32.置いていったのはアナタでしょう?/久遠椋太郎
こんばんは。
「貴様どの面下げて」と怒られそうですが、舞い戻ってきました。私です。
ようやく、ようやく完成しました続きです……! 遅くなって申し訳ありませんでした!
気付けば二万字越えてましたよ。26871文字だそうですこれは酷い。「分けて投稿しろよ」と云う読者様の突っ込みが聞こえてきますが、敢えて一話で投稿させていただきました! 時間がある時にでも読んでやって下さい……。
一ヶ月以上放置していたのに、お気に入り登録が4000件超えしていて本当に驚きました。お優しい読者様方に感謝感激です。本当に有難うございます!
……まだ続きを待っていて下さる方がいらっしゃいますように!(泣)
どうしてこうなったのだろうなと、椋太郎は何度目になるか分からない疑問を胸に抱く。
目前の光景は、傍から見る分には微笑ましい。子供が子供を叱ると云う行為は、大人から見れば和めるものだからだ。
しかし当事者としては、なんとも肩身が狭いのである。
「――パイプ椅子は投げる物じゃない、座る物なんだ。ガラスを割ったら破片が飛び散って危険だろう? もうしちゃ駄目だからな? 約束出来るな?」
「はい、龍治様。ごめんなさい」
椋太郎の位置的には、龍治の銀に輝く後頭部としょんぼりした顔の柾輝が見える。そこそこの広さの部屋なのだが、なんとなく三人は近い距離に座っていた。丸いテーブルの側、安いパイプ椅子に腰をかけている。龍治が座ると、安物のはずの椅子すら高価な品に見えてくるのが凄い。付加価値と云う奴だろうか。
「でも龍治様に害成す屑が現れた場合はお約束出来ません!」
柾輝が先ほどのしょんぼり顔とは打って変わって、キラキラ輝く笑顔で云い放つ。龍治の顔が整い過ぎているため――云い方は悪いが――霞みがちなのだけれど、柾輝も充分美少年だなと今更思った。龍治がクールビューティーなら柾輝はベビーフェイスと云う奴なのだろうか。今も充分幼いので童顔の表現はおかしいが、もう少し年を重ねれば適応されるはずだ。
龍治が頭を抱える。忠義心の厚い世話役に対し、思う所が色々あるようだ。椋太郎としては、その一途な柾輝の気持ちに心打たれる部分もあるのだが。意志薄弱な椋太郎からすれば、何があっても龍治最優先を崩さない姿勢は、年下相手とは云え尊敬出来る意思の硬さだと思う。
だがそもそも。龍治がこうして頭を抱えているのも、柾輝が叱られているのも、椋太郎が原因だ。椋太郎が自身の問題を自己の力で解決出来なかったから、こんな事になっている。情けない。当の昔に自覚済みだが、一人の大人として自分はとことん情けないと、椋太郎は思う。自覚がある分、余計に性質が悪い気もする。
「……なんか、ほんとにごめんな、俺のせいで……」
「え、いや、それこそ本当に椋太郎さんは悪くないですよ」
「椋太郎様は悪くないと思います」
身を小さくして謝る椋太郎を、驚いた表情で振り返った龍治も、きょとんとした顔の柾輝も一言とて責めなかった。椋太郎は悪くないと、云ってくれる。
それに対し否定の言葉を云うのは、自分の事を想ってくれている二人に失礼な気がして、椋太郎はまた小さな声でお礼を云うしかなかった。
突如部屋に乱入して来た麻倉親子は、片や椋太郎を罵り、片や恐怖感を煽る愛を求め椋太郎一人へ詰め寄った。警官二人が懸命に諒太郎を守ってくれたが、あんまりな状況に錯乱寸前だった。
どうしてこうなるのだと。
自分はその愛を受け入れられないと拒否しているのに、親の方は「椋太郎が誑かした」と決めつけて、娘の方は「意地を張る必要はない」と意味のわからない事を云う。
どちらにも、椋太郎の言葉は届かない。
かつては、言葉には力があると思っていた。どんな問題も、話し合いで解決出来るものだと、椋太郎は信じていた。暴力や武力は唾棄すべきものであり、人間であるなら言葉で決着をつけるべきだと。
それが甘ったるい夢物語なのだと、改めて突き付けられている気分だ。どれほど言葉を尽くしても、心からの言葉を放っても、通じない相手がいるのだと。
こんなもの相手に、どうしろと云うのだ。正直、泣きそうだった。
その椋太郎にはどうしようもなかった事態を、破壊したのが龍治である。
けたたましい音と共に現れた龍治は、あっさりとその場の主導権を握って麻倉親子を追い詰めてしまった。あの口達者さはどう云う事なのだろう。本当に小学生なのか疑ってしまう光景だった。
自分が小学生だった頃は、大人相手と云うだけで委縮してしまっていた。親に反抗出来なかったのだから、よその大人など会話すら覚束なかったように思う。
それが堂々と胸を張り、丸めこみ、扱き下ろしたのだから恐ろしい。彼が大人になった時、一体どうなってしまうのだろうか。末恐ろしいどころの問題では無い気がした。
と云うか、小学生が「雌豚」と云う罵倒用語を発した事が驚きどころの問題ではない。どこで仕入れたその知識は。周りに悪い大人でも居るのかと疑いたくなる。護衛の中にチャラい人がいたのでその人が怪しいなと椋太郎は勝手に疑っていた。冤罪だったら申し訳ないが、一番可能性が高いのではなかろうか。間違っても佐々木や火々池ではないだろう。
だが、それよりも椋太郎の心に深く残ったのは、麻倉亜麻音の言動だった。
彼女は、「この世界はゲームの世界」だと断言した。椋太郎と龍治をゲームのキャラクターだと云い放ち、自分の思い通りにならないのはおかしいのだと喚いた。
昨今テレビで騒がれる、現実と空想の区別がつかない若者と云う奴か。そんな存在が自分の身近に居た事に、椋太郎は衝撃を覚えた。むしろ実在したのかと云う驚きの方が大きかったが。
人の話を聞かない子だな、とは思っていた。どうしてこっちの話を聞いてくれないのだろうと、疑問に思っていた。
その答えが自分以外の存在を架空の物だと思ってただなんて、予想外にも程がある。だが同時に納得した。
――そうか、この子は俺を人間だと認めていないから、話を聞いてくれないのか、と。
そうして頭は、どうしたらこの子に人間性を否定する事の残酷さを説けるのかと云う方向に行ったのだが、結論を出すよりも先に柾輝が盛大にぶちかました。
パイプ椅子を投げたのだ。パイプ椅子と一口に云っても、重量はそれなりにある。同年代の中では非力に属する椋太郎なら、投げても一、二メートルくらいしか飛ばないと思われる。それが剛速球の如き勢いで飛んで行って窓を叩き割ったのだから、一体どんな膂力をしているのだろうかと怖くなったりもした。主従二人そろって小学生離れしすぎだろう、と。若者の人間離れが深刻だ。
けれどその怒りの発露はやはり“龍治のため”であったため、その恐怖と困惑も長く続きはしなかったが。
柾輝の行動により、麻倉亜麻音が粗相をしてしまい、さらにその場に大勢の人が集まった事で場は混乱しつつあった。故に椋太郎達は別室に移されて、今に至るわけである。
(助けて貰ったのは、事実だ。有難いと、思ってる。けど……)
何か違う様な気がした。このままで終わらせてはいけないような、そんな予感がしたのだ。
傍から見れば、多分、大団円とは云わないが妥当な終焉と云える。
妄想と現実の区別がつかず、果ては犯罪に走り大勢に迷惑をかけた少女が、正道を掲げた美貌の御曹司に敗北する。そして少女の標的にされていた冴えない男は、もう恐怖を味わう事はなくなり、御曹司との間に確固たる友好を得る。
何か安い小説が出来上がりそうな、スコンと型にはまりそうな、なんだかそう――“ありがちな”お話だ。
そこが、なんとも気味が悪い。腹の底からじわじわと、妙な不安が背骨をよじ登って脳に至るような、奇妙な不快感があった。
何故だろう。疑問に思うが、答えは見えて来ない。
“これでいいはずなのに、間違っているように感じた”。
(……罪悪感、か?)
