26.逆鱗の存在は龍だけにあらず
失禁描写があります。
苦手な方はご注意ください。
龍治は静かに怒り狂う。
それは、生まれながらに頂点に立つ事を約束された身の上故だろうか。少なくとも、椋太郎のためだけに怒っている訳ではないと、自覚はあった。
祖父から叩き込まれた帝王学の知識が、目前にいる莫迦を許すなと云ったのだ。
「――黙れと云ったのが聞こえなかったか? そんなに絞め落とされたいのか、莫迦雌」
冷ややかな声になるように意識して云えば、亜麻音は「ひっ」と息を飲んだ。
声や言葉には力が宿る――言霊と云う概念が日本にはあると云うが、本当かも知れない。初対面の時全力で睨みつけてやっても怯みもしなかった女が、顔を真っ青にして後ずさりをしたのだから。
ちなみに――罵倒用語はゼンさんの読書履歴より拝借した。なんでこんな罵倒文句が出る本を読んでいるのか。貴腐人だからか。腐ってるからか。……凄い笑顔でサムズアップされた気がする。
前世のアレな部分は置いといて。視線を亜麻音から動かし、硬直している麻倉へと移す。麻倉は卒倒しそうなほど、顔色を青くしていた。
「麻倉殿――大変結構な教育をご息女に施しているようですね?」
「あ、あの」
「まぁ貴方の言動も大概でしたが? 国民の為に激務の日々を送っている警察官に対して、公僕の分際……とか?」
「あの、それ、は」
「確かに国民が税金を支払い、それによって活動を支えられている組織ですが……彼らは日夜多大な努力と労力を持ってして職務に従事している訳ですよね? それなのに横柄な態度をとれるとは……。まぁ別に悪い事をしていないなら、必要以上に遜る必要もないと思いますよ? けれど今回、貴方のご息女が多大な迷惑をかけた訳ですよね? それを反省しないどころか暴言まで吐くとは……若輩者ながら云わせていただけるなら、育ちが知れる、と云う物です」
「わ、わたし、は」
「それと、下流が厭だ、とか? やぁ素晴らしい発想ですね。この世の全て、上だけで事を成しているとでもお思いか? こう云う云い方はどうかと自分でも思いますが云わせて頂きますけど、“下があるから上があるのです”。上と云う概念は下がなければ存在しません。その逆も然りです。つまり我々上流の者が偉そうにしていられるのは、下で支えてくれる人たちが居るからです。我々と彼らは持ちつ持たれつの関係なんですよ。麻倉家の当主としてその辺りをどうお考えなのでしょう? 自分さえよければそれでいい、と? 上の者だけ栄えればそれだけでいい、下の者など蔑む踏みつけ食い潰せばいい、と? 家を支えるために働く者達の事などどうでもいい、とでも仰るのでしょうか? もしそうなら――貴方に、上に立つ者たる資格はない」
「な、――な、な」
侮辱を受けた自覚はあるのか。青かった麻倉の顔が、あっと云う間に赤く染まる。
「ぶ、無礼な! い、幾ら綾小路家の嫡男と云えど、云って良い事と悪い事があるっ!」
「その言葉、とんだブーメランですけど。その辺分かってます? あぁ、分かってたら云わないか……申し訳ない、貴方の過大評価してしまいました。その程度も分からないような人でしたね。娘の犯罪行為を恥じるどころか、その被害者に対して威丈高になるくらいですから」
はっ、と鼻で笑って云ってやると、さらに顔の赤みが深まった。そろそろ脳の血管切れて倒れそうだなぁと思いはしたが、撤回する気もなければ手加減する気もさらさらない。
「もう我慢ならん! よくもこの私を侮辱してくれたものだ! 大体、悪いのはこの男だろう?! 下賤なこの男が、私の娘を誑かして……!」
