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綺麗な首飾り|孤独なエルフの貴公子と、居場所のない盗賊の少年が、深くつながる物語  作者: 神代紫音
第一章  ヤヌス神殿の市場|朝|エルが復讐を果たすために盗みをはたらく
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第8話 掏摸

ヤヌス像の肩に腰かけ、青空を見上げていた少年エルは、誰かの視線を感じた。


視線を下に落とす。

距離があるので顔までは分からないが、背の高い男だ。

大勢の買い物客が行き来する市場の狭い通りで、ひとりだけ立ち止まり、自分のほうを見上げている。


何なんだよ、あいつは。

ちょっとヤヌスを眺めてるって感じじゃない。

腕を組んで、ぜんぜん動かないじゃん。


込み上げてくる不安を感じ、その気持ちをエルは押し殺した。

弱気になるな。

きっと上手くいくはず。

あの変な男がこっちを見ているのは、ただの偶然だ。


だが、上から見下ろしているはずのエルのほうが不安になるのだった。胸のうちを見透かされているような気がする。

自分の考えてることなんて、分かるはずがないのに。


夏の太陽を浴びて、額から汗がしたたり落ち、エルは汗を拭った。


エルは十五歳のヒトの少年で、年の割には小柄だった。

南大陸の生まれで、巻き毛の黒髪に浅黒い肌をしていて、可愛い顔をしているから、よく少女と間違われた。

ぱっちりとした目だが視線は鋭い。

いつもは口元には不敵そうな笑みを浮かべている。


そのエルが、謎の男の視線を感じたことで自信を無くしていた。

自分の立場の危うさを再確認させられている。

それは、足を投げ出してヤヌスの肩に座っていることではない。運動神経が抜群なエルにとって、これぐらいの高さは何でもなかった。


危うさを感じているのは、自分の計画だった。


※ ※ ※


エルは、この市場で掏摸を働くつもりだった。

だが、久しぶりだった。

仲間のリーダーのカルハースに禁止されて以来、数か月ぶりということになる。

しかし腕は鈍っていないはず。

昔は三年近く、それだけで食ってきたのだから。


掏摸を働くのは金のためではない。

自分の価値を証明するため、エルの居場所を確保するためだった。


イグマスは大都市だ。

カモは大勢いる。べつにどこで掏っても良かった。

だが市場がいちばん安全だ。大勢の買い物客が出入りするから、余所者がいても誰にも気づかれない。

幾つかある市場の中でも、ヤヌス神殿の市場を選んだのは、エルなりに今日という日を区切りにして、流れを変えたかったからだ。


何の流れだろう?

自分でもよく分からない。

いまの仕事も、暮らしにも不満はない。


ただ自分の中で引っかかるものがあって、そのもやもやが消えない。それを解消したかっただけなのかもしれない。


それで、運を引き寄せようと思って、ヤヌスがいるこの市場を選んだ。

新しい扉が開きそうだから。

これまでとは違う未来に繋がっていそうだったから。


それで、丘の中腹にあるヤヌスの大理石像によじ登った。

神殿を訪れた参拝者が驚いていたが、そんなことはどうでもよかった。市場なら人ごみに紛れることができるが、逆に掏摸がばれたときが大変だ。

逃げられず、すぐに捕まってしまう。

だから、確実な逃走経路を把握していないといけない。


エルは市場を見下ろした。


いくつもの列になって野菜を売っている露天商、食事を提供している屋台、職人の作業場、遠い属州からやってきた商人の天幕など並んでいる。人が集まっている奥の空き地では、芝居のようなものが催されていた。


市場の四方を背の高い集合住宅が囲んでいる。貧しい市民が住んでいそうな質の悪い、いまにも崩れてきそうな建物だ。建物のあいだの路地は狭く、薄暗くて、まるで迷路のようだった。

路地まで逃げ込めば、足の速いエルなら振り切れる自信があった。


さらに視線を上げると、素焼き煉瓦の屋根が続いていて、灰色の壁で終わる。旧市街と新市街を分ける、イグマスの高い城壁だ。

城壁の上を、見張りの衛兵が歩いているのが見える。豆粒ほどの大きさ。


西へ視線を向けると、背骨山脈の青い山並みが霞んで見える。

エルたちは今朝、太陽が昇る前の暗いうちから、あの山並みの奥深くにある隠れ家を出発して、昼前にイグマスに到着した。


旧市街にいる商人に軍馬を売るためだった。商人に売るにはもったいないような馬だったが、背に腹は代えられない。


大きな屋敷の前に着くと、騎士のダルトンから、お前は馬の取引に立ち会う必要はない、イグマスの町を歩き回ってろと告げられた。そんなことはまったく予想していなかったエルは「なんで俺だけ!」と食ってかかった。


ダルトンはエルの抗議など意に介さず、

「お前はイグマスに来たのは初めてだろう。これから何回か来ることになるかもしれないからな、よく土地勘を掴んでおけ」

と命じた。


エルは、

「だったらダマリも同じだろ。何でダマリは違うんだよ!」

と言って、隣に立っているダマリを見上げた。


ダマリは巨体のオークである。騎士団で見習いなのはエルと一緒だが、ダマリは馬の扱いが抜群に上手い。今回売りにかける軍馬の怪我を治したのもダマリだった。ダマリは、エルの抗議に我関せずといった様子で、馬に話しかけていた。