それが一番、“筋が通っている”気がした。
そう、罪悪感だ。椋太郎はそう“気付き”、次いで息が詰まった。
――自分は、麻倉亜麻音と真っ向から向き合った事があっただろうか、と。
初対面では普通だった。挨拶程度は交わした。次の出会いが不味かった。声高に己を椋太郎の恋人だと云う少女に恐怖して、「関係ない」「知らない」「わからない」と拒否してばかりいた。“どうしてあんな事を云い出したのか”確かめる事すらしなかった。意思疎通が出来ない、言葉を聞いてもらえない。“たったそれだけの事で”彼女の全てを拒否してしまったのだ。
もっと早い段階で麻倉と向き合っていれば、「どうしてそんな事を云い出したんだ?」と問い掛けていれば――もっと違う結末が、あったのではないだろうか。
麻倉は犯罪に走る事もなく、椋太郎は職を辞する事もなく、誰にも迷惑をかけないで済んだのではないか。そう思ってしまった。
ぽつりとその考えを漏らすと、龍治が痛みを耐えるような表情になった。その顔を見ていられなくて、頭を抱えてテーブルへ突っ伏す。あぁまた逃げていると思ったが、龍治の凪いだ海のような瞳を見ながら話す事が出来なかった。
「……あの年頃って、本当に難しいんだよ。子供じゃない。でも大人にも成れてない。女には違いないのに、成熟なんて絶対にしていない。中途半端で、曖昧な年ごろで……本当に、本当に些細な事で、道を踏み外しちまう、から……」
「はい」
少女と云う、気難しく儚い生き物を想い、言葉を紡ぐ。
男には決して理解出来ない、遠い遠い生き物。中途半端で不完全で歪な――だからこそ美しい、一瞬の煌めきを身と心に宿す、曖昧な存在を、想う。
「……カウンセラーとして、中高の生徒見ててさ、気付いた事が、ある。本気で悩んでる奴って、誰にも、云わないんだ。助けてなんて、口に出さないで。顔にも出さない奴もいて。溜め込んで、飲み込んで、どうにも、ならなくなって……」
「はい」
そうして脳裏に描くのは――自らの命を絶ってしまった藤井美紗緒の姿。
椋太郎から見た彼女は、美しく輝き煌めいていた。生命を謳歌するその姿は、まさに少女の体現者であったけれど。
その心には、誰にも告げられない苦痛を抱えていたのだ。ぼろぼろと崩れて行く己の足元に絶望する、弱い子だったのに。
「気付いた時には……もう、遅くて」
「……はい」
「何にも、出来なくて……!」
気付いた時には、何もかも手遅れなのだ。だから――今回の事も、もう、手遅れなのだろうか。そう考えると、怖くて哀しかった。自分はどうしてこうも、後手後手に回って何も出来ないのだろう。どうして学ばないのだろう。どうして――強くなれないのだろう。
情けない声で語る椋太郎の話を、龍治はただ相槌を打って聞いてくれた。
目を閉じる。瞼の裏へ鮮明に、長い睫毛に彩られた蒼い瞳が映し出される。責めもしなければ、哀れんでもいない。ただ受け入れるだけの優しい眼差しが、自分に注がれている事を感じた。
背中を一定のリズムで優しく叩かれる。まるでぐずる赤ん坊を宥めるかのように、優しく慈しみに溢れた手の平だった。
詰まった言葉が、その手の平に促されるかのように、紡ぎだされる。
気付いてやれなかった、もっとあの子と向き合っていれば、あんな風にはならなくて済んだのではないかと――そんな弱音を吐いた。
少なくとも、“龍治をこんな事に巻き込まなくて済んだかも知れない”のに、と。
「それはないですね」
しかし、その薄暗い気持ちは、龍治自身が一刀両断した。清々しい程、ばっさりと。
まさかそんなキッパリ云われるとは思っていなくて、椋太郎は硬直した。それに気付いているのかいないのか、つらつらと龍治は続きを語る。
「綾小路を前にしてもあの態度だったんです。貴方が向き合ったって「やっぱり私に気があるんだ!」とか勘違いして調子に乗って余計に椋太郎さんを苦しめていたに違いないですよ」
否定出来ないでしょうと云われ、反論の言葉もない。龍治が示した逃げ道は、酷く魅力的だ。他人に「お前は悪くない」と云って貰える事が、こんなにも心を軽くするものだろうか。
いいや、違う。他人だから、ではない。“龍治が云うから”そうなのかと、思ってしまうのだ。この高潔な美しい生き物がそう云うなら、そうなのだろう、と。自分は間違っていなかったのだと、許された気持ちになる。
――まるで、甘い毒を注がれているかのようだ。
自分を駄目にして行くと分かっているのにやめられない。もっと欲しいとねだってしまいたくなるような、癖になる甘さ。
「……ほんと、云うよなぁ、お前。容赦ねーの……」
それを誤魔化すように、軽く悪態をつく。それすら楽しいのか、龍治は朗らかな笑いを零した。
「容赦は家に忘れて来たようです。ですが、貴方が気に病むのでしたら、綾小路が直接手を下すのはやめておきましょう」
冗談を云うかのように、軽い声で云われた。伏せていた身を思わず起こしていた。
涙で滲んだ視界で、龍治が優しく微笑んでいる。
「あれだけ追い詰めれば充分でしょう。人前で失禁とか、あの年の少女にしたら最大の屈辱でしょうし。これ以上追い詰めて自殺でもされたら事ですしね。まぁ、次はありませんけど」
「お前……」
「あ、こちらから弁護士紹介しますから、ちゃんと慰謝料は取りましょうね! 後、今後二度と椋太郎さんに関わらないように念書くらいは貰いませんと!」
咄嗟に、なんと云えばいいかわからなかった。
礼を云うべきか。そこまで世話になれないと拒否するべきか。何でそこまでしてくれるのだと疑問を呈するべきか。
わからなかったけれど。黙り込む椋太郎の顔を覗き込んで、困ったような表情で、優しく名前を呼んで来るから。
その瞬間、椋太郎は何もかもが“どうでもよくなってしまった”。
龍治がこうして側に居て、名前を呼んでくれて、椋太郎の事を考えてくれている。それ以上に一体何が必要だと云うのか。これ以上を求める必要がどこにあるのか。“そんなものはないだろう”。だからもういいじゃないか、あれこれ考えなくてもと、そう思った。
何だか色々と気が抜けて、つい、龍治の頭を撫でてしまう。きょとんとした顔をする龍治に対し、笑みすら漏れた。
だが、どうでもよくなると同時に、とある疑問を思い出していた。
この子は――何故こんなにも“良い子なのか”と。
『綾小路』は日本が世界へ誇る五大財閥の一角だ。詳しく内情を知らない人間はいても、名前を聞いた事の無い者はまずいない。居たら世間知らずどころの話でなく、「お前は今までの人生で何を見聞きして生きてきたのか」とそれまでの生き方を全否定されるレベルだ。
築き上げてきた伝統も格式も財力も権力も莫大すぎて、椋太郎如きでは把握など不可能で。『綾小路』の不興を買う事はイコール身の破滅だと云う簡単な方程式を理解しているくらいだ。
龍治は、そんな家の跡取り息子だ。話によれば、一族から相当溺愛されているらしい。龍治が望めばなんだって叶うだろう。全てが龍治の云う通りになる。それは想像に難くない。
今回の事とて、龍治が一言一族へ向けて「麻倉家の亜麻音と云う娘が気に入らない」と云えば、“終わってしまっていた”。それだけで龍治自身は何の手間もかけずに済んでいたが――それは同時に、麻倉家と亜麻音の未来を踏み潰す事を意味する。龍治はそれをしなかった。手間を惜しまず、麻倉家と、それに連なる人々へ配慮したのだ。
何故そのような気配りが出来るのだろう。何故そこまで、他人の境遇を考える事が出来るのか。
そんな環境に生まれれば、大抵は生まれながらの王者として傲岸不遜に振る舞うだろう。周りの弱い者達を踏みつけて君臨する暴君となるはずだ。それが当然の環境なのだから、己が立場に疑問を抱く事無く、当たり前の事として受け入れて生きていても何らおかしくはない。
だが龍治には、椋太郎が見た所、不遜な所も傲慢な所もない。少し我が侭な所はあるような気がするが、“子供の我が侭”程度の可愛い物で。月とスッポンどころか太陽と蟻ほど違いがある椋太郎に対しても気遣いを見せる。知り合った頃は謙虚で慎ましい部分すらあった。
どうやったらあんな生まれでこんな子供が育つのだろうか。ぽろりと「……お前って、良い子だよなぁ……」と漏らすと、龍治は小首を傾げて「そうですか?」などと云っていた。
わかってないのか。自分がどれほど、稀有な存在なのか。少し笑えた。
「うん。…………ありがとな、龍治」
当たり前のように。頭を撫でていた手で、龍治のなめらかな頬を撫でていた。
子供らしい丸みを帯びた輪郭は、今後成長と共に細くしまって行くのだろう。子供である今でさえこの人目を惹く美貌が、年齢を重ねる事でさらに深みを増して行くのかと思うと、楽しみでもあり恐ろしくもある。