「へぇ。つまり貴方はご自分の娘を、下賤だと見下した男に誑かされる程度の尻軽の阿婆擦れだと仰る訳だ。すごいな。よく自分の娘をそこまで扱き下ろせるものだ。逆に感心する」
「んなっ?!」
「娘可愛さ故の態度かと思っていたけど……あぁ、下賤な男に惑わされて犯罪行為を犯すような愚かな娘ですと自ら公言している訳か。ある意味反省していると云う事なのかな? 凄い斜め上で無意味だが」
麻倉はついに言葉を出す事も出来なくなったようで、酸素不足の金魚のように口をぱくぱくさせている。
龍治も言葉を取り繕う事はやめた。もう面倒くさい。相手が綾小路だと分かっていながら開き直るような莫迦、どうせこの業界で長生き出来ないに決まっている。
莉々依の顔がちらりと脳を過ぎるが、後でフォローする事にして今は隅に追いやる事にした。流石の龍治も――犯罪行為を犯す者やそれを省みない愚か者にかける慈悲はない。
それは龍治なりの線引きだ。
己の周囲全てを守ると決めた。目に入る者達を助けたいと願った。けれどそれは、ただ愚鈍に人助けに奔走すると云う意味ではない。龍治は周囲の“犬”になりたい訳ではないのだ。“自らの幸せな未来のために、周りにも幸せになってもらわないと困る”のである。
故に――犯罪者を庇うなど、言語道断。法治国家日本に住むのなら、犯罪行為は一国民として見逃してはいけない。
ついでに云うなら、日本において犯罪行為はリスクばかりが高くリターンは少ない、やっても損するのが目に見えている行為である。誰がやるか。犯罪なんて。少し頭を使えるなら、絶対にやらないのだ、そんなもの。馬鹿馬鹿しくて。
故に、そんな事をやらかすような奴は――救いようがない莫迦だと云う事だ。
「麻倉亜麻音」
「ひっ!」
「人が名前を呼んだのに息を飲むとは何事だ。返事も出来ないのか、無礼者」
「な、――なに、よ。ひ、人の、こと、め、雌豚って、云ったくせに!」
「云ったが何か? 自分の身も弁えず喚く莫迦なんて、雌豚で充分――いや、豚さんに失礼か。彼女たちの肉、美味しいからな」
つい本気で思ってしまった。
豚肉はとても美味だし、見た目も意外と可愛い。特に仔豚時代は持ち帰りたいくらい可愛い。ドイツでは幸運の動物として誉れ高い。さらに豚は繊細で賢く、綺麗好きな生き物でもある。
目の前の雌と一緒にするのは失礼すぎた。反省である。
「すまん。お前はただの莫迦雌だった」
断言した。腕を組んで堂々と。
亜麻音の顔が、父親同様真っ赤になった。さすが親子、反応がそっくりである。
「なに、何様のつもりよ?! 私を誰だと思ってんの?!」
「何様? 綾小路龍治様だよ莫迦雌。ついでにお前は麻倉家の次女亜麻音だな。久遠椋太郎のストーカーで不法侵入までやらかした犯罪者、と」
「不法侵入なんてしてないわ! 私と『椋太郎』は恋人同士なのよ?! 恋人の家に入って何が悪いって云うの?!」
「柾輝ー。不法侵入について説明ー」
「はい。刑法百三十条前段に規定されている罪です。正当な理由もなく、他者の住居などに侵入した者に科せられる罪で、法定刑は三年以下の懲役または十万円以下の罰金です。その方の場合、台所の窓から侵入したにも関わらず恋人だと身分を偽り開き直ってますから悪質ですね」
「偽ってないわ! 私だけが『椋太郎』を救えるの! 私だけが『椋太郎』の全部をわかってあげられるのよ! だから私以外の奴が『椋太郎』の恋人になれる訳ないでしょ?!」
「すっげぇぶっ飛び消去法で恋人主張してんなぁ。椋太郎さん、この雌と恋人?」
「違イマス」
「何で片言」
