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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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眼福のテラリウム

作者: 室外機
掲載日:2026/06/08

七月十四日、金曜日。お天気は、眩暈がするほどの快晴。

 けれど、自由を奪われた僕にとって、空模様など何の意味も持たない。ただ、虚しいだけの青だ。

 その輝きと開放感は、ガラスの向こう側でのみ完結した、僕とは全く無関係な美しさを誇示している。


この透明な境界線のすぐ先へ指を伸ばせば、容易に掬い取れそうなほど近くに、真っ白な雲が浮かんでいる。それを乱雑に引きちぎって、綿菓子のように食べてしまいたい。

舌の上でシュッと溶けて消える、あの潔さ。そして、後を引いて、少し焼けるような甘い感覚。

 こんな食べ物って、他にない。そのどこか異常さを感じさせるところが、僕にはどうしようもなく魅力的だった。


――綿菓子、もう長い間、味わっていないな。

 このままベッドの上で、これまで生きてきた全ての感触を、根こそぎ忘れてしまうのではないか。そんな底知れない恐怖が、ときどき僕の背中を、ざわざわと音を立てて這い上がってくる。


遠くで、夏の終わりの予感と、町内の夏祭りが始まる気配。

 祭りの喧騒を拒むようにして、僕は愛しいユキちゃんの浴衣姿を思い描く。


濃紺の星空を背景に、色とりどりの朝顔が狂咲いている、鮮やかな浴衣。

 まぶたの裏の暗闇で、その布地をそっと彼女に着せてみる。

 彼女を起点に、世界が塗り替えられるほどの光が溢れ出す。……ああ、やっぱり。

溜息が出るほどに、この世の誰よりも、彼女にぴったりと似合っている。


病院の昼食が目の前に登場すると、現実へ引き戻される。献立は、ゆるすぎるおかゆに薄い味噌汁、ほうれん草のお浸しに、冷え切った焼き魚だ。

舌に触れるのは、砂を噛むような味気なさ。それらを飲み込むたび、彼女の幻影で満たした胸の温もりが、こぼれ落ちるように消えていく。


――ああ、ユキちゃんに会いたい。二人で、あの喧騒の中へ踏み出したい。

真っ赤なケチャップを塗りたくったフランクフルトや、甘ったるい香りを振りまくベビーカステラを、一緒に頬張りたい。


食事を終えた頃、大好きなユキちゃんがお見舞いに来てくれた。

 それは、一週間を味気なく過ごす僕にとって、唯一の、そして至上の「金曜日の楽しみ」だった。

 

「ねえ、凛くん。あたしね、『八つ葉のクローバー』っていう歌を作ったの。四つ葉じゃないところが、ちょっと素敵でしょ? ……まだ三小節しかできていないんだけどね」

 

そう言って、ユキちゃんは鼻歌を聴かせてくれた。

 僕が勝手に想像していた明るい旋律とは裏腹に、それはどこか震えるような、フラットがいくつも重なる短調のメロディーだった。

 彼女の唇から零れ落ちる不穏な響きに、僕は言葉を失い、ただ圧倒される。


「もしかして、タイトルが『八つ葉のクローバー』だからって、幸福な気持ちでスキップしたくなるようなメロディーだと思った?

……ダメだよ、凛くん。目に見えるものや、肌で感じることをそのまま信じちゃ。一度、疑わなきゃ。

ただ平穏に生きていくことさえ、この世界では、そんなに単純なことじゃないんだから」


そんな言葉を、冷え切った無表情で言い放つユキちゃんに、僕はどうしようもなく惹かれていく。彼女の瞳に宿る冷たい光に触れるたび、僕の恋心はまたひとつ、深い場所へ沈んでいくのだった。