下手を打つとこの子は、見た者の正気を奪い、人を狂わす美を振りまく事になるのだろうと。
傾国の美女は聞いた事があるが、傾国の美男は聞いた事がないなぁと思って椋太郎は笑った。
(それでも俺は、お前と会えてよかったと思うよ)
近い未来、この少年と居る事で何か善からぬ事に巻き込まれ、恐ろしい目に遭ったとしても。
今この胸にある安堵感は本物であったから。
「……龍治と一緒だと、安心する」
椋太郎はまたテーブルに顔を伏せて、小さな声で云った。耳の良い龍治にはその声が届いていたようで、何だか照れたような声で「……それは良かった」と呟いていた。
その時にはもう、椋太郎は己れでも気付かぬうちに、龍治への好意をますます深めていた。龍治の存在に救われて、これでいいのだと、思ってしまっていた。
そう――麻倉亜麻音が「ゆぅ」の名を口にした事など、すっかり忘れて。
*** ***
弁護士から手渡された書類を前に、椋太郎は大きく安堵の息を吐いた。
「お疲れ様でした、久遠さん」
「あ、いえ、円さんこそ、お疲れさまです」
感謝の気持ちも込めて、椋太郎は深々と頭を下げる。それに対し龍治から紹介された弁護士は、「いえいえ、お役に立てて何よりです」と穏やかに笑ってくれた。
円は四十台半ばの、いかにも仕事が出来ますと云った雰囲気の男性だった。自分の父親に少し似ていて最初こそ怯えがあったものの、この一週間と少しの間ですっかり慣れる事が出来た。慣れるどころかその人柄を信頼すらしている。流石龍治が紹介してくれた人だ。
それでも、綾小路すら信頼を置く弁護士である円を、この狭い我が家に招く事に居心地の悪さを覚える。龍治を招く事には早々に慣れたと云うのに、おかしなものだ。
椋太郎と麻倉亜麻音との一連の騒動は、一応示談と云う形に落ち着いた。未成年相手とは云え、法の裁きを与えるべきではないかと云う意見もあったが、椋太郎自身がそれを望めず、また麻倉側もなんとか穏便に話を収めたがったので話し合いは表面上スムーズに終わった。
そうして得た物は、椋太郎からすれば破格と云える――円からすれば「まぁ妥当ですね」――な慰謝料と、亜麻音を二度と近付かせないと云う念書であった。
「これで一段落と云うところですね。年末を迎える前に片付いてよかったです」
「すみません。お忙しい中……。いくら感謝しても足りないです」
「お礼ならば龍治様に。とても貴方の事を心配してらしたので」
「はい……」
龍治はこの立派な大人からすら様付けで呼ばれると云う事実に、僅かに胸がもやっとした。当たり前の事なのだけれど。椋太郎は許されているからと、気軽に呼び捨てにしているが。本来なら円と同じく――いや、彼以上に龍治を敬わなければならない立場であるのだ。
そう云えば、円は実に真面目に仕事に取り込んでくれたが、椋太郎の事をどう思っているのだろうか。
龍治は椋太郎の事を「友人です」と円に紹介してくれた。その時円は特に驚きもせず怪訝な顔をする事も無く、穏やかに自己紹介をしてくれたのだけれど。
チラと窺うように顔を見てしまう。椋太郎が出した市販の緑茶を、伏し目がちに啜っている。気難しげに見えるのに意外とフレンドリーなのはもう知ってるが、やはり緊張は抜けなかった。
「私に何か聞きたい事でもありますか?」
「ひゃい?!」
「……」
円が口を押さえた。笑っているらしい。そりゃ年齢からすれば情けない素っ頓狂な声を上げてしまったが。恥ずかしくて顔が熱くなったが、円は特にその事については言及しなかった。
「いえ、窺うようにこちらを見ていらっしゃるので。何か質問でもあったのかと」
「あ、えっと、その……ですね」
つい身を小さくしてしまう。猫背で見っとも無い姿だろう、傍から見れば。それでも、この立派な人の前で背筋を伸ばすのは、難しい事だった。
自分の存在を惨めに思う椋太郎には、胸を張る事など出来やしない。
「円さんは……私が、龍治、くんの友人である事について、どう、お考えかと」
「あまり宜しい事ではありませんね」
スパン、と一刀両断にされた。分かってはいたが、それでも胸に何かがグッサリ刺さったように感じる。
円は軽く肩を竦めると、困った生徒を相手にする教授のような顔で話を続けた。
「あの方は綾小路本家の第一後継者でいらっしゃいます。それ故、周囲の人間関係作りも重要になって来るのです。人脈は力の一つ。あの方を支え得る能力を持つ人物が側に侍るのが一番良いと我々は考えております」
「はぁ……そう、ですよね……」
「ですが……まぁ、それは我々の身勝手なエゴと云うやつでしてね」
「へ?」
円は窓の外へ軽く視線を投げて、はぁと溜め息をついた。
身勝手なエゴと彼は云うが、椋太郎にはそう思えない。円の云う通り、龍治は日本の未来を背負って立つ人間の一人だ。龍治の周りに居るべき人間は、龍治にとって利のある人間でなくてはいけないと云う考えは、至極当然な物だろう。一般人の椋太郎は「そんな冷めた人間関係はどうなのだろう」と思わないでもないが、現実的に見れば円の云う事の方が最もなのである。
なのに円は、その真っ当な意見を身勝手なエゴと云う。どう云う事だろうか。
「私の友人に――少々変わり者なのですが、まぁ人生経験豊かな人物がいましてね。とあるお家で相談役をこなしているのですが、大層人を見る目がある。私は一度彼に、龍治様について話した事があるのです。余りに人間関係に無頓着で、ご自分と釣り合わない人とも平然と接するのですが、どうしたらいいでしょう、と」
モロに自分と龍治の関係について云われているようだが、椋太郎は無駄な突っ込みは入れず「はぁ」と云って頷いた。
「そうしたら彼は呆れた顔になって、放っておくのが一番いいと云いました」
「放っておけって……」
「えぇ、どうにかしたいと云っているのに、放っておけですよ。理由を聞けばさもありなん、なのでしょうかね。「本当に優れた、特別な人間と云うものは、自身の存在に自信と安定を持っているから、交友する相手の肩書きなんて気にしたりしないし分け隔てなんてわざわざしない。する必要がないからだ。特別な人間とばかり付き合いたがる奴は自分に自信がない人間だ。安定した自信がないから、優れた他者と付き合う事で自身の価値を高めようと足掻く訳だ。お前の所の若様は年齢の割に怖いくらい安定してるから余計な気を回すな。逆に迷惑だ」と一刀両断されました」
「へ、へぇ……」
それ以外、椋太郎は云えなかった。世の中にはとんでもない事を云う人がいるのだな、と思うが、その人が円の友人だと云うのなら自分が分かったような口を利くのは宜しくないだろう。
「納得できない部分もありますが、確かに龍治様ご自身の価値は、釣り合いの取れていない方と交友関係を得た所で揺らぐ事はありません。故に、私は龍治様と貴方の関係について口を出しを控える事にしました」
「あ、ありがとう、ございます……?」
遠回しにと云うか、いっそストレートに見下されたような気がするが。円の言葉はそれと同時に、龍治と椋太郎の友人関係を黙認すると云ってくれていた。
それは椋太郎自身が得られた信頼ではなく、龍治への信頼だ。この仕事が出来る立派な大人が、まだ幼い年齢である龍治の自我を認めているのだ。「龍治が望むなら大丈夫だろう」と。
ますます椋太郎の肩身が狭くなる。
その立派な友人に、報いる事が一切出来ていない故に。
「問題があるとすれば、貴方の心持ちではないでしょうか」
「お、俺ですか?」
「はい。椋太郎さん。貴方は、龍治様のご友人である事に胸を張れないのでしょう?」
「う……」
「どうして自分が、と思っている。こんな自分が龍治様の友人で居ていいのかと、不安を抱いている。違いますか?」
「ちがい、ません……」
円の口調には、僅かだが責めるような色があった。それに対して椋太郎は文句も不満も無い。含められて当然の感情だからだ。
「だから、貴方には頑張って貰わないと困ります」
「は……?」
「貴方が御存じかどうか知りませんが。龍治様の交友関係は意外と狭いのです。知人は多くいらっしゃいますが、友人は大変少ない。その少ない友人の中に、貴方は含められています。その上、大層気に入ってらっしゃる。揉め事に介入し、その事後処理まで負うなど、お人好しで済むものではありません。“貴方自身を龍治様は好いていらっしゃるのです”。だから貴方には、その気持ちに報いて下さらないと」
「……」
「勘違いされぬよう申し上げますが、何も“他人に胸を張れ”と云う事ではありません。貴方は、“龍治様ただお一人の為に胸を張れればそれで宜しい”」
「は、い……?」