「またそんな事云って! 照れなくていいのよ『椋太郎』。私が貴方を愛してあげるんだから、安心して私を受け入れればいいの! それだけで幸せになれるのよッッ!」
いつの間にやら、以前公園で見た時のように陶酔しきった表情になった亜麻音は、椋太郎を見据えながら云う。周りがドン引きしている事に気付きもしないで。
父親の方もようやく自分の娘の異常性に気付き始めたのか、先ほどとは別の意味で顔色を悪くし始めた。正直に云えば、遅い。以前やらかしたストーカー騒ぎの時に気付くべきだ。その時も恐らく、「何かの間違いだ」「うちの娘は誑かされたんだ」と云い張ったのだろうが。
「……なんか宗教じみてませぇん?」
「この壺を買うだけで幸せになれますよ、って奴ですか」
「今時そんなアレな……」
「いや、そう云う商法は手を変え品を変え延々と続くものらしいですから……」
「何それ怖いなぁ……」
「恋人商法は斬新なのでは?」
「拒否感凄いけどねぇ」
一応気を使っているのか、護衛五人が小声でぽしょぽしょ話し合っている。耳の良い龍治には聞こえるが、亜麻音達の方にまでは届いていないだろう。
その証拠に、絶好調で語りを続けている。そろそろ殴ってでも止めたい所だが、お巡りさんたちの手前そうもいかないのが辛い所だ。
「大体不健全よ、小さい女の子を好きになるなんて」
「―――は?」
亜麻音の突拍子もない言葉に、椋太郎が間の抜けた声を上げた。龍治は逆に、口元を引き攣らせる。
この莫迦雌、何を云う気だ。
「十以上も年が離れている子を好きになってどうするの? どうせ“幼馴染のお兄ちゃん”としか思って貰えないのに!」
「な――」
椋太郎が愕然とする。前髪と眼鏡の下で、目が極限まで開かれているのが、少し離れた位置からでもわかった。指先が震え、細い顎を汗が伝う。
まずい、と思った。これ以上亜麻音にも椋太郎にも喋らせてはいけないと。
しかしそんな真っ当な龍治に悪魔が囁く。――黙って情報を待て、と。
「なんで――なんで、“ゆぅ”の事知ってんだよ?! 誰にも話してないのにッッ?!」
案の定、椋太郎から飛び出したその愛称に――龍治は誰にもばれないように息を飲んだ。
こんな所で――こんな場面で、聞く事になる、なんて。
血を吐くような叫びを上げる椋太郎に、亜麻音は陶然と微笑んだ。
「当然でしょ? 私は貴方の事なら何でも知ってるの! “貴方のルートを何度も攻略したんだから”ッ!」
(……うっわぁ莫迦だぁ)
動揺しかけた龍治はすぐ冷静に戻った。あんまりにも莫迦な発言を聞いて白けた、と云うところか。
云うか普通。云わないだろ普通。正面切って云うとか、狂気の沙汰だ。
当然、意味の分からない事を云われて椋太郎は目を白黒させている。それはそうだ。ルートを攻略とか、まるでゲームの話をしているような事を云われたのだから。意味が分からないだろう。
この場で正しく意味を理解しているのは龍治だけだ。だから龍治は口を開いた。
「どこまで救いようがない莫迦なんだ、お前は」
冷然と云い放った龍治に、亜麻音はまた顔色を青くする。恐る恐ると云わんばかりの態度で、龍治の方を向いた。どうやら、声に込めた冷たい怒りを感じ取ったらしい。莫迦で愚かだが、感覚までは麻痺していないようで何よりだ。
そうして龍治は言葉にする。自分自身にとっても、痛烈な皮肉となる言葉を。
「貴方のルートを何度も攻略した? ……まさか、“現実と虚構を区別出来ていないのか”、お前は」
自分で云って笑えて来た。区別出来ていないと云うなら、きっと龍治も傍から見ればその分類に当て嵌まる。
