第7話 市場2
イオアンが探していたのは、ニナという少女だった。
彼女はイグマスに大勢いる名もなき物乞いの一人に過ぎなかったが、ときどき預言めいたことを口にして、尋ねた人を驚かせることがあった。
とはいえ、その能力を知っているのはごく一部の人間だけで、あまり彼女も人には知られたくはないようだった。
イオアンも、彼女がどこから来て、どこで夜を過ごしているか知らない。
ただ、彼女はよく人から相談される(というより愚痴や心配事を一方的に聞かされる)ことが多いせいか町の噂に詳しく、市民の生活に疎いイオアンはそういうことを調べるのにニナを