「ふざけないでよ!」
「さあ、リリアン! いきましょう!」
「まってよドリー! ちょっと急ぎすぎだよ!」
2人の女がナイトクラブに入っていく。茶髪の女が金髪の女を引っ張っていくような形で、黒服を着たゴツイ男に2人分の学生証を見せた。入場料として3ポンドを払うとフロワに入れる。荷物を預けるためには1アイテムにつき1ポンド払う必要があるので荷物は少なめが必須条件だ。できればコートも羽織らないほうがいい。
カウンターまで行くと茶髪が金髪のほうに振り返った。
「リリアンはなに飲む?」
金髪の女は一瞬目を伏せ、少し迷ってから
「んー、リンゴ酒でもいいんだけど……スコッチにする!」
と伝えた。そうして茶髪の方を見ると首を傾げて
「ドリーは?」
と尋ねた。茶髪女――ドリーは笑顔で
「私はビール! それとポテトの丸焼き頼むけど、リリアンは?」
「んー、いいやー! 先テーブルとっとくね!」
リリアンはスコッチのグラスだけを受け取ってテーブルへ向う。時刻は夜の10時半を過ぎていて、クラブはたくさんの人間があふれかえっていた。
途中彼女連れの男がリリアンの姿を見て口笛を吹き、連れの女に肘で小突かれていた。強めの攻撃だったらしく男が微かに仰け反る。
リリアンの金髪は薄暗いナイトクラブの中でもキラキラと光り、金糸できているようだ。大粒のエメラルドをはめ込んだようなグリーンの瞳は、長い金糸のまつげに覆われており贅沢な装飾品を思わせる。白い肌は磁器のようになめらかだ。なだらかな曲線を描く肢体に推定100㎝以上のふくよかな胸が乗っていた。一見その手の趣味を持った人間が愛好する球体関節人形のようだが、明るい笑顔が見かけと性格のギャップを如実に現わしている。
リリアンがテーブルにグラスを置いて数十秒後、ドリーがビールのグラスとジャックド・ポテトの皿をテーブルに置いた。
そうしてリリアンを不安そうな顔で見る。
「本当になにもいらないの?」
「うん。ご飯たべたもんー!」
ドリーが顔を歪めた。
「食べたって……家出る前にチョコレートひとかけ食べただけじゃない」
リリアンはスコッチのグラスに口をつけ、ヘラヘラと笑って見せる。
「あれ? そうだっけ?」
「そうよ。それに、今日だけじゃなくて、最近ずっと、マトモに食べてないわ」
リリアンが笑ったまま首を傾げる。ドリーが目を伏せた。
「……ルーベン教授がいなくなってから、2ヶ月たつわね」
ドリーの言葉にリリアンは身体を震わせ、笑顔を保つため一心にドリーが持っているビールのグラスを凝視した。
唇が知らずに震える。
「……そう、だね……テムズ川の川べりで教授の血痕が発見されて、それっきり……きっと、もう……ルーベン教授は……」
ドリーの持っていたグラスの中身が大きく揺れた。リリアンがビールの揺れを凝視しているなか、ドリーが務めて明るい声を出す。
「だめよ! いつまでも落ち込んでたってしょうがないわ! リリアン、あなたこのままじゃ身体壊すわよ!」
「うん……ご飯食べなきゃ、勉強ついていけなくなるよね……」
「そうよ、オックスフォードの授業はどれもそんなに易しくないんだから!」
リリアンは笑おうとして失敗してしまった。
彼女達2人はオックスフォード大学の学生だ。1年間の授業と進級試験を終え、今年の10月に無事進級を果たした。新学期早々とんでもないアクシデントに遭遇したが、それで今までの努力を無駄にするわけにはいかない。
ドリーがリリアンの前にジャックド・ポテトの皿を差し出した。
「……教授の部屋、最初に見たのはリリアンだから、ショックなのはわかるわ」
リリアンは力なく笑って見せる。今度はなんとか笑顔の体裁を整えられた。
医学専攻のリリアンとドリーは2人ともルーベン教授から薬学の個人授業を受けていた。
個人授業というのはオックスフォード特有の教育システムのことだ。学生は各学科1人ないし2人の指導官から毎週出された課題についてのエッセイを提出し、議論の中で専攻分野の知識を深めていく。医学専攻は講義やセミナーが授業の中心になるが、顔をつきあわせての個人授業は重要だ。
結局ルーベン教授の指導を受けたのは1年間と少しだけだったが、関わりは深い。
ドリーがリリアンの顔を見てきたので、リリアンはそれを気づかれないようすこしだけ視線をずらす。
人の目を見るのは苦手だった。
「研究の助手まで任されて、すごく目をかけてもらってたって聞いたわ。よく、相談もしにいってたわよね」
「……うん」
「私なんかよりずっと、ショックだと思うわ。でも、2ヶ月もずっと落ち込んでたら身体に悪い。リリアンにまでなにかあるのは嫌よ、私」