けれど、この女ほど目の前にある現実が見えていない訳ではないので、この言葉を紡ぐのだ。
「なぁ、ここがゲームの世界だとでも云う気か? だから椋太郎さんを攻略したつもりになって恋人を気取るのか? 犯罪を犯してもゲームの世界だから問題ないと思っているのか? ここは虚構の世界だから、何を云っても、何をしても許される、と? ―――莫迦な妄言も大概にしろ。現実を見てくれないか? 椋太郎さんは人間であってゲームのキャラなんかじゃない。犯罪行為はやってはいけない事だ。人の心を踏み躙る発言を繰り返して、それが相手の幸せに繋がる訳がない。お前がやっている事は、ただの、他者を省みない迷惑極まりない反吐が出るほど悪質なものだ。……なぁ、いい加減、無駄な労力を使わせないでくれないか? お前みたいな考えなしの莫迦にくれてやっていいほど、俺の言葉は安くないんだけどな」
「なに、よ。ここは、ゲームでしょ? 『せかきみ』の世界じゃない。私そう云われてここに来たんだから。神様が云ったのよ! 私は『ヒロイン』になれるってッッ!」
椋太郎も麻倉も警察官も、そろって顔を盛大に顰めた。頭がどうかしたとしか思えない発言を普通の人が聞けば、そんな反応にもなるだろう。龍治からは見えないが、柾輝や多村、護衛達も同じような顔をしているに違いない。
ここはゲームの世界で、神様がそう云って、自分は『ヒロイン』になれるのだと。
――龍治からすれば、色々と考えさせられる言葉であるが。何も知らない人間からすれば気が触れているとしか、思えないだろう。
はぁ、と一つ溜め息をついて。
「……例えここがゲームの世界だとして。お前みたいなのが本当に『ヒロイン』になれるとでも思っているのか? 頭めでてぇな、本当に。“俺がゲームのキャラだとしたら”、お前みたいな莫迦雌が『ヒロイン』なんて御免だよ。犯罪犯す『ヒロイン』なんて願い下げだね。なりたかったら、せめてまともな人間になってくれないか? 犯罪者『ヒロイン』とか誰得だ? 思考回路まで駄目なのか。不細工なのは心だけにしとけよ、莫迦雌」
亜麻音が顔を大きく歪めた。世間一般で云えば可愛らしい顔が、般若のようになる。それでも龍治が静かに見つめていれば、亜麻音は口を大きく開いて――叫んだ。
「何よ! 何なのよ! あんたはただ私を『せかきみ』みたいにちやほやすればいいのよ! 私を可愛い可愛いって云って貢げばそれだけでいいのにッ! ただのゲームキャラの分際で生意気なのよぉおおおおッッッ!」
狂ったように髪を振り乱して叫ぶ亜麻音に、龍治の太い堪忍袋の緒が切れるより先に――
「黙れ、糞女」
(えっ?)
何かそれなりに重量のあるものが、空気を切り裂く音がした後に――亜麻音の真横を高速で“パイプ椅子が通りすぎた”。椅子はそのまま速度を落とさず彼女の後ろにあった窓に到達して、盛大な音を立ててガラスを砕き外へと飛び出したのだった。
へたん、と今まで喚き散らしていた亜麻音が床に座り込む。腰が抜けたようだ。それは、仕方ないだろう。下手をすれば、窓を砕く勢いの椅子が直撃していたのだから。
龍治は気の抜けた顔をしたまま、椅子が飛んできた方を見る。龍治だけでなく全員が見た先には、先ほどの声の主が今にも亜麻音を絞め殺しに行きそうな冷徹そのものの顔で立っていた。
「龍治様の御前で穢れた言葉を喚き散らすなよ、下衆」
何を云えばいいのか。どうすればいいのか。咄嗟に龍治は思い付かなかった。頭が真っ白になったと云っていい。どうして、なんで、と云う詮無い言葉ばかりが浮かんで来る。
(何でお前――そんなブチ切れてんの、柾輝……?)