最終的に、『八つ葉のクローバー』の歌詞は僕が担当することになった。

 共作って、なんて楽しいんだろう。

 あの寂しくも悲しい旋律に、僕はとびきり華やかな言葉を選びたい。眩しくて直視できないほどに輝く、そんな言葉たちを。


ユキちゃんはふんふふんと鼻歌を歌うと、風のように、軽やかに帰ってしまった。

束の間の、愛おしい時間。

枕元には、おやつにと、つやつやとした真っ赤なリンゴがひとつ、取り残されたように置かれていた。


しばらくすると、入れ替わるようにして姉が見舞いにやって来た。

 姉もまた、毎週金曜日の決まった時間に現れる。ひどく疲れた表情で、何も言わずにリンゴを剥き始めた。


「この本、置いていくね。見ると心が和むよ。ずっと病院の中じゃ、気が滅入るでしょう」


姉は猫の写真集を差し出した。世界中の、愛らしい猫たちが収められた一冊だ。

 そういえば長い間、猫に触れていない。

 通学路でよく見かけた、あのぶち模様の野良猫――さび助は、まだあそこで元気にしているだろうか。


近頃僕は、窓からだらんと落っこちても死なないような気がしている。

 下腹にグッと力を込め、地面を押し返すように手のひらを広げると、不思議な圧力に押し上げられて、そのまま宙を舞うことができる。そんな夢をしばしば見るからだ。

夢と現実をかろうじて繋ぐ、一本の煙のような縄の上を、心許ない足取りで移動している。それが、今の僕の生活だ。

 いつ踏み外してもおかしくない危うさを抱えていることが、今の僕にはやけに居心地が良かった。


ぼんやりとした儚い縄を、自分の吐息で吹き消してしまわないよう、僕はいつも慎重に呼吸している。

 けれど、密閉されたかのように閉ざされたこの部屋では、何ひとつ、成し遂げられそうになかった。





私の弟、凛は十六歳の誕生日に自殺未遂をした。あの日から一年が経った今も、彼は入院している。

 私は週に一度、決まった時間に彼を見舞う。

 そして、凛が病室で、誰にも見られないようこっそりと日記を綴っていることも知っている。


私が食後の時間を狙って面会するのは、凛が規定の薬を飲んで寝静まった後、その日記帳を盗み見るためだ。

 そこには、彼が幻覚や幻聴、そして妄想の中に生きていることがはっきりと分かる言葉が並んでいる。

 日記にしばしば登場する、ユキちゃんという女の子など、この世のどこにも存在しない。


弟は、夢の中をふらふらと彷徨(さまよ)うだけの空っぽな人間になってしまった。

 人生を謳歌すべき十代の貴重な時間を、こんな閉鎖的な場所で浪費していくなんて。考えれば考えるほど、胸の奥が焼けるように痛んで、苦しい。

 ――凛、本当のあなたは一体、どこへ行ってしまったの。


姉としてやってあげられることは、なんでもしてあげたい。

 この世で凛を守り、繋ぎ止めておけるのは、世界でたった一人の肉親である私しかいないのだから。

 たとえ彼が、それを望んでいなかったとしても。






僕は日記帳を二冊持っている。

 そのうちの一冊には、病院での出来事を淡々と綴っている。姉がそれをこっそり盗み見ていることも、もちろん知っている。

 けれど、あの日記の内容はすべて、僕が作り上げた偽りだ。


「弟は正常な人間ではない」と姉に思い込ませ、それが揺るぎない事実だと突きつけるために、僕はあの日記をわざと書いているのだ。

 そして、二冊目の日記には真実を綴っている。僕の目の前で刻々と起きている、純粋な真実だけを。

 今、この状況を書き記している二冊目の日記帳は、僕の魂の絶叫と言っても過言ではない。声に出せない叫びを書き綴る、それだけで、僕の心はようやく静寂を得る。

 ――姉は僕が自殺未遂をしたと思い込んでいるけれど、それは、致命的な勘違いなのだ。


僕から言わせれば、何度も自殺未遂を繰り返しているのは、姉の方だ。

 そして、その原因はすべて、僕にある。

 最初に姉が未遂を起こしたのは、僕が小学校二年生の頃だった。

 読みたい本を買う金が欲しくて、姉の財布から千円札を抜き取った。ただそれだけのことが、すべての崩壊の始まりだった。


ずっと欲しかった『海の生き物』という本を握りしめて帰宅すると、家の中から姉の号哭が聞こえてきた。

 恐怖のあまり引き返そうとしたけれど、それより早く、猛烈な足音を立てて姉が玄関へ駆け出してきた。

 涙に濡れた眼球は真っ赤に血走り、この世のものとは思えない鬼の形相で、僕を睨みつける。


すると姉は、手のひらをカッターナイフで十文字に切り裂き、そのまま手首を深く切った。

 人間の皮膚から、熱を持った泥のような血液が溢れ出すのを、僕は初めて直視した。声も出せず、その場に崩れ落ちて失禁した。


「姉ちゃんの手のひらに傷をつけたのは、凛、あんたなんだからね! いつから勝手にお金を盗むような人間になったの? あんたはいつか人殺しになる。姉ちゃんは、あんたに殺される前に、今ここで死んでやる!」

