近づける。
「君はリリーを知っているか?」
左側の男と違って穏やかな口調だ。リリアンは脇腹の銃口に目線を移す。
「昔はよくそう呼ばれてたよ」
左側の男がリリアンの肩を掴む腕に力をこめた。ギリギリと痛みが走る。
「誤魔化すんじゃねぇよクソアマァ」
「そんなこといわれても、それ以外は知らないよ」
右側がリリアンの脇腹に銃を強く押しつけてくる。鉄が肋骨の間に入り込んだせいでひどく痛い。
男が穏やかな口調で、諭すように言う。
「質問をかえよう。ネズミが空を飛んだ時、君はその場にいたんだろう?」
リリアンの肩がビクリと揺れた。男たちはそれを確認して口元を歪める。
反対に、リリアンの額には冷や汗が浮かんでいた。声が震える。
「あんたら、そんなこと、どこで……」
――なぜ、この男たちはネズミのことを知っているのだろう。
空を飛んだネズミの事は、自分と、ルーベンしかしらないはずだ。
偶然見られてしまったのか、どこかから情報が漏れたのか。
銃を持った男が落ち着いた口調で答える。
「さあてね。こういうことに興味のある連中は多いから」
リリアンが男を睨みつける。
「まさか、あんたらが……!」
すると男はわざとらしく肩を竦めて見せた。
「おっと、勘違いしないでほしいな。それは濡れ衣もいいところだよ」
わざとらしく笑い声を出してから、彼は女の肩に手を置いた。
「とにかく、君は『リリー』を知っているはずだ。一緒に来てもらおう」
右側の男が強くリリアンの腕を引っ張った。そのせいでまた腹に銃口が食い込む。リリアンにこういう時抵抗する術はない。2ヶ月前に見たルーベン教授の部屋が脳裏を過ぎった。
ひっくり返された椅子に割れたコーヒーカップ。散らかった本。乱れた書類。
床に広がる、赤黒い水――
「ひっ……!」
リリアンの口が悲鳴を形作ると、右側の男が大きな手で塞いでしまった。
「騒ぐんじゃねぇっていったろ。腹に穴あけられてぇのか」
男の顔が真正面にある。リリアンはおもわず目線を上にずらした。金物屋。緑の下地に黄色い文字で店の名前が書いてある。
ふと、彼女の視界に影がうつりこんだ。男たちはリリアンと向かい合う形になっているため影に気づかない。
「楽しそうなことしてるじゃねぇか」
低い声がした。右の男がリリアンに突きつけた銃を大きな腕が掴み、腕ごと捻りあげる。
「なっ、なんだ!?」
スーツを着た男2人よりも背の高いギリシャ彫刻のような男が立っていた。口にタバコを咥えている。
「俺もまぜてくれよ」
西野隆弘。
昨日ナイトクラブで女にフラれていた『ハウス』の色男だ。ジャッキー・ボーモントが倒れたとき一番に気づいた人物でもある。彼も昨日の騒動に巻き込まれた1人なので、リリアン同様事情聴取の帰りなのかもしれない。逃走しようとした男3人を取り押さえたのは彼なので、リリアンより事情聴取が長引いたのだろうか。男たちの死亡は薬物中毒によるものと判断されたから、それほど詳しい取り調べが必要とは思えないが。
「手間ぁかけさせやがって」
西野隆弘が咥えた煙草にそのまま歯を立て、ブチリと噛み切った。
「歯ぁくいしばりやがれ!」
男はポケットから取り出したティッシュで口元を拭うと、銃を持った男の腕を壁に叩きつけて武器を手放させる。反撃しようとのびてきた反対側の腕も掴んで壁に縫い付けると、無防備になった腹部に膝を3回叩き込んだ。相手の男が身体を動かせる精一杯まで身を捩らせる。
「ぐっ、えぇえっ!」
哀れなほど情けない声だ。隆弘が男の腕を持ったまま身体を反転させ、リリアンの肩を掴んでいた男に向けて男を蹴り飛ばす。仲間に受け止められた彼は目の前の肩に縋り付くようにしながら唾液をまき散らし、必死に浅い呼吸を繰り返した。痛みのためか口からゼェゼェと妙な音が漏れている。
仲間の男が吐いた唾液でスーツの肩口を汚された男が隆弘をまっすぐ睨みつけた。
「ち、ちくしょう!」
だがこれ以上の騒ぎを恐れたのか、単純に隆弘と喧嘩をしたくないと思ったのか、男は吠えるだけ吠えると仲間の身体を引きずるようにして路地の反対側へ逃げていく。
当然隆弘が後を追った。
「待ちやがれテメェ!」
ゼェゼェと妙な呼吸音を響かせていた男も体力が回復したらしく、隆弘の声から逃げるように2人で走る。タイミングよくT字路に横付けされた車の後部ドアが開いて、男たちがそれに滑り込んだ。
路地を出て数キロ追いかけた後車を見失った隆弘が苛立った様子で地面を蹴る。
「クソッタレが!」
路地に取り残されたリリアンは地面に落ちた拳銃を拾い、それがモデルガンであることを確認して一息ついた。万が一本物だった場合、また警察へ行くハメになっていただろう。彼女は騙されてしまった気恥ずかしさも手伝って多少派手にモデルガンを投げ捨てた。