五月時雨
「よ」
「うん」
短い言葉が互いの間を抜ける。
彼は無言で彼女にキスを送る。
彼女の唇もそれに応える。
それが、セフレとしての役目だから。
事が終わると、彼は無言で部屋を出る。
彼が彼女の部屋で発する言葉といえば、最初の「よ」のみだ。
それだけで心が弾む私は、きっと心が病んでいるのだろう。
どうして恋人になれなかったんだろう。
本気で、好きだったのに。
「好きです」
半ば勢いで言った彼女に、彼は涼しい顔で言い切った。
「とりあえず、ヤるだけヤろっか」
「……え?」
「だってお前、俺のこと好きなんでしょ?」
「それは……そう、だけど」
「じゃぁいいじゃん」
その場で押し倒されて抵抗できなかったのは、彼が好きだったから。
ヤれば、気持ちも受け入れてくれるんじゃないかな、なんて期待してた。
彼女の初めてを奪った後、彼は汗の浮いた額を彼女の肩に押し付けた。
「お前、イイ身体してるじゃん。気持ちよかった」
「……ありがと」
「明日もお願いできる?」
明日も。明日も。明日も。
明日が積み重なって、いつしか毎日になっていた。
彼がこんなことするのは私だけだ、と彼女は思った。
彼にまとわりつく女たちのだれより、私が彼のことを知っている。
だからこそ、身体も気持ちも許せるのだ、と。
彼は自分のことを語らなかった。
饒舌だったのは最初の頃だけだった。
セフレ、という言葉を知ったのもその頃だった。
私は彼のセフレなんだ、と変な自信が持てた。
恋人じゃなくてもいい。
彼は私に火照った身体をくれるのだから。
何年セフレをやってきただろう。
やり方が少しずつ変わってきたのに、彼女は気づいていた。
何も不自然なことは無い。
何も無い。
筈なのに。
「よ」
いつも通り部屋に入ってきた彼の指。
灯りを反射して光るリング。
左手薬指。
結婚指輪。
ふたつの言葉が同時に浮かんで、背筋が寒くなった。
彼女の肩を抱き寄せる彼の耳に口を寄せる。
「その指輪、なに?」
マニュアルからはずれた台詞は、充分に彼を動揺させたらしかった。
彼女の唇を甘く塞ぐ、少し震えた唇。
熱い舌同士が絡み合い、吐息がもれる。
押し倒された直後、一瞬の隙が出来た。
「ねぇ」
彼女の服に手をかけたまま、彼の動きが止まる。
無理矢理目を合わせてから、もう一度。
「その指輪、なに?」
「……どうでもいいだろ」
「結婚指輪?」
「知らねぇよ」
「答えて」
鋭く睨むと、彼は根負けしたように彼女の上から降りた。
乱れた服を片手で直す。
「結婚指輪だよ」
「誰との?」
「関係ないだろ」
「知りたいの」
私はまだ、あなたが好きだから……。
セフレに恋する資格は無いって分かってるけど。
この気持ち、隠しておいた方がいいってことも。
「怒らないから教えて」
「怒るだろ」
「私がただのセフレだってことは承知してる。だから」
横目で彼女を見つつ、彼は重い口を開く。
「お前と初めてヤる前から付き合ってる女と」
「そんなに前から?」
「ほら、怒ってる」
「驚いてるだけ」
そんなに長く、私は騙されてたんだね。
怒る代わりに、彼女は彼に極上の微笑みを送る。
「おめでとう。お幸せに」
「お前……いい女だな」
「今更気づいたの。遅いよ」
私が気づくのも遅すぎたよね。
動かない彼に、彼女は手を振る。
「ばいばい。もう会えないね」
「……サンキュ」
最後に言った彼の言葉がどんな意味を持つかなんて、考えたくない。
彼は背を向けてドアの向こうに帰り、二度と振り返らなかった。
さよなら。
私の好きだった人へ。
ドアを後ろ手に閉めて、大きく息を吐く。
問い詰められると、思っていた。
殺されるのも覚悟してた。
なのに彼女は、笑って俺と別れた。
「……ごめんな」
最後まで出なかった謝罪の言葉が、口からするりとこぼれる。
聞こえてないのを祈る。
一目惚れだった。
ずっと想い続けた。
せめて俺の名前を知ってほしいと、好きでもない女たちと寝てみたりもした。
だから彼女が告白してきたときには、舞い上がった。
他の女と付き合ってたけど、そんなのどうでもよかった。
彼女を手に入れたい。
俺を急かす想いが、身体を重ねさせた。
セフレって言われたときには、本当に驚いた。
俺にとっては全然、そんなつもりなかった。
好きでもない女と付き合ってる俺と彼女が釣り合わないと言われるのが怖かった。
世間的には彼女のポジションにいる女にプロポーズされたとき。
「一生尽くすから結婚してください」
そういうのは男が言うんだろ、と思ったけど、もう抵抗できなかった。
式の日取りも住居も、すでに用意されていた。
婚姻届まで出されていた。
双方の親たちに従うほか、選択肢が見つからなかった。
最低だ、俺。
好きでもない女を幸せにして、
一番好きな女を傷つけた。
とめどなくあふれる涙を、五月時雨が静かに洗い流していった。