第9話 金貨
市場の人混みに紛れ、エルは背の高い男に近づいていった。
通路の端でしゃがみ込んでおり、褪せた鬱金色のローブをまとっている。
若い男で肌は褐色だ。
最初は闇エルフと思ったが、少し違う。
むしろ、自分と似ているような肌の濃さだった。
南大陸のエルフはヒトと混じり合っている者も多いが、こういう肌合いのエルフは見たことがなかった。銀髪は耳にかかる程度。
質素なローブからすると托鉢修道僧だろうか?
エルは金ぴかのローブをまとっているような高僧は嫌いだが、貧しい平民を救済しようとする修道僧たちには敬意を払っていた。
路上で生活していたときに、炊き出しで何度か命を救われたことがある。
エルの気持ちが鈍った。
この若者は悪い人物ではないのかもしれない。
それに聖職者から盗むというのは、基本的に盗賊なら避けるものだ。
それは、ツキを落とす行為だからだ。
どうしようか迷った。
若者は鞄を肩から掛け、無防備に背中で晒している。
いちおう鞄の蓋は紐で結ばれているが、あんなものは一瞬で解ける。
目の前にいる物乞いの少女と喋っているから、いまなら気づかれずに鞄の中身を頂いて、そのまま市場に消えることができそうだ。
簡単すぎるかな。
これじゃ、腕試しにもなりゃしない。
そう思いながら近づいていったエルは、少女の顔を見て足を止めた。
沼人だった。
もしかしたら――探している女の子かもしれない。
驚いたエルは、あたりを見回した。
すぐ隣に、がらくたを並べている店がある。
古い椅子や家具、ひびが入った食器、錆びた農具に武器、使い道の分からないドワーフが作った機械の部品。
エルは木枠に飾られた甲冑の背後に隠れて、少女を観察することにした。
これなら、ほぼ真横から見れる位置になる。
市場の通行人からは、エルが隠れて、少女と若者の様子を覗き込んでいるのは丸見えなのだが、そんなことは気にしていられなかった。
もし本当に探している女の子なら、数年ぶりに偶然見つけたということになる。
あれから三年ぐらい?
もしかしたら奴隷にでもなって、どこかで暮らしているかもしれないと思い、エルは新しい町に着くたびに、微かな期待をもって姉妹を探していたのだった。
エルは息を殺して、甲冑の陰から少女を観察した。
深緑の髪に淡い緑色の肌。
彼女が沼人であるのは間違いない。
よく動く大きな目をしていて、夢中になって若者の耳元で喋り続けている。
若者に微かな嫉妬を感じたが、エルは少女に集中した。
年齢は、下の子と同じぐらいかもしれない。
いや、違うな。
エルの胸に苦い失望が広がる。
姉妹のどちらにも似ていないや――。
彼女たちの面影は日に日に薄れていっていたが、それでも、異教徒の村で出会った姉妹とは別人なのが分かった。
胸に空いた穴からエルの希望が流れ出し、乾いた地面を濡らした。
俺の人生はいっつもこうだ。
宝物が手に入ったと思ったら、ただの幻だったり、すり抜けていってしまう。
気落ちしたエルだったが、別人だとしても物乞いの少女と話したくなった。何か沼人の情報を聞けるかもしれない。
あの若者がいなくなったら、話しかけてみよう。
そう思ったエルだったが、唇を噛んだ。
いや、まずいな。
たぶんカルハースに怒られるだろう。
見知らぬ人間と話すことは、騎士団の情報が漏れる可能性があるから極端と言っていいほど嫌っていた。
掏摸はみんなのためだけど、あの子と話すのは個人的な事情だ。
許されるはずがない。
それでもエルは立ち去ることができず、二人の様子をじっと観察していた。
少女は若者の胸に手を当て、さらに彼の胸元からペンダントを引っ張り出した。
そのデザインを見た瞬間、エルは凍りついた。
立ち獅子に十二の星――。
あれは間違いなくセウ家の紋章だ!
エルは震えだし、指先で触れている甲冑がカチャカチャと鳴り出した。
吐き気すら感じていた。
エルは平民を痛めつける騎士階級は嫌いだが、そのなかでも南大陸に侵攻してきたタタリオン家を嫌っていた。そして、その軍団のなかでも最も活躍しているセウ伯爵と、伯爵が率いるセウ家の騎士たちが一番嫌いで、かつ恐れていた。
ただ、これはエルに限った反応ではなく、タタリオン家に敵対する周辺の領主や領民たちに共通のものではあった。
エルは自分を叱咤した。
セウ家の紋章のペンダントを首に掛けているということは、あの若者は敵なんだ。
それなのに腰が引けてどうする。
歯を食いしばって立っているエルの視線の先では、少女が愛おしむように金細工のペンダントに触れている。
エルは叫びたかった。
そんなことしちゃだめなんだよ!
