「ありがとね。昨日も今日も」
リリアンがあらためて隆弘と顔をあわせたのは夜の10時過ぎだった。
図書館の閉館時間を迎え、大人しく図書館から出たところで声をかけられたのだ。
「よう」
声のするほうを見るとすぐに三匹の子豚が目に飛び込んでくる。
「西野」
「隆弘だ。お前、連れはいねぇんだろ?」
「友だちと連れだって勉強するならもっと違うとこ行ってるよ」
隆弘が咥えたタバコに火を付けた。
「一人歩きは危険だぜ。ついてこいよ。どうせ帰る場所は一緒だからな」
リリアンが一瞬口を尖らせるも隆弘が気にした様子はない。これからのルートが完全に一緒であるのは事実だし、最近物騒だからお願いしたほうがよさそうだ。
「じゃあ頼むわー」
隆弘がリリアンの腕を掴もうとしたけれど、リリアンはさりげなくその手を避けた。隆弘が少し眉をひそめたけれど、すぐに歩き出す。リリアンも彼の後を追った。
12月のオックスフォードは濃い霧が立ちこめていて視界は5メートルほどまでしか見えなかった。朝から肌寒かったからだろう。じっとりとのしかかる冷たい空気は多分に水気を含んでいるので、服が少しずつ濡れていく。川がすぐ近くにあるため、町は冬になるとしょっちゅう濃い霧が出てくる。
外灯がぼんやりと霧の中を照らしていた。空中に浮かんだ水滴が風にのって動いている。
「なんか産業革命時代って感じー」
「まあこの霧じゃあ、切り裂きジャックが出てきても不思議じゃねぇよな」
「そんであのツタのとこは吸血鬼住んでそう」
「まあ、ドラキュラも産業革命時代だからな」
「でも『ハウス』は完全にクィディッチやってるよね」
「撮影に使われたんだからやってるもなにもねぇだろ」
オックスフォードはたくさんの時間を内包した不思議な町だ。道が一つ違うだけでまったく違う時代の風景が広がっている。
「オックスフォードも見てて楽しいんだけどさ、日本の友だちに話したら『京都みたい』だって。京都ってこんな感じなの?」
「まあ向うも古い町だからな」
「そっかー今度行ってみたいなー」
そして幕末パロと遊郭パロを描くための取材をしたい。
「なんなら今度一緒に行くか?」
隆弘がリリアンの手をまた掴もうとしたので、彼女はさりげなくその腕を避ける。
「夏の陣と冬の陣だけでカツカツなんで遠慮しますー」
隆弘が口をへの字に曲げた。
そこで連続殺人犯と吸血鬼の男同士の恋愛に思考をシフトチェンジしたリリアンは、霧に包まれた夜の町で殺し合う男性2人がどうやって恋仲になるかまでを10秒で考え、性交渉の際にどちらが女役でどちらが男役かで少し悩んだ。結果切り裂きジャックに男役の軍配があがり、吸血鬼が女役に決定する。その間20秒。
横を歩いていた隆弘がタバコの煙を吐き出し、喉の奥でククッと笑う。
「なに考えてるか知らねぇが、横顔も随分美人だな」
「んぁ?」
すでにリリアンの脳内は殺人鬼と吸血鬼の性交渉に突入していた。脳内妄想が2R目に突入したところで話し掛けられたので、言葉の意味を理解するのにすこし時間を要する。しばらくして彼女はやっと言葉の意味を理解してああ、と声をあげた。
「……ありがとねー。西野はなにしても絵になるイケメンだねー」
「隆弘だ。こっちは冗談で言ってるんじゃないんだぜ?」
「私も冗談で言ってるわけじゃないよーこれで西野がホモだったら貢いでたね」
「隆弘だ。前も思ったんだが、そりゃ遠回しに近寄るなとでも言ってんのか?」
「いや、本心」
「どんな不毛な感情だそりゃ」
リリアンがちらりと隆弘の顔を盗み見る。端正な横顔だ。脳内の吸血鬼を彼の顔に置き換えてみると予想以上に似合っていたので、そのまま切り裂きジャックが女装して吸血鬼を押し倒すシーンを妄想した。
妄想に没頭していたせいか、今度こそリリアンの腕が隆弘に掴まれる。リリアンが拘束から抜けだそうとしても、男の力が強くて無理だった。
「さりげない拒絶をことごとく無視するねこの暴君は」
「確かにこの西野隆弘様に対して拒絶なんぞおこがましいが、そうじゃねぇ」
「どこからツッコミをいれていいか解らないでござるよ」
巨大な影と化したボードリアン図書館にさしかかったところで、隆弘がリリアンの腕を強く引く。咄嗟に抵抗できなかった女の身体が鍛えられた腕の中に収まった。