「他人の評価などどうでもいいと云っているのです。龍治様と今後とも交友を続けられると云うならば、周囲の目は当然厳しく貴方に向かうでしょう。しかし、“そんなものはどうでも宜しい”。龍治様の事だけお考えなさい。何か一つでもいい、絶対の自信をつけて、龍治様に「自分と貴方は友人だ」と胸を張って下さい。それだけでよいのです」
「……」
「それとも貴方は、他人に認められたいのですか? 「さすが綾小路龍治様のご友人だ」と褒められたいのですか? 「自分は龍治様の友人だ」と自慢して自己顕示欲を満たしたいのですか? 違うでしょう?」
「違います、ね……」
沢山の言葉を向けられ、それをなるだけ早く咀嚼する。暗記は得意だが応用は不得意な脳を頑張って働かせてみると、円が何を云いたいのかがようやくわかった。
ようはこの男、椋太郎に「頑張れ」「このままで居るな」とエールを送ってくれているのだ。遠回しで分かり辛いし、根本では龍治の為だが。それでも椋太郎自身を想い、背を押してくれている。厳しい顔と声の裏には、自分よりずっと年下の“子供”を思う、真摯な大人の姿があった。
「なら頑張って下さいね。龍治様をがっかりさせないように」
頑張れ、と云われる事は辛い事だと思っていた。かつては、「もう頑張ってる。これ以上どう頑張ればいい」と俯いて。今は「どう頑張ればいいか分からない。どう頑張ったって、自分は駄目だ」と頭を抱えて。
しかし今、円から云われた頑張れは、ストンと胸の中に入って落ち着いた。
「――はい。俺も、龍治の喜ぶ顔、見たいです、から……」
今己に云える精一杯の言葉を紡げば、円は「宜しい」と微笑んだ。出来の悪い生徒の成長を喜ぶ教師の顔だな、と思って、そのまんまじゃないかなと心の中で苦笑する。
本当にどうしてか――自分の周りには、優しい人達が居てくれるなと思いながら。
*** ***
円に少し捻くれた応援を貰った数日後だった。龍治が約束無しで家を訪ねて来たのは。
さて自分は龍治の為に何をするべきか。まずは身なりを整える事かなと考えながら、しかしまだ美容室やら洒落た服屋やらへ行く勇気は持てず、とりあえず仕事の目星を付けるかと就職情報誌をめくっていた。職の目星をつけてから、それに相応しい格好を模索しようと思ったのだ。
何で近所の美容室には、いわゆるイケてる系の美容師しかいないのかなぁと云うのが悩みである。あんな顔面偏差値高い美容師が居る店に意気揚々と入れる訳がない。かと云って床屋は強面なおじさんが多いし。優しそうなおばさんがやってる美容室はないものか。――と、龍治が聞けば「このヘタレ!」と罵られてしまいそうな事を悩んで居た。
突然の来訪で驚いたものの、それよりも先に喜びが浮かんだのは良い傾向なのだろう。
龍治に座布団を勧めると、いつものように行儀よく正座で座る。湯を沸かしていなかったので、とりあえず冷蔵庫のウーロン茶を安いガラス製コップに入れて出した。上流の人間への対応として間違っていると思うが、龍治が全く気にしないので良いだろう。むしろ家で飲めないからと云って好んでいるぐらいであった。
「……いきなり申し訳ないです」
「いや別にいいって。遠慮する関係でもないだろ」
するりと出た言葉は本心だった。聞き方によっては恥ずかしい言葉なのだが、龍治はどこかホッとしたような雰囲気で微笑んでくれる。否定されたら立ち直れない所だったので、椋太郎も安堵した。
事実、遠慮し合うような仲ではないだろう。お互いに気心はもう知れている。踏み入ってはいけないラインも、なんとなくだが把握はした。親しき仲にも礼儀ありと云う言葉がある通り、してはならない事は弁えているのだ。だからこその、言葉だった。
しかし間を置いて、龍治は普段は見せない――黒い笑みと云うのか。そんな笑顔を浮かべるものだから驚いた。不快感や不信感が沸かなかったのは、その笑みが椋太郎ではなく、龍治自身へ向けられているように感じられたからだろう。
何かあったのだろうか。心配になって問いかければ頷かれる。それも、真剣な表情で。つられるように己の顔も硬くなった。
一体何があったのか。この時期に。大体の事が片付いて、一息つけている所ではないのか。
龍治が目を少し伏せる。長く量の多い銀色の睫毛が、白い頬に影を作った。憂う表情だ。
慣れて来たとは云え、やはり人とは思えぬ美貌を持った龍治のそう云った表情には、鼓動が不自然に大きくなる。美を司る神が実際に居たなら、きっと龍治のような姿をしているのだろう。
艶やかな唇が僅かに開いて、白い歯が見えた。
「――麻倉亜麻音が、亡くなりました」
その言葉に、椋太郎の時間が停止した。言葉の意味を理解しかねた。分かりやすい直球の言葉であったと云うのに、脳が解読を拒んだかのように、ただの音の羅列として捉えられる。
しかしそんな現実逃避も、長くは続かない。気管を圧迫されている訳でもないのに、呼吸が苦しくなって何度か無意味に口を開閉した。呼吸を確保する前に、声帯から掠れた声が出る。
――麻倉が、死んだ?
「なん、で」
「分かりません。死因は、事故か他殺のどちらか、との事ですが。まだ詳しくは」
自分でも何に対する疑問なのか分からない単語に、龍治は淡々と云った様子で答えた。
事故か、他殺。どちらにせよ、理不尽な死に方だ。
どうして、なんでと、まだ詮無い疑問が頭の中をぐるぐると回る。
死んだ。麻倉亜麻音が。どうして、なんで。事故か他殺。自殺ではない。自分で死を選んだわけではない。だが、“それがどうした”。死んだら何もかも終わりだ。哀しい事がないと同時に、楽しい事もない。やり直しも出来ない。何もない。死は誰にでも訪れる物であると同時に、誰にも侵せない神域のようなもの。不可避で不可侵の、絶対的な領域。
麻倉も、境界線を越えて消えてしまった。藤井のように。もう二度と、椋太郎の手の届かない場所へ。
藤井の笑顔が頭を過ぎる。
続いて、初めて会った頃の、普通の生徒だった麻倉の控えめな微笑が蘇えった。
「おはよう」と挨拶をしたら、「おはようございます」と挨拶してくれた、麻倉の顔。続けて「今日は良い天気ですね」と微笑んだから、「そうだな」と頷き返した。
それだけのやり取りを、今更鮮明に思い出す。
極自然なやり取り。当たり前な日常の光景。そうだ、こんな場面も確かにあったのだ。その後に巻き起こった騒動に塗り潰されて思い出せずにいたけれど、確かに、穏やかな『麻倉亜麻音』と言葉を交わした事があった。控えめで、大人しい、あの学校にはよく居るタイプの、清楚な少女だった。
――そんな少女がおかしくなったのなら、確かに、他者の悪影響を疑ってしまうだろう。
今更、本当に今更、あの傲慢なだけに見えた麻倉の父親の想いに、同調したような気がした。可愛い娘だったのだろう。愛していたんだろう。穏やかな次女。健やかに育っていた、優しい娘。それが突然、奇矯な振る舞いをするようになって、問題行動を起こして。
誰かのせいにしなくては、あの父親は立ち行かなかったのだ。
龍治は否定してくれたけれど、もし本当に、麻倉の行動が椋太郎のせいだったなら。その気持ちが、またぞろりと立ち昇る。
何もしていないと云う事は、何もしてやれなかったと云う事。何もわからないと云う事は、何も理解しようとしなかったと云う事。
何もしなかった愚かな自分。逃げるしかなかった、弱い自分。それを再度、思い知らされた気分だった。
どんな理由であれ、麻倉亜麻音の死は、椋太郎の背中に押し潰すような重みを齎した。
動かす両手が、酷く遅い。額を押さえて、前髪をぐしゃりと握る。俯いて、小さく吐息を零した。その息は湿っている。まだ零れてはいないけれど、今にも椋太郎は泣きそうだった。
(何にも変われてない。惨めで、屑なままだ――)
円に背中を叩いて貰った。龍治に相応しくあろうと思った。せめて龍治にだけは、「貴方と友達で良かった」と思って貰える自分になりたいと。そうしてようやく、一歩踏み出せたはずなのに。
穏やかな『麻倉亜麻音』の微笑みが、茨のように胸に絡みついて痛みを与えて来る。あぁそうだ。優しそうな子だったじゃないか。物腰が柔らかい、カスミ草のような少女。その少女が豹変して、椋太郎へ執着したと云うのなら――
――彼女を救ってやれたのは、椋太郎だけだっただろうに。
(どんな顔して、龍治を見ればいい)
こんな愚かな自分が、どうやって、龍治と向き合えと云うのだ。誰も何も救えない塵が。
藤井も麻倉も他の誰一人救えない、そんな見下げ果てた屑が、どうして龍治の友でいられると云う。
この素晴らしい子供の友でいられる資格など、始めから無かったのだ。
(龍治は俺を救ってくれたのに――ッ!)