騙されてるんだ!
その男に関わったら、きっと悪いことが起るんだから!
無言で観察しているエルがずいぶん長く感じたあと、少女は気が済んだのか、ペンダントを若者のローブの胸の内にそっと戻した。
若者は背中の鞄から硬貨を取り出すと、少女の前の皿に置いた。
皿から向日葵の花を摘まむと、彼女の髪に差す。
恥ずかしそうに顔を赤らめた少女の頬に、若者は軽く指先で触れると立ち上がり、市場の雑踏に消えていった。
少女はそんな若者を、いつまで目で追い続けている。
どうしようかエルは迷っていた。
若者を追いかけなきゃ。
あいつから擦ると決めたんだから。
その一方で、少女に忠告する責任も感じていた。
あいつは絶対に悪い奴なんだ。
セウ家に仕えている連中は、みんな盗人なんだから。
エルのおかしなところは、二面性があるということである。
嫌いな相手から自分が盗むことは何とも思っていないのに、大切な相手には自分が正しい人間であると思われたいのだった。
エルの感情には中間というものがなくて、対象を憎むか、愛するか、そのどちらかに激しく傾きがちだった。
そして、エルの過去の経験のせいなのか、大切だと感じる相手には何かしてあげなくてはいけない、償わなくてはいけない――そういう強迫観念に近いところまで感じるようになるので、いまやエルは少女に真実を伝えなくてはという気持ちが、耐えがたいほどまでに心の中で高まっていた。
エルは甲冑から姿を現した。
もうカルハースにどう思われようが構わなかった。
少なくとも、彼女は物乞いの少女だ。
いつもカルハースたちが警戒しているような、皇帝側の人間じゃない。
エルは少女の前に立った。
彼女は目を閉じて、何かを祈っているようだった。
少女の服はぼろぼろで、彼女自身も薄汚れているが、内面からにじみだす否定できない清らかさをエルは感じた。
でも、俺は汚れている。
罪深いんだ。
そう感じながらエルは、慄きながらも彼女に触れんばかりに身を寄せ、耳を澄まして彼女の囁くような声を聞き取ろうとした。
はっきりとは分からない。
異教徒の村で、村人たちが繰り返していた祈りにも似ている。
エルは少女から体を離した。
ドキドキしている。
彼女を救うためにも、真実を告げなくてはならない。
あの男に近づいちゃいけないよ――。
エルの脳裏に故郷での記憶がよみがえる。
セウ家の騎士や兵士たちからは、いつも濃厚な死の匂いが漂っていた。
目を落とすと、皿の上にはたくさんの銅貨や食べ物、花などが置かれていた。
エルは驚く。
朝からだけで、これだけ施しはふつう考えられない。
どれだけの市民がイグマスに住んでいるのか知らないが、それにしたって、ただの物乞いがこんなに貰えるはずがないのだ。
どうしてなんだろう?
彼女は目が見えるし、耳も聞こえるし、話もできる。
奇形というわけでもない。
できるだけ施しを稼ぐために、わざと子供を不具にする親もいるというのに。
皿の上には、鈍く光るものがあった。
エルは目を疑う。
金貨?
まさか、そんなはずがない。
物乞いに金貨をあげる馬鹿はいない。
金貨一枚で、銅貨千枚ぐらいの価値があるのだ。
仮に与えたところで、物乞いには使い道がないか、盗んだと疑われるだけだろう。
エルは彼女の前でしゃがみ込み、硬貨を手に取った。
数枚の銅貨の上にあった。
ということは、さっきの若者が与えたということ?
エルは歪んだ円形をした硬貨を手に取ると、ためつすがめつ確かめた。皇帝の刻印は潰れかけているが、確かに金貨のようだった。
あの貧しそうな格好をした修道僧が?
わけが分からない。
僧侶なんかが、金貨を持ち歩くわけないじゃん。
まだ信じることができず、エルは金貨を噛んでみた。
確かに柔らかい。
贋金ではないようだった。
じゃあ本当に、あの若者はこの子に金貨をあげたんだ――そう思ってエルが顔を上げると、少女が驚いたようにエルを見つめていた。
口に金貨を咥えたまま、エルは慌てて立ち上がった。
少女は哀しそうな表情をしている。
俺は盗人じゃない!
そう説明しないといけないとエルは思った。
君に本当のことを――とエルが説明しようとすると、口から落ちた金貨が、皿の上でチャリンと音を立てた。
「お、俺は……」
だがエルの言葉は、喉の奥に張り付いてしまう。
彼女には届かない。
俺は悪くないんだ。
俺のせいじゃないんだってば――。
少女にじっと見つめられ、エルは真っ赤になった。
頭は真っ白になり、追いつめられたように後ずさり、通行人にぶつかり、くるりと少女に背を向けたエルは、市場の雑踏の中に逃げ込んだ。