リリアンは思わず息をのむ。ドリーはあいかわらずゆっくりと、穏やかな口調でリリアンに語りかけてきた。
「だから、ね? 今でも精一杯明るく振る舞ってるのは知ってるわ。だけど、とにかく、ご飯は食べましょう?」
リリアンの手がスコッチのグラスを弄ぶ。中に入った液体が少し波打った。
「……そう……そうだね……ごめん。心配かけて」
「ううん。私こそ無理やりこんなところに連れてきてごめんなさい」
「いいよ! 私も行くっていったし、静かなパブより気分転換になるもん!」
ナイトクラブにはアップテンポなダンス・ポップが大音量で響いているから、暗い気分になるのを力業で妨害してくれる。薄暗いダンスホールは色とりどりの ライトがグルグルまわっていて、理性も平衡感覚も狂ってしまいそうだ。酒とタバコと化粧と食べ物のニオイが混じり合い人の熱気に満ちた空間はお世辞にも過 ごしやすいとは言えないが、人の気分を高揚させた。
「じゃあ私もせっかくだからジャックド・ポテト頼んでくる!」
「そうするといいわ」
ドリーの口元に笑みが浮かぶ。リリアンは一度テーブルを離れてカウンターに向うと、ドリーと同じ品物を注文し、皿を持ってテーブルに帰ってきた。それからお互いに笑ってビールとスコッチを飲み、しばらくとりとめのない話をする。
「そういえばリリアン、今日アナタのお姉さんから手紙来てたわよ」
リリアンが渋い顔でスコッチを飲む。
「え? あー……そうなんだぁ……」
明らかに気のない返事をするリリアンに対し、ドリーは苦笑して見せた。
「また会いたいから実家に帰ってきてって内容じゃないの? メールこなかった?」
「んー、来た気がするけど、こっちも忙しいし、あっちも忙しいだろうから、つい忘れるんだよね。アメリカ住んでるってのにちょくちょくこっち帰ってくるバイタリティはどこにあるんだろ。なんの仕事してるのかよく知らないけどさ。ケンブリッジの主席様が考えてることはわからんちん」
ドリーがビールを一口飲んでからフフ、と柔らかく笑う。
「アナタだって成績優秀者じゃない」
「むこうとはデキが違うのー! 卒業試験全教科満点だってよ?」
「さすがにウソじゃないのそれは」
「えーどうだろーやりかねないと思うね私は」
「本当にお姉さん苦手なのね」
ドリーが笑ったので、リリアンも曖昧に笑って見せた。それからドリーはポテトを少しだけ食べてリリアンの顔を見る。リリアンのほうは、ドリーの手もとに視線を向けた。
「じゃあ、帰ってこいって言われたら『同居人が風邪引いて面倒みなきゃいけない』とでもいっときなさい。なんとかなるでしょ。おばさんからこっちに連絡が来た時は口裏あわせるわ」
リリアンの顔がパッと明るくなり、弾んだ声が出る。
「本当!? ありがとうドリー! うちの親説教臭くてさぁ!」
「いいわよ。困った時はお互い様だもの。あとで解剖学のノート見せてね」
「それくらい喜んで見せちゃうよー!」
ドリーの手もとにあるポテトの皿を見てリリアンが笑った。ドリーの口元にも笑みが浮かんでいる。
「ふざけないでよ!」
ふと、カウンターのほうが騒がしくなったので2人同時にそちらを見た。金髪の女が椅子から立ち上がって手を振り上げている。その手が、カウンターに座っている男に向って振り下ろされ、バシンと乾いた音がした。
リリアンは思わず肩をすくめて
「うわっ」
と小さい声をあげた。
リリアンたちからは背中しか見えない金髪女が声を荒げる。
「図書館で5時間も恋人ほっといたあげくめんどくさいってどういうことよ!」
カウンターに座っている男が、それこそめんどくさいとハッキリ顔にだしたまま口を開いた。
「いつものことだろ」
女の怒鳴り声がフロワ中に響き渡る。
「そうよ! いつものことよ!」
肩で息をしている女は、随分とお怒りのようだった。
「弁論部の予定がはいったらそっち優先させるのは当り前! 図書館に入り浸ってデートの約束すっぽかすのは日常茶飯事! あげくの今日じゃない! 2ヶ月我慢し続けたけど、もう限界よ!」
怒鳴られた男は心底うるさそうに眉を顰めた。
「そうかい。じゃあとっとと消えろ」
「言われなくてもそうするわよ! 最低っ! この自己中男! 噂以上だわ!」
さよなら! と捨て台詞を残して女が去っていく。残された男は頬を腫らしたまま、何事もなかったようにタバコに火を付けていた。
ずいぶんな長身で、おそらく190を越えているだろう。逆三角形を描いた体躯は服の上からでも鍛え上げられていることがよくわかる。彫りの深い顔立ちと太いキリリとした眉も相まって非常に男クサイ風貌だが、切れ長の目を覆うまつげは非常に長い。洗練されたシルエットは古代ギリシャの彫刻がそのまま動き出したような印象を受けた。