釣り合わなくて当然だと思っていた。だから龍治だけで良いのだと、そう、思って。
――それがいかに身勝手で、他者を省みない我が侭だと気付いても、もう遅い。救うべき存在だった少女達は、この世にいないのだから。
「――人間は、人間を、救えません」
絶望する椋太郎の耳に、静かな言葉が告げられた。まるで託宣であるかのように、なんらかの力を持ってして、脳へと響く。
(人間は、人間を、救えない……?)
そんな。
そんな、事が。
“そんな莫迦な事が!”
「救えないものは、どう足掻いても、救えないんです」
愕然として、顔を上げる。
この子供は、今、なんと云った。人は人を救えず、救えないものは救えないと云ったのか。
そんな――そんな事を、
「お、前が」
咽喉が急激に乾いて、掠れた声が出た。みっともない声だ。
それすら気にならない、気にする余裕がない怒りが、椋太郎の身を焦がす。
龍治の蒼い瞳が不思議そうに瞬く事すら、この激情を煽った。
「お前が、俺に、それを云うのかッッ――!」
云い訳が出来るなら。
それは、勢いとか云うものだった。普段の椋太郎なら決して出来ない、しない事だった。
龍治の言葉は、あまりにも強く椋太郎の心を抉った。抉られた分だけ、憤怒の念が燃え盛った。
許せなかった。許す訳にいかなかった。その龍治の言葉を認める事は、決して許されなかったのだ。
(なぁ、どうして、よりにもよって、お前が、云うんだよ)
押さえ付けた肩は薄く、掴んだ手首は細かった。どちらも、容易く折れてしまいそうなほど。
組み敷いた体は華奢だった。細くて薄くて小さい。けれど相応の肉はついていて柔らかい。子供だ。どうしようもないほどに。緩やかな成長が始まったばかりの、小さな子供だ。
こんな子供に頼っていたのかと泣きたくなる。大の大人が。一応社会経験をしている大人が、こんな小さな子供に。
(嗚呼、でも、でも――)
揺れる視界の中で、龍治は――酷く、静かな目をしていた。
静謐な湖面、いいや、全てを受け入れる母なる海のような、そんな目だ。椋太郎の行動を何一つ責めていない、赦しの目。非難も恐怖も怒りもない、そんな目をしているから。
椋太郎の口は、言葉を吐き出す事が出来た。錆びた咽喉が搾り出す、情けない声だったけれど。言葉には、なっていた。
「――なら、俺はどうなるんだ」
惨めな声で語る。
情けない想いを吐露する。
「お前に、そんな事を云われたら、俺は、どうしたらいいんだ」
言葉が止まらない。まるで溢れ出る水のように、せき止める事が出来ない。
惨めな気持ちが次から次に言葉となって漏れ出して、美しい子供へと降り注ぐ。
「人に人が救えない? そんな事、あってたまるか。じゃぁ、どうして、“俺は救われたんだ”」
そう。救われたのだ。椋太郎は確かに、龍治に救われた。
何でも無い事のように会話をしてくれた。大事な友人だと云ってくれた。どうしようもなくなって困っていた所を助けてくれた。椋太郎の事を悪くないと云ってくれた。優しく、包み込むように。まるで温かな眼差しで見守る“姉”のように。椋太郎を救いあげて、くれたのに。
その龍治自らに否定されたら、椋太郎はどうしたらいい。突然突き飛ばされて否定されて、どうすればいいのか、分からなくなる。まるで幼い迷子のようだ。縋る手を必死に探して助けを求めて泣き喚く、弱いだけの存在。
「お前が……否定するのか。救われた俺を、お前が否定するのかよ」
白い。白く、細い、首が。
まだ性差など感じさせない、しなやかな首筋が目に入る。きめ細やかな肌の下で、筋肉が収縮してヒクリと咽喉が動いている。
誘われるかのように、その首へ、手を伸ばした。
掴めば、熱いほどの体温を感じる。生きた人の首。椋太郎の手の中で、確かな脈を刻んでいる。それをもっと感じ取りたくて、手に力を込めた。指が薄い肉へ僅かにめり込む。龍治がゆっくりと目を細めた。白銀の睫毛がふるりと揺れる。
抵抗一つ、しない。
自由になった手で、椋太郎の体を押す事も、首を掴む腕に爪を立てる事も無い。どうしてか、わからない。抵抗する必要すらないと思われているのだろうか。この程度の事、なんでもないのだと。どうでもいいと、思っているのだろうか。
視界が涙で滲む。惨めだ。どうしようもない程に。
それでも声を出せた事が、椋太郎自身、不思議だった。
「お前がいてくれたから――俺は、救われた、のに」
情けないその言葉に、龍治の目が――とろりと甘く“濁った”。
どうしてそう思ったのかわからない。透き通った蒼い虹彩に変化はない。そうだ、瞳孔が――黒い瞳孔が、深淵のように暗い色を増したように感じたのだ。
僅かに恐怖のようなものを感じたが、その感情はすぐに霧散した。
龍治の手が、椋太郎の頭を撫でたからだ。
前頭部から後頭部へ向かって、流れるように髪を梳かれる。何度も何度も繰り返し。単調な動作を飽く事なく。小さな子供の手が、沢山の感情をその掌に込めて、撫でて来る。
冗談交じりに、軽く撫でられた事ならあった。けれど、こんな風にされたのは初めてで。それなのに、どうして懐かしいと思うのか。“やっと撫でてくれた”と思うのか。その掌をずっと待っていたのだと、何故僅かな疑問も抱かずに思ってしまえるのか。わからないけれど、別に構わない。
龍治が今、椋太郎の頭を幾多の感情を込めて撫でてくれている。それが分かれば、充分すぎた。
――ずっと、待っていた。
撫でて欲しかった。
自分の事だけを考えて、見て、想ってくれながら、撫でて欲しかった。
“あの時みたいに”!
一気に視界が水分で覆われてしまう。霞んで歪んで龍治の顔が見えなくなる。それが不安で目を精一杯見開いた。温かな手が自分を撫でてくれているのは確かなのに、こうして捕らえているのだから手の中に居るのは当然龍治なのに。それでも不安になる。目を閉じて、この掌に甘えた瞬間、“消えてしまう”んじゃないかと。
けれどそんな椋太郎の不安を笑うかのように、手はいつまでも撫でてくれるから、自然と拘束するように押さえ付けていた手を放していた。それでも姿勢は変えないままで居ると、龍治が小さく身動ぎをする。
「お前が俺に救われたと云うのなら」
龍治の優しい声がした。首を押さえていたのに少しも掠れていない、透き通るような静かな声。
両の手で、頭を撫でられる。頭部の形をなぞるように。慣れ親しんだ、当たり前の動きで。
「それは、“お前が俺に救われたいと思ったからだ”。お前が俺に救いを求めてくれたから。俺に救って欲しいと願ったから。“だからお前が救われたんだ”。ただ、それだけの事だよ」
一つの答えが、提示される。その答えは、あっさりと胸に落ちて椋太郎を納得させた。
嗚呼――そうか、と。
(そうだよ、俺はお前に救われたかった。“お前だけに”救って欲しかった。だって俺を救えるのは、“いつだって”お前だけなんだ。俺には、お前だけで――)
その考えを、冷静な理性がおかしいと云ってくる。
どうしてだ。何故そこまで、この子供に心を傾けているのかと。つい三ヶ月ほど前に会ったばかりの、住む世界が違うはずの子供だ。外見も内面も背負う物すら何一つ釣り合わない、本来ならふれる事さえ許されない、特別な子供。
その子供相手に、自分は何を想い、考えているのだ。
(なんで、なんで、こんな、おれは、どうして、なんで)
急速に龍治へと依存して行く己を自覚して、椋太郎は震えた。そしてそれが当然であると云う“本音”に恐怖した。
おかしい。どう考えたって、こんな心の在りようには無理がある。まるで自分が自分ではないような感覚。それでもこの選択が正しいのだと、魂の奥底から湧き出る何かが断言する。無駄な抵抗をして、この現状を無意味にするなと、“何かが”罵ってきて――
考えられたのはそこまでだった。撫でる手に唐突に力が入り、強く引っ張られた。抵抗など微塵もなく、椋太郎の顔は龍治の肩辺りへ埋まった。呼吸をすれば、龍治の香りが肺一杯に広がった。起き上がれば、この状態から脱する事は容易い、けれど。
そんな事、“勿体なくて”出来なかった。
また頭を撫でられる。良い子ね、と云うかのように。泣いてもいいよと、受け入れるかのように。
それでも見っとも無いからと我慢していたのに、ぎゅぅと強く抱きしめられたから。
「う、あ、ああ、あ゛、あああ、ああああああああ――……」
その華奢な体をかき抱いて、椋太郎は泣き声を上げていた。涙の量が増える。鼻水まで出て来た。龍治の服を汚してしまうとわかっていたのに、声も涙も押さえる事が出来ない。
優しく背中まで撫でられたものだから、もう我慢なんて出来るはずもなく。椋太郎は久々に、本当に久々に、人に甘えて泣き叫んだのだった。
*** ***
――女の背中を追い掛けていた。
背丈は不明。肩幅も測れない。髪の長さも分からない。服装すら見えて来ない。
何一つ分からないのに、懐かしくて愛しい事はよく分かる――いや、それが当然なのだ。
そんな女の背中を、必死に追いかけていた。
その女を、なんと呼べばよいのだろう。