 姉はそう叫ぶと、噴き出す血を僕の顔に、そして買ったばかりの『海の生き物』の表紙に塗りたくった。

 それは突然、僕が「人殺し」の烙印を押された、最初の誕生日だった。


姉はそう絶叫した後に、糸が切れた人形のように崩れ落ち、気絶した。

 あまりに恐ろしい出来事だったので、その頃の記憶の大部分は今も欠落しているけれど、震える手で受話器を握り、必死に救急車を呼んだことだけは鮮明に覚えている。

 その後も、姉は事あるごとに自傷を繰り返し、僕の目の前で何度も「自殺未遂」を演じてみせた。


僕が姉にとって気に入らないことをするたびに、彼女は迷わず自身の肌に刃を立てる。

 はっきり言って、もう耐えられなかった。一分一秒だって、こんな窮屈な檻のような家で暮らしたくはない。

 そして、十六歳の誕生日、あの事件は起きた。


小さなイルカの形をした、透け感のある純真なブルーの便箋。それは、僕が初めて全身全霊で捧げた告白への、答えだった。

 そこにはただ一言、「私も好きだよ」と、柔らかな文字で綴られていた。

 それで十分だった。理由なんていらない。どうでもいい

 その青く眩しい光だけが、「家族という病」から僕を解放してくれる唯一の救いだと信じていた。


心臓が口から飛び出しそうになるほど、全身が熱く昂っていた。

 人生で初めての、恋人ができたのだ。

 僕はその高揚を抑えきれず、最悪の禁忌(タブー)を冒した。


「姉ちゃん! 聞いてくれよ、今日は素敵な報告があるんだ。彼女ができたんだ! 人生で初めての彼女だ!」


本音を言えば、彼女ができたことを姉にだけは伝えたくなかった。けれど、僕と姉の間にいかなる「秘密」も許されない。

 自分の身に起きたこと、起こしたことのすべてを差し出し、共有すること。それが、この家における姉弟間の血塗られた暗黙のルールだった。

 心臓を掴まれるような恐怖を押し殺し、僕は姉に交際の事実を告げた。もしかすると、祝福してくれるかもしれないという仄かな期待もあった。

 何もかもをクリアに、馬鹿正直に差し出すことだけが、姉を安心させ、平穏を保つ唯一の手段だと信じ込んでいたからだ。


けれども、僕の報告を聞いた瞬間、姉は怒り狂ったのだった。

「またか……」

 僕は冷めた目でその光景を眺めていた。幼い頃から、もう何度も見せられてきた、見飽きたルーティンだ。

 姉は僕の目の前に立ちはだかると、いつものカッターナイフを取り出す。そして、手のひらにあの十文字の傷を刻み、手首を切りつけては、「死んでやる!」と絶叫するのだ。

 正直、もう、うんざりだった。


十文字を切り裂き、血を見せつけられる前に、こっちが先にやってやる。

 今後も姉の気分次第で、感情も時間も、生き方の選択も支配される人生なんて、もう真っ平ごめんだ。

 僕は鞄からカッターナイフを取り出すと、迷いなく自分の首と腹を切り裂いた。ヒリつく痛みと共に、鮮烈な熱が走る。

 その後のことは、何も覚えていない。


目が覚めると、病院のベッドの上だった。

 姉の目から見れば、僕は突如として気が狂い、自死を図った哀れな弟なのだろう。

 でも、僕は狂ってなんかいない。

 衝動的ではあったが、僕はこの自殺未遂に人生を賭けたのだ。自分を切り裂くことでしか、この支配を終わらせる方法はないと確信していたからだ。

 姉は僕を支配したがる。感情に任せて乱暴に僕を扱い、鎖で繋ぎ、思い通りにならなければ死をチラつかせて精神的な暴力を振るう。

 そんな日常から、僕は血を流して逃げ出した。


暴力を与え続ける側だった姉が、突然、弟から精神的暴力を受けるとどうなるのだろう?