「お前は、ほんと馬鹿だなあ」

もうひとりの騎士のブシェルが呆れた顔をした。

「ダマリを町で歩かせてみろ、目立ち過ぎるに決まってるだろ。馬にとってもダマリが一緒のほうが落ち着く。それに、これは俺たちが決めたことじゃない。出る前にカルハースに言われたんだ」


エルは口を尖らせたが、カルハースの名前を出されると何も言えなくなった。くるりと背を向け、〈陰の街道〉に向けて歩き出した。


背後からダルトンの、

「昼過ぎには、馬を預けた宿屋に戻ってこいよ!」

という声が聞こえた。


むしゃくしゃした気持ちでエルは南大門をくぐった。落ち着いた旧市街より、様々な種族の市民や旅人がいる新市街のほうが活気があって好きだった。


ブシェルの言ったことが、もっともなのは分かっていた。

あの馬に、ダマリは数か月つきっきりだった。

それに比べれば、エルは馬に乗るのは上手くても、馬の世話に関しては半人前なのだ。たいして役に立たない。


ただ、それは口実じゃないかという気もする。

自分の喧嘩っ早い性格を心配して、取引から遠ざけたんじゃないのか?


それも否定できない。

エルは子供の頃から偉そうにしている連中が嫌いだった。

ふんぞり返っている貴族や騎士、金にものを言わせる商人たち、魔法の力を独占する魔術師たち、その誰もが気に入らない。


いつもの山や森の中なら、そんな連中はいないから問題ないのだが、大きな町で目にすると苛々してくる。


それで、掏摸を思いついた。

名案だと思った。

仲間が経済的に苦しいのは知っている。

気位の高いカルハースたちは口にはしないが、絶対にそうに決まってる。

そこで俺が金を渡したらどうなる?

みんな涙を流して、俺に感謝することだろう――。


まあ――そんなことが起きないのは分かってるけど、感謝されるのは間違いない。それに、俺がちゃんと役に立つってことも。


それで、エルはヤヌス神殿の市場に向かったのだった。


掏摸を悪いことだとは思っていない。

頭と腕を使った、一種の芸術のようなものだと思っている。

それにエルは、貧乏人から盗むつもりはなかった。金に困っていないような人間だけを狙うつもりだった。


それに――、

とエルの目がさらに鋭くなる。

ここにいる連中は、俺たちを痛めつけて呑気に暮らしてきた連中なんだ。

少しぐらい取り返したって罰は当たらないだろう。


エルの生まれ故郷である南大陸は〈海峡〉を渡って侵略を繰り返すタタリオン軍によって、長いあいだ滅茶苦茶にされてきた。それを思い出すと腸が煮えくり返るのだが、エルは冷静になるように努めた。盗むには落ち着きが肝心だ。


待ち合わせまで時間がない。

それに、カルハースに禁じられたことをしようとするのだ。

絶対に失敗してはならない。


エルの掏摸に関する心配は、腕が鈍っていることではなかった。

いいカモを見つけられるかどうかだ。

そっちのほうがずっと難しい。

危険を冒しても、小銭しか持っていないような相手だったら意味がない。

それに、人は見かけによらないものだ。派手な格好をしている若者が貧乏で、目立たない貧相な老人が大金持ちってことはざらにある。

それを的確に、素早く見抜く必要がある。


前は先生がいたから良かったが、今回はひとりで、それも初めての町なのだ。


また不安を感じ始めたエルは、ポケットから干した棗椰子を手に取った。口にすると粘り気のある濃厚な甘さが口いっぱいに広がる。

これは市場から盗んだものだ。

もしかしたら、南大陸からやってきた商人だったかもしれない。


エルの脳裏に故郷の青い海と白い砂浜と、そこに生えている椰子の木の風景が浮かんだ。そして、あの人と並んで夕日が沈むのを――。


胸が締め付けられたエルは、思い出を振り払った。

忘れろ。

忘れると誓ったんじゃないか!


※ ※ ※


エルが市場に視線を戻すと、あの変な男がまだ自分を見ていた。

また嫌な気分になる。


なんで、お前はそんな高いところに座っていられるんだ?

そう男に咎められているような気がする。

お前みたいな人間は、地べたでも這いずり回っているほうがお似合いだ――。


市場の男が急に振り返って背を向けたので、エルはほっとした。

あんな奴、この世界からいなくなればいいのに!


そこでエルはハッと思いついた。

またまた名案だ!


あの男から擦ればいい。

掏摸の勘を思い出すのにも、ちょうどいいぐらいだろう。

上手くいけば、この嫌な気持ちも晴れるはず!


エルはヤヌスが掴んでいる鍵へ顔を向けた。

なぜか、すべてがこれで上手くいくような気がしてきた。

やっと俺の扉が開くんだ――。


エルは、空に向けて棗椰子の種をプッと吐き出すと、するすると猿のようにヤヌスの肩から降り、市場に向けて駆けていった。


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