柾輝が逆鱗に触れたが如く怒り狂う様を初めて見た龍治は、本気で魂を抜かれたかのように唖然として。
「……あ」
冷め切った顔をしていた柾輝が、唐突に驚いたような声をあげ、口元に手をやった。またもやそれに釣られるように、龍治達が柾輝の視線の先を追う。
全員の目が集まる中心にて、腰を抜かした麻倉亜麻音が、泣きながら失禁していた。
*** ***
「柾輝。俺の為に怒ってくれただろう事は素直に嬉しい。主人想いの従者を持って、俺は幸せ者だと断言するよ。だけど、嬉しいけどな、暴力はいけない、暴力は。人に物を投げたら危ない。物を壊すと云う行為はよくない事だ。パイプ椅子は投げる物じゃない、座る物なんだ。ガラスを割ったら破片が飛び散って危険だろう? もうしちゃ駄目だからな? 約束出来るな?」
「はい、龍治様。ごめんなさい」
「よーしいい子だ。素直な柾輝が大好きだぞ」
「でも龍治様に害成す屑が現れた場合はお約束出来ません!」
「素直すぎるなぁもう! そこは素直にごめんなさいで終わらせておこうか?! 説教終わんないだろ?!」
「龍治様に嘘はつけませんから!」
その輝く笑顔に龍治はがっくりと肩を落とす。こうなったらもう、龍治が自分に害を成す屑を前にしないよう努力するしかない気がした。この手の事に関しては、凄まじく頑固で梃子でも動かないのが柾輝なのだから。
「……なんか、ほんとにごめんな、俺のせいで……」
「え、いや、それこそ本当に椋太郎さんは悪くないですよ」
「椋太郎様は悪くないと思います」
「……ありがとな」
小さく礼を云って、椋太郎は僅かばかり苦い色を滲ませて笑った。
柾輝がパイプ椅子をぶん投げて盛大にガラスを割り、亜麻音が恐怖のあまり失禁した後。音を聞き付けた職員たちが十数名ほど駆けつけて来て、ちょっとした騒ぎになったのだ。
とりあえず龍治達は椋太郎を含めて別室へと移され、多村達に「少々お待ち下さい」と頭を下げられながら頼まれて、小さな会議室で待機中だ。小さな丸テーブルに龍治と柾輝、椋太郎が座り、護衛達は立っている。離れて座るのも妙な気がして、三人はそれなりに近い距離に座っていた。当然のように、龍治を真ん中にして。
それで龍治はまず、自分に為に怒ってくれたとは云え危険行為を実行した事には違いない柾輝を叱っていたのである。効果はあまりなかったが。
ガラスの破損代は、後で龍治が弁償するつもりである。部下の不始末は上司の責任。さっきは慌ただしかったので、後で謝罪と一緒に代金を払おうと思う。子供がやった事だと大目に見てくれる事を祈る。全員で謝れば許してくれるだろう、多分。
椋太郎は。
部屋に入った直後、龍治達を厭な事に巻き込んでしまったと謝った。龍治に甘えたせいで、厭な思いをさせたと。申し訳ないと頭を下げた。
それに対して龍治は自分で来ると決めたから気にしなくていいと云って、柾輝は悪いのは相手の方だとけろっとした顔で云い放ち、護衛達も亜麻音の凄まじさを見た後なので同情的だった。それでも椋太郎は心苦しいのだろう。お人好しだから。
「……少し、思うんだ」
「何をです?」
独り言のように呟いた椋太郎の言葉に、龍治は返事をする。それに対して、椋太郎は苦笑した。
「もしかしたら……本当に、麻倉亜麻音があぁなったのが……俺のせいなんじゃないか、って」
「……どうしてです?」
「……なんか……なんか、さ……」
ずるずるとテーブルに突っ伏して、椋太郎は軽く頭を抱える。ただでさえ頼りなさげだった肩が、さらに小さく見えた。
「……あの年頃って、本当に難しいんだよ。子供じゃない。でも大人にも成れてない。女には違いないのに、成熟なんて絶対にしていない。中途半端で、曖昧な年ごろで……本当に、本当に些細な事で、道を踏み外しちまう、から……」
「はい」