 壊れるに決まっている。

 僕の気分は高揚していた。カッターで切り裂いた痛みと共に、自由を得る喜びが全身を駆け巡っていた。僕の人生を覆っていた分厚い壁を、自らの血で溶かし、切り拓いたのだ。


忌まわしい姉――あの「鬼」との日々に、ついに終止符を打つことができた。


晴れて僕は、精神病棟で新しい人生をスタートさせている。

 姉から干渉されず、縛られない。ここは僕が夢にまで見た場所だ。

 入院していると聞けば、誰もが「可哀想に」と口をひそめるだろう。けれど、僕の場合は違う。

 姉という忌まわしい鬼から逃れるために、死に物狂いで見つけた安息の地。静かに過ごせる、孤高の楽園なのだ。


姉は僕が抱えているこの「真実」を知らない。

 僕が毎日差し出す「偽りの日記」を信じ続けている限り、この事実に気がつくことはないだろう。

 僕が突然狂ってしまったことをいつまでも悔やみ、一生、自責の念に潰されていればいい。――潰れろ。


今後も僕の書いたシナリオ通りに、事は進んでいくだろう。

 もうしばらくは狂ったふりを続け、機を見て僕は黙ってこの場所を去る。

 そして、一人で生きていく。誰のものでもない、僕自身のための人生を謳歌するんだ。


さようなら、姉ちゃん。


二冊目の日記は、この真実を記して終了とする。









弟の凛は、私の全て。

 凛のことならば、目を瞑っていても手に取るように何でも分かる。


姉ちゃんを騙そうなんて、百年早いんだよ。

 狂ったふりを続けていることなんて、ずっと前からお見通しだ。


一冊目の日記しか読んでいないと思っているようだけど、姉ちゃんは二冊目の日記の在処(ありか)も知っているし、毎日しっかり熟読しているのよ。

 凛が寝静まった頃に、看護師さんにお願いして内緒でコピーを取ってもらっているからね。


凛が自傷行為をして入院に至ってしまったのは、確かに姉ちゃんの責任だね。

 でもね、これは姉ちゃんが長年描いてきたシナリオ通りなの。

 凛のシナリオ通りには、決してならない。


私の手のひらに刻まれた十文字の傷は、愛情の証。

 凛が恋人を作るなんて、そんな汚らわしい真似は絶対に許さない。

 凛は生涯、姉ちゃんの作り上げた、透明のガラスで守られた美しいテラリウムの中で、安心して有意義な時間を過ごせばいいの。


「だけど、私たち姉弟は、こうしてお互いを騙し合うことでしか、寄り添って生きていけないのかもね。

……寂しいね。滑稽だね、凛。

現に、今のあなたは、お姉ちゃんに嘘ばかりついているもの」


「でもね、お姉ちゃんもまだ、凛に明かしていない嘘があるの。その中でも、とびきり大きな嘘」


私は、古びた、けれど大切に保管されていた一冊の手帳を取り出した。


「凛を産んだのは、この私である、ということ」


そう、凛の母親はこの私。年の離れた姉だと言い聞かせてきたけれど、私たちは正真正銘の親子なの。

 私は生まれてすぐ両親に捨てられて、施設で育った。天涯孤独だった人生の中で、やっと恋人ができたけれど――その恋人にも、無惨に捨てられた。


彼と別れた直後、お腹の中に凛がいることが分かった。

彼は酷い人だったけれど、子供ができたことは、心の底から嬉しかったの。

凛だけが、私の人生に残された唯一の家族。暗闇の中で見つめた、生きるためのたった一つの希望の光。


私はね、実の親に捨てられて、自分の半分を切り捨てられたような、ひどく惨めで、悲しく、辛い思いをしてきたの。孤独という言葉だけでは、到底足りないくらいの絶望。

 だから……凛とは「親子」という関係にはなりたくなかった。

「親」なんて、いつか子供を捨て、裏切る汚らわしい生き物の呼び名だと思っていたから。


だから私は、あなたを「息子」としてではなく、片時も離れない「弟」として愛することを選んだの。


いつまでも姉弟として、ずっと二人で生きていく。それはもう、誰にも変えられない運命なのに、凛が私から逃れようとしているなんて……絶対に、絶対に許さない。許されるはずがない。

 凛はまだ、自分の本当の姿も、私の本当の顔も知らない。


……『親』なんて忌まわしい。本当は、親子だなんて言いたくないんだけどね。

でも、この親子関係という『真実』を突きつけるのは、凛の心身を完膚なきまでに崩壊させるための、最後の切り札だから



 それをいつ使うかは、私が決めること。ねえ、そうでしょ? 凛。


これもまた違った、私の愛。

しっかりと、根っこから心を壊してあげなくちゃ、私たちの足並みは揃いそうにないみたいね。

――だから今日、この『真実』をすべて凛に伝える。

凛、一体どんな顔をするんだろうね。


私は胸を躍らせながら、病院へと向かう。母子手帳に、凛が生まれた時の写真……その他にも、親子であるというあらゆる証拠をリュックに詰め込んで。ずっしりと肩にかかるその重量までもが、たまらなく愛おしい。

 さて、ようやくここまでこぎつけた。理想のテラリウムが、いよいよ完成する。

 誰にも邪魔されない、私と凛だけが暮らす、小さな、小さな箱庭。


規則正しく並ぶ病院の窓が、正午の太陽を跳ね返し、きらきらと眩しく光っている。これからの未来を暗示するかのような輝きだ。

私は、軽くなった足取りで追い風を切り、「私の一部」が待つ病室へと走った。


「凛、よかったね。私たち、やっと、本当の家族になれるんだよ」


私はテラリウムの瓶の蓋をポンっと開くように、病室のドアを軽やかに開いた。

さあ、光の中に佇む『私の一部』を、新しい世界へ迎えに来たよ。

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