口を開く。誰か分からないはずなのに、言葉はするりと出て来た。
――お姉ちゃん。
そうだ、姉だ。そんな当たり前の事に何故気付かないのか、自分で自分が理解出来ない。
呼べば姉は振り返り、「どうしたの?」などと云う。
そう、いつだって姉は振り返って、自分を見てくれたのだ―――
少し、年の離れた姉だ。六歳も上なものだから、幼稚な頃は口汚く「ばばぁ」と罵った事もあった。そう云うと眉間にぐっと皺を寄せて、げんこつを一発よこしてくる。「生意気云うんじゃないよ、糞がき」なんて云って、カラっと笑う。
喧嘩と云うより、自分が一方的に食って掛かっていたように思う。姉は弟の幼稚な癇癪を笑って済ませる度量があった。
それが、悔しかった。男として――いや、人間として敵わない事が悔しかったのだ。
いつだって強い姉。男の自分より逞しく、凛々しく、勇ましく。本人や周りは「普通」と云っていたけれど、弟の自分から見れば姉はテレビのヒーローもかくやと云うほどカッコ良かったのだ。
そんな姉が、かっこよくなかった時期がある。姉が高校に入って半年くらいした頃、初めて彼氏が出来た時だ。
始終にこにこ笑って、浮かれていた。口を開く度に「■■君が」「■■君は」と彼氏の名前ばかり。
母は微笑ましそうに聞いていて、父はそわそわ落ち着きがなかった。自分は――拗ねていた。
休みの日には遊んでくれたのに、最近は「■■君」とデートばかり。家に帰って来ても携帯と睨めっこして、メールをずっと打っていた。勉強も教えてくれなくなって。「後でね」が口癖になって。
初めての彼氏に浮かれていたのだろう。とても分かりやすくて、当たり前の事。恋に恋する女子高生が初めて彼氏が出来て、浮かれないはずがない。しかも相手はそこそこイケメンで優しいときたら蕩けても不思議ではない。
でも子供の自分にはわからなかった。なんで姉ちゃんは俺の相手をしてくれないの。どうして遊んでくれないの。勉強頑張ったのに、「よく出来ました」だけだった。テストで良い点とったら動物園に連れてってくれるってゆったのに!
どうにもこうにも、姉離れが出来なかった。子供だったからで済ませられると云えばそうだが、なんとも見っとも無い事である。
そうしてある日、やってはいけない事をした。
姉がはしゃいで、母に見せていたもの。「■■君がくれたんだよ。似合うよって」そう云って誇らしげに掲げていたのは、色付きのリップクリームだった。五百円そこそこの、安物だ。それでも姉は、宝物を手に入れたかのように大はしゃぎで。
姉が何かを貰って、あんなに喜んだ事があっただろうか。なかったと思う。綺麗な珊瑚色のリップクリーム。あんな物で。あの程度のもので。
嫉妬したのだ。数回会っただけの姉の彼氏に。優しい人だった。恋人の弟に厭な顔一つしないで、家に来る時には「弟君に」とお菓子まで買って来てくれて。
それでもその時、確かにそいつは姉を奪って行く憎い敵だった。だから――大事に箱に仕舞われていたリップクリームを盗んで、川へ捨ててしまったのだ。
やってから後悔した。姉が泣いてしまうと気付いた。彼氏がくれた大事なプレゼント。無くしたら傷付くに決まってる。それだけじゃなく、そんな事をしでかした弟を――
胃袋がきゅぅと縮んで、背筋が冷えた。想像しただけで、体が小刻みに震えるほど、怖かった。
――お姉ちゃんに嫌われたら、どうしよう。
簡単に想像出来た。あれほどはしゃいでいた宝物を棄てた弟。勝手な嫉妬から、罪のないプレゼントを川へ投げた。
泣きながら自分を罵る姉を想像したら、涙が出て来た。嫌われる。嫌われたら、どうしよう。嫌われたら、どうしたらいい?
子供など単純で、とにかくリップクリームを元に戻せば大丈夫などと考えて、それ以外は何も考えないで川に入ってしまった。思っていたより深くて流れも速く、足をすべらせ呆気なく溺れた。助けてくれたのは、近所のお兄さんだった。たまたま川辺で泣いている自分を見つけて、どうしたのだろうと声をかけようとしたところ、川へ入って行ってしまったから大慌てだったそうだ。
とんだ大騒ぎになってしまって、家から母と姉がすっ飛んで来た。姉が泣いていた。「どうして川になんて入ったの?! 危ないでしょうッ?!」近所の人が貸してくれたタオルに巻かれた自分をぎゅうぎゅうと抱きしめて、莫迦、莫迦、と罵りながら。母まで泣いて、無事でよかったと云って、周りの人へぺこぺこ頭を下げていた。 ごめんなさいと謝った。泣きながら。謝って、リップクリームを棄てた事を白状して。何度も謝って、姉の思っていたよりずっと細い体に抱き付いたのだ。
姉は「莫迦」と怒って、それから「ごめんね」と謝った。悪い事をしたのは自分なのに、何故姉が謝るのかがわからなかったけれど、嫌われなかった事に安堵して、さらに泣いてしまったのだった。
それからはもう、二度と姉を悲しませないと心に決めた。強い男になって姉を守るのだと、子供ながら真剣に誓ったのだ。泣いていた姉の姿と、抱きしめた体の細さに、男の本能が刺激されたのだろう。
自分にとっては厚く固い誓いだったのだが、当の姉はけろりとしたもので。弟が決死の覚悟で「姉ちゃんは俺が守ってやる!」と云ったのに、またカラリと笑って「莫迦ねぇ。お姉ちゃん、あんたに守られるほど弱くないよ」と拒否してきた。男心のわからない駄目な姉である。そんな所がますます放っておけなかった。
あんなに好きだった彼氏とだって、別の大学へ進学したからなんて理由で自然消滅してしまったのだから本当に駄目だ。
――そんなだから、姉ちゃんには俺が居てやらないと、駄目なんだ。
口では彼氏と別れた事について、勿体ないと囃し立てたけれど、本音では喜んでいた。姉が「■■君の彼女」ではなく、ただの姉に戻って気分が良かったのだ。自分が居るから、姉には恋人なんて必要ない。そう思って、得意げになって――莫迦みたい、だった。
本当は、本当の本当は、自分が駄目だったのだ。
相手がいないと駄目だったのは、自分の方だった。
姉が大学を卒業し無事就職をして、一年後の事だ。
姉は「仕事に慣れるまでは」と云って実家から通勤していた。「そろそろ一人暮らししようかな」が口癖で、「出来もしねぇ癖に」と悪態をついてやると子供のように頬を膨らませて「そんな事ないよ」などと云う。母は「無理にしなくてもいいじゃない。その内いい人が出来るかも知れないし」なんて云って、父は「まだ一人暮らしなんぞ早い。結婚も早い!」なんて焦りながら云って。そんな日常がずっと続くものだと、思い込んでいた。
その優しい日常は、突然終わりを告げる。――両親が、事故で亡くなったのだ。
父が休みの日、母と二人で買い物へ行った。特別な買い物ではなくて、スーパーへ米や醤油などの重い物を買いに、車で向かったのだ。その帰り道、信号待ちをしていただけだったのに。
後ろから居眠り運転のトラックが突っ込んで来たのだ。
前にも車がいて逃げ場などなく。前方の自家用車と後方のトラックに挟まれて押し潰されて両親は死んだ。あまりにも理不尽だった。
その当時の事はほとんど覚えていない。ずっと泣いていたからだ。両親の遺影を抱えて泣いて、遺骨を抱きしめて泣いて、位牌の前で泣いて。よく涙が枯れなかったものだと変な感心をしてしまうくらい、泣いた。
哀しくて、悔しくて、腹が立って。何で母さんと父さんがと世の中を呪って、トラックの運転手を憎んで。溢れ出る感情のままに泣きじゃくった。
泣くばかりの情けない自分。それ以外どうしたらいいのか分からなかった、子供な自分。そんなどうしようもない弟の肩を、姉は華奢な手で抱きしめて、優しく頭を撫でてくれた。
「大丈夫、お姉ちゃんがいるよ。大丈夫」
その声は、少しも震えていなかった。力強い感情に支えられた澄んだ声に、ますます泣いた。
――あぁ、自分の姉はこんなにも強い人だった。守ってやるだなんて、どうしてそんな傲慢な事を思えたのだろう。こんな強い人を、弱い自分がどうやって守るつもりだったのか。
強くなりたかった。誰よりも。他の何よりも。この強い姉よりも。それはどうやら、叶わない願いだったのか。分不相応な望みだったのか。
情けなくて抱き返せなかった姉の体は、きっとあの時よりも、細く小さかったに違いないのに――
優しく強い、自慢の姉。年の離れた弟を養うために、自分の幸せなんて後回しにしてしまった。よく分からない趣味は楽しんでいたようだけれど、浮いた話はとんとなく。「彼氏いねーの」と聞けば、「画面の中にいるぜ……!」なんて親指立てて良い笑顔で云い返して来るから頭を抱えた。こんな事なら、あの「■■君」とどうにか続けさせればよかったと本気で後悔したくらいだ。
「柾輝たんかわいいペロペロ」じゃない。「花蓮ちゃんマジ可憐嫁に来てくれださい!」じゃない。「龍治は攻めっつーより責めだわな。うーんサドい!」じゃない。「ロリコンヘタレカウンセラーマジうまー」じゃない。「隠しキャラマジ狂気ヤンデレ俺の嫁!」じゃない! 現実の男を見て欲しい。
とにかく自分と云うお荷物が片付けば、姉も手軽な二次元では無く神経使う三次元に目を向けるだろうと、専門学校に通いちゃちゃっと免許を取って就職した。姉はしっかり勉強したいなら四年大に行けばいいと云ってくれたが、そうのんびりしていられなかった。姉が行き遅れたら大変である。
自分が生涯姉の面倒をみる、と云う事も考えた。けれどそれでは駄目だった。“弟”の自分では、姉を支えきれない。姉も弟に寄りかかるほど、弱くない。姉に必要なのは、姉が心おきなく甘えられる大人の男でなくてはいけなかったのだ。
だから、恋人が出来たと報告された時には「よかったな」と平静を装いつつ、内心では大喜びした。会えば口数が少なく表情も固く親しみ辛い人だったけれど、弟の目から見ても姉を大事にしてくれているのがわかったから、本当に良かったと安堵したのだ。寡黙な分、ふと笑顔を見せられると物凄く嬉しかったりした。姉がぼそっと「義兄×義弟か……」とかほざいた時にはつい物差しで叩いてしまったが――姉なりの場を和ませるジョークだと分かっているが、義兄が可哀想なので――、良い人が姉の伴侶になってくれて良かったと、本当に嬉しかった。
姪や甥も生まれて、可愛くて堪らなくて。しょっちゅう遊びに行くと、「もう此処に住んじゃえば」などと姉が云う。姪甥たちも「おじちゃんといっしょ!」なんて云うし、義兄まで「いいんじゃないか」と云うから、断るのに難儀したものだ。魅力的な御誘いだったが、流石にそこまで厚顔になれなかった。
姉と義兄はもう一つの家庭を築いていて、そこでの自分は異分子だと思ったのだ。弟だからって、我が物顔で居座るのは難しかった。近くで見ているだけで、充分だった。姉の幸せな姿を。夫に甘えて頼りにして、それでいてしっかり家庭を支える逞しい姉の姿は、誰よりも幸せそうで。それを見ていられるだけで、幸せだったから。
だから義兄が事故死した時には、いるかも知れない神様に腹の底から呪詛の言葉を叩き付けたのだ。
姉は泣いた。この世の終わりが来たって人はこんなに哀しまないだろうと云うくらい、泣いて、叫んで。置いて行かないで、ずっと一緒に居てと、義兄の遺体に泣き縋る姿は、余りにも、余りにも――
――ああやっぱり、姉さんの体は細くて小さくて華奢だった。
抱いた肩の薄さが、震える小さな体が、嘆きに丸まった背中が、全部全部、強さとは程遠く、哀しいほどに弱くて。
――姉さんは、どっちもだ。
見惚れるくらい強いのに、それと同時に、泣きたくなるくらい弱くて。相反する性質を抱えた、誰よりも“人間らしい”女で。
ならば自分もそうであろう。姉にとって、可愛がる対象の弟であると同時に、その繊細な魂を支える心強い肉親で在り続けよう。
「俺が居るから、ずっと一緒に居るから」
己の全てをかけて呟いた言葉は、姉に届いたのだろうか。
――俺もどちらにもなるから。弱くて強いものであるから。だから、どうか。どうか。
貴女の全てを受け入れてみせるから、幸せになってくれと、願ったのだ。
―――振り返った姉に、手を伸ばす。いつの間にやら、幼い頃に戻っていたようだ。お姉ちゃんと呼べば、愛しげに目を細めて笑ってくれる。抱きしめてくれた体は、やはり細くて小さい。自分の方がもっと小さいのにそう感じるのは、姉が女だからだろうか。
いつだってこうして、側にいてくれた姉だけれど。結局最期には自分を置いて行ってしまった。
何かを、探しに行ったのだ。姉が懐かしんだもの。どうしてももう一度見たいと云うから、「じゃぁ探して来るよ」と告げて旅に出た。姪甥達には止められたし、せめてついて行くと云われたけれど断った。
「万が一のために、姉さんの側に居てあげてくれ」と云ったけれど、本当は違った。
姉の大事な物を探しに行く大役を、誰にも譲りたくなかった、幼稚な独占欲だったのだ。
それが悪かったのだろう。誠実でなかったから、駄目だったのだ。ようやくその何かを手に入れて、意気揚々と帰ろうとしたところで、姪から連絡が入った。
――姉が亡くなった、と。
突然の事で連絡が間に合わなかった事を、姪は泣きながら謝った。姪は何も悪くない。悪いのは、愚かな自分一人である。それと、姉も少しだけ。
「待ってるからね」と云ったくせに、約束を破った姉も、少しだけ、悪いのだ。
何で間に合わなかった、どうして側に居られなかった、何で自分は姉のいない世界で生きているのか。そう自身を責めると同時に、どうして待っていてくれなかったんだと、姉を恨む気持ちが少しだけあって。
仕方ない事だ。姉は沢山苦労して、充分生きて。さらには六つも年が離れているのだから。
けれど考えてしまう。思ってしまう。同じ年であったなら、自分が兄であったなら、こんな風に置いてかれて、泣く事もなかったのだろうか、と。最期の時は、一緒にいられたのだろうか、と。そんな詮無い事を考えて、子供のように泣いた。
願わくば。
もし神様がいるのなら。
次の生と云うものがあるのならば。
その時は、姉より先に生まれさせて欲しいと、願った。
先に生まれて、先に強くなって、先に立派な大人になって、姉が来てくれるのを待っているから。
そうして今度こそ、最期まで、一緒に―――
*** ***
―――……遠い遠い、大事な夢を、見ていたようだ。
目を覚ました瞬間に内容は忘れてしまったが、懐かしくて哀しい、大切な想いの塊のような夢だったと思う。どうして忘れてしまったのだろうか不思議なくらい、濃い夢だったと思うのだが。どう脳みそを捏ねまわしても、内容は思い出せなかった。
椋太郎は腹筋と腕を使って、のそりと起きあがる。いつの間にか布団で寝ていた。目元を覆っていたらしい、濡れタオルがぽとりと足の上に落ちた。部屋は暗く、静まり返っていて――
「おはようございます、久遠様」
「ふぎゃぁ?!」
一人なのかと思いきや、誰かいた。特徴の薄い男性の声は、何度も聞いた事がある。
「さ、ささ、さ、佐々木、さん……!」
「佐々木で御座います」
ようやく目が慣れて来て、暗闇に座す佐々木の姿がうっすらと見えた。佐々木は「失礼」と一声かけると立ち上がり、電灯のヒモを三回引いて、小さな灯りをつけた。椋太郎の目に配慮してくれたらしい。
橙色に染まる部屋には、椋太郎と座り直した佐々木しかいない。――今最も会いたい人物は、いなかった。
「時間が差し迫っておりましたので、龍治様は先にお帰りになりました」
「あ、そうですよね、すみません……。あの、それで、なんで佐々木さんが?」
「龍治様が、久遠様をお一人にするのは心配だと仰ったためです。部屋の鍵もかけられないのは不用心ですしね」
「お気を使わせて申し訳ないです……」
「いえいえ。大丈夫ですよ」
そう云って佐々木は朗らかに笑ったが、これは明らかに、業務外の労働だろう。佐々木は龍治の護衛をするのが仕事であって、当然椋太郎の面倒をみるのは仕事内容に含まれない。
確かにそのまま帰られたら部屋の鍵がかけて貰えず不用心だが、そこまで気遣って貰うと居たたまれない気持ちにもなった。有難い事に変わりはないけれど。
「あ、あの……」
「何でしょう?」
「龍治は……何か云ってましたか?」
「はい。「また遊びに来るから、そこそこの緑茶でも用意しといて」との事です」
「はは……」
思わず笑いが漏れた。最悪な醜態を晒した人間に対して、なんとも寛容な事だと。それと同時に、これからも会える、側に居られると云う喜びが沸いたけれど。そこそこの緑茶などとわざわざ云う辺りも龍治らしくて、さらに笑えた。
笑う椋太郎に、佐々木は無言で微笑んだ。その微笑みの意味はわからないが、厭な感じは全くしない。良い意味での、笑顔なのだろう。
「御気分が悪いなど、体に不調はありませんか?」
「あ、大丈夫です。目も、冷やして下さったお陰で、平気です」
「ならば良いのですが。―――失礼」
一言断って、佐々木は懐からスマートフォンを取り出した。電話ではなくメールらしい。ついついと画面をタップして、さっさと懐へ戻してしまった。
「問題なさそうですので、私はそろそろ失礼致しますね。長々とお邪魔致しました」
「あ、いえ、そんなっ。こちらこそ、本当にお世話になりまして……!」
深々と頭を下げられて、迷惑をかけた側である椋太郎も布団の上でほぼ土下座した。しばらくの間、龍治にも佐々木にも頭が上がりそうにない。いや、そもそも最初から頭を上げられる相手ではなかったけれど。
「あの~……」
「はい、何でしょう?」
「……俺がさっき、みっともない声を上げた事、内緒にして下さいね」
「畏まりました。護衛仲間にだけ話す事にします」
「あれ?! 俺の希望が届いてない感じなんですけど?!」
「ふふふふふ。それでは失礼しますね。戸締りはお忘れなく」
「ちょ、佐々木さん?! 佐々木さーん!」
含み笑いをしながら、佐々木は無駄のない動きで部屋から出て行った。寝起きのなまった体では追い縋る事も出来ず、見送るしかなかった。
あの人、実は怒ってたんじゃないのか。それともからかわれただけか?