「ちょっと、西野!」
リリアンが抗議の声をあげる。隆弘は眉一つ動かさず、視線を進行方向に向けたまま小さく囁いた。
「このまま歩け。つけられてる」
リリアンは思わず、眉をしかめた。
「ウソだろ……」
背後を振り返ろうとすると、隆弘にとめられる。
「やめとけ。図書館出た時からずっとだ。どうやらイタリア人みてぇだが、調子扱いた観光客にしちゃやり方がまわりくどいな」
家まで後をつけるつもりなのか、もっとひと目につかないような場所でどうこうするつもりなのか――隆弘がいるせいで手をだしあぐねているのか。
隆弘が僅かだが険しい顔つきになった。
「素人に気づかれるくらいだからたいしたこっちゃねぇとおもうが、どういうつもりだか」
リリアンがゴクリと生唾を飲む。隆弘がタバコを携帯灰皿に押し込んだ。
「ちょっと走るぜ」
「えっ」
リリアンの了承を得ないまま、隆弘が彼女の手を引き勢いよく走り出す。後ろからバタバタと足音が聞こえてくる。深い霧の中に足音だけ聞こえてくるのは、まるで幽霊を相手にしているようで酷く不気味だった。ボードリアン図書館を抜け、ラドクリフカメラの手前をナナメに突っ切る。ブレーズノーズ・カレッジ横の小道を走り抜けて建物の影に隠れた。
リリアンの身体が壁に押しつけられ隆弘の身体が密着してくる。心臓の音が聞こえてきた。男の身体の隆起を肌で感じる。腕がリリアンを閉じ込めるように背中へまわされた。相手に気づかれないようにか、身体がさらに密着してくる。頭上には真剣な表情で今来たばかりの道を睨みつける隆弘の顔。2人とも走ったせいで少し息が乱れている。呼吸を素早く整えるため深呼吸したリリアンは、目の前の男から香水の匂いがしてくるのに気がついた。オーシャン系の香りがする。嫌味なくらい似合うなと思って、リリアンは場違いにも苦笑してしまった。
隆弘の腕の力が強くなり、リリアンの顔が必然的に隆弘の胸板に押しつけられる。
「……くるぜ」
囁くような隆弘の言葉の直後、バタバタと足音が響いてきて、すこしの間音が止む。それから、小声の会話が聞こえてきた。
「……どっちにいった?」
「見失ったのか?」
それから暫くして、またバタバタと足音が通り過ぎて行く。相手はどうやらそのまま直進してマーケットストリートへ向ったようだ。
隆弘はリリアンを抱きしめたまましばらく様子を見ていたようだったが、やがてゆっくりとリリアンから離れ、道を見渡す。
「……行ったな」
リリアンも恐る恐る物影から顔をだし周囲を見渡した。
「ありがと、西野」
「隆弘だ。このままハイストリートに出て、少し遠いがオールドバンクホテルでに入るぞ。そっから警察に家まで送ってもらったほうがいいな」
「うん」
リリアンが頷く。隆弘はごく自然に彼女の手を握ってハイストリートへ歩き出した。今回はリリアンも抵抗しない。なにかあった時この男とはぐれたら、こまるのは自分だ。
「……なんであの2人、私らをつけたりしたんだろう?」
外灯の下で霧の粒子が流れていく。隆弘は一段落ついたからか、タバコを取り出して火を付けた。
「まあ、ジャッキーの仲間が、お前の居場所を特定しようとしたってのがいまのところ一番妥当だな。手出しできるようだったら手出しするつもりだったのかもしれねぇし」
リリアンが俯いた。隆弘がいたから良いようなものの、1人で帰っていたら、今ごろどうなっていたのだろう。
隆弘は俯くリリアンを横目に見て少し口をへの字に曲げる。それから困った様に頭を掻いた。
「あー……とにかく、一応は撒いたからよかったじゃねぇか。ホテルから目立たねぇように送ってもらえば、居場所もごまかせるしよ」
「うん……」
リリアンが頷くと、隆弘がタバコの煙と一緒にため息を吐き出した。安心したような表情だ。
女は端正なギリシャ彫刻の横顔を見上げて、ニコリと笑う。
「ねえ西野」
「隆弘だ。なんだ」
「ありがとね。昨日も今日も」
すると男は照れくさそうに口を曲げ、タバコの煙を吐き出した。
「気にすんな」
彼らがホテルに入って警察に通報し、無事家に送り届けられたのは、それから20分後のことだった。