「……カウンセラーとして、中高の生徒見ててさ、気付いた事が、ある。本気で悩んでる奴って、誰にも、云わないんだ。助けてなんて、口に出さないで。顔にも出さない奴もいて。溜め込んで、飲み込んで、どうにも、ならなくなって……」
「はい」
「気付いた時には……もう、遅くて」
「……はい」
「何にも、出来なくて……!」
震える背中を、静かに叩いてやる。一定のリズムで、宥めるように。
何となくだが――その話は、亜麻音についてではない気がした。もっと昔の誰か、本当にその手で救えなかった、誰かの話だ。
「俺が、気付いていてやれれば、何か、変わったかも、知れない。麻倉に、ちゃんと、向き合ってたら、あいつ、あんな風に、ならなくて、済んだかも、……」
「それはないですね」
つい断言してしまった。でも龍治には分かるのだ。あの手合いは、真剣に向き合おうが、手を伸ばそうが、自分にとって都合の悪い事は切り捨てて聞く耳を持たず、自分にとって都合のよい事がらだけ耳に入れて喜び図に乗ると云う事が。
ゼンさんに囁かれるまでもなく、分かるのだ。
(前世の記憶の全能感に酔い切った顔だったからなぁ。……あぁならないよう、気を付けないと)
こんな時になんだが、他人のふり見て我がふり直せとはよく云ったもので。例え全ルート攻略の記憶があろうが、設定資料集全文が頭にあろうが、裏話や裏設定を知っていようが、決して全能などではなくただの優位性でしかない。その優位性は、利用の仕方次第でどうとでも転がる。正しく使えば己を助けるだろうが、下手に扱いを誤れば亜麻音のように身の破滅を呼び込むのだ。
反面教師にしなくてはならない、と思う。
「綾小路を前にしてもあの態度だったんです。貴方が向き合ったって「やっぱり私に気があるんだ!」とか勘違いして調子に乗って余計に椋太郎さんを苦しめていたに違いないですよ」
「……」
「否定出来ないでしょう?」
「……ほんと、云うよなぁ、お前。容赦ねーの……」
「容赦は家に忘れて来たようです。ですが、貴方が気に病むのでしたら、綾小路が直接手を下すのはやめておきましょう」
がばりと椋太郎が身を起こす。眼鏡の奥で、瞳が涙で潤んでいた。柾輝が驚いたように龍治の名前を呼ぶが、手を上げて制する。
「あれだけ追い詰めれば充分でしょう。人前で失禁とか、あの年の少女にしたら最大の屈辱でしょうし。これ以上追い詰めて自殺でもされたら事ですしね。まぁ、次はありませんけど」
「お前……」
「あ、こちらから弁護士紹介しますから、ちゃんと慰謝料は取りましょうね! 後、今後二度と椋太郎さんに関わらないように念書くらいは貰いませんと!」
「……」
「椋太郎さん?」
呼びかけると、椋太郎は気の抜けたように笑った。頬杖をついて龍治を見やり、空いた方の手で頭を撫でて来る。撫でられながら龍治は、慣れた手付きだなと思った。
「……お前って、良い子だよなぁ……」
「そうですか?」
「うん。…………ありがとな、龍治」
頭を撫でていた手を降ろし、龍治の頬を優しく撫でて、椋太郎は柔らかく笑った。そのまま流れるようにテーブル突っ伏して、極小さい声で云う。
「……龍治と一緒だと、安心する」
「……それは良かった」
照れるような声に龍治も笑って、くしゃくしゃの頭を撫でてやった。
ゼンさんがにやにやしながら「デレデレやんなぁ」と云った気がした。何で関西弁なのか。本場の人に似非は嫌われるぞと余計な突っ込みを入れて、龍治は小さく息を吐く。
頭の片隅で「上手く行きそうだ」――などと思う自分が、どうしようもなく厭になりながら。
(……欲を出すな。俺。今は、これでいいだろう。……“ゆぅ”の事は、自分から、絶対に聞くんじゃない。今はただ……この人に寄り添っていれば、それで、いい)
*** ***
そうして椋太郎との仲も深まって二週間が過ぎ、その間に麻倉家との示談も済ませ、龍治の誕生日も終えて、年末年始を迎える準備を周りが慌ただしく行う頃に。
事態が急変した。
龍治の元に、――麻倉亜麻音の訃報が届いたのである。