「……」
とにかく椋太郎は、云われた通り玄関の鍵を閉め戸締りを確認すると、部屋の電気を全灯にした。少し目がしぱしぱしたが、先の淡い光のお陰で慣れるのは早かった。
全体に光が届き、見慣れた部屋がよく見えるようになる。そうして、布団の側にスポーツ飲料のペットボトルとコンビニおにぎりが二つ置いてあるのに気付いた。側に屈みこむと、佐々木からのメモがあった。「お腹空いてるでしょうから。火々池のオゴリなので、遠慮なくどうぞ 佐々木」と。至れり尽くせりとはこの事か。
「ほんと……頭上がらねーわ……」
頭をばりばりかきながら、掠れた声で呟いた。
本当に。
自分の周りには、優しい人間が多すぎる。
*** ***
三日後、意を決して美容室を訪れた。出迎えた美容師達は若いと云ってもそこはプロ。だっさい椋太郎の姿に対し含み一切無しで、丁寧に対応してくれた。中々人間が出来ている。
カットしてくれるのはベリーショートがよく似合う男性美容師だった。「今日はどうしましょうかー」と云う声は軽いが、髪に触れる手付きは丁寧だ。
「えーっと、この所適当に切ってたもので、整えたいのと……ちょっとイメージ変えたいかなーって……」
「はいはい、了解でっす。ちょっと失礼しますねー」
そう云って美容師は、椋太郎の前髪を片手で上げて――無言で真顔になった。結構なイケメンなので、真顔が怖い。さっそく自分は粗相をしたのだろうかと、少しそわっとしてしまった。
「あ、あの?」
「……お客様。イメージ変えたいんでしたね?」
「あ、はい」
「色は変えます?」
「あ、いえ。黒のままがいいんで、髪型だけ……」
「ぐぬぅ、勿体ない……。この顔なら明るい茶髪でも余裕で似合うのに……」
「はい?」
「いえ、こちらの話です。そうですねー。俺に任せて貰っちゃっていいですか? 久々にいい素材……もとい整え甲斐がある髪で本気出せそうです」
「あ、はい。お任せします」
素材とか云われたような気がしたが敢えて突っ込まず、真剣な様子の美容師に全面的に任せる事にした。むしろ声に有無を云わさぬ圧力があった。本気になったプロに逆らうなと、本能が警告してくる。
髪を湿らせる為の霧吹きと、ロール状になってる櫛を手に持った美容師が、にっこりと笑う。
「お客様、今日から人生変わりますよ」
「はい――?」
*** ***
「ありがとうございましたー!」
「また来て下さいねーぇ!」
「どうもー……」
カットだけのはずだったのに、ヘアケアだマッサージだとあれこれされて、気付けば店に入ってから一時間以上過ぎていた。料金ヤバイと思ったのだが、「こっちが勝手にしたんで! 気にしないで下さい! その代わりまた来て下さいね!」とまたもや有無を云わさぬ笑顔で云われた。美容師直々に名刺まで貰ってしまう始末である。何が何やら。
明るい声に見送られて店の外へ出れば、通りがかった女性とばっちり目が合った。この所絶賛引き篭もりライフだったので、それだけでうぐと息を飲んでしまったが、当の女性はぱっと顔を背けて足早に去ってしまった。酷い。目を逸らしたくなるくらい酷い見てくれなのだろうか。
(美容師さん達は褒め上手だからなぁ……。調子に乗らないようにしないと)
鏡の前で褒められまくって、「あ、割と見られる顔だったのか、俺」などと思ってしまったが、とんだ勘違いのようだ。恥ずかしい。しかし大分スッキリしたとは思うので、外で龍治と会うのに臆する必要は――無いだろう、多分。恐らく。願わくば。
(まだ時間あるから……後は、服をどうにか……。見っとも無い格好出来ないしな……)
何せ今日は、龍治が噂の婚約者に会わせてくれると云うのだから。貯金叩いてでも、格好を整えねばなるまい。友人だと紹介して貰えるのだから、恥ずかしくない格好でなければ。
示談金があるのだが、それにはまだ手を付けない事にした。気持ちの問題だ。もっと別の時に、使う機会があるだろうと。
「……」
死者は戻って来ない。死者は何も語ってくれない。死者との間には明確な境界線があって、超える事は生きる人間には許されない。
ならば、忘れずに生きる事でしか、想いは示せない。
(死者に謝る事は、自分を許してくれと云う事だ。自分が楽になりたいからって謝るのは、違うと思う)
潔癖と云うより、幼い敬意のように思う。
けれど椋太郎は、藤井の事も、麻倉の事も忘れずに、けれど下を向かないで生きて行こうと思った。
教訓としてでなく、後悔の象徴ではなく、尤もらしい手前勝手な感情など押し付けないで、ただ、忘れずに。確かに二人は、生きていたのだと。
哀しくて辛い記憶と一緒に、穏やかで優しい想いも抱え込んで。
生きて行かなければ、いけないのだ。
そうして死者を想いながら、同時に生きる者も想う。片方に偏っていては、人は破綻してしまう。死者だけ想えば先に進めず、生きる者だけ想えば省みる事は出来ないから。
数秒、目を閉じた。龍治の会心の笑みが瞼に蘇えって、少し気が楽になる。
三度深い呼吸を繰り返して目を開き、歩き出す。擦れ違う人の何人かがこちらを見ていたが、背が縮こまる事のないように、腹に力を入れて。
(……ここ、でいいかなー。若者向けだよな。ちょっとおしゃれだし、いける、今の俺なら大丈夫)
目についた店に入る。いい服はあるかな、イメージは変えたい、その新しい姿を見たら龍治はなんと云うのか。そんな事を考えながら。
そして丸々一時間、店内にて店員どころか他の客からまで着せ替え人形扱いされる事になるのだが――
それはまぁ、蛇足である。
・突っ込み所
水野江とんだとばっちり(水「俺何もしてませんけど?!」)
弟シスコンすぎる。どんだけ置いてかれた事ショックだったの。
内面似た者同士ですね、龍治と椋太郎って。さすがゲフンゴフン。
次回は龍治視点に戻ります。一段落ついたので一話息抜き話を。
その後、本編に関係ないようでチラっと関係ある番外編とキャラまとめを挟んで、新章に入りたいと思います。
次の更新はなるべく早く……! 頑張ります……!
短編更新の時、お優しい言葉をかけて下さった方々のため、こんな駄目書き手をお気に入りユーザー登録して下さった方々のため、私の書くものを楽しみにして下さってる方々のため頑張ります! 何とぞよろしくお願い致します!
皆さん優しくてホント涙出ますうぐぐ……。渡る世間に鬼はなしとはこのことか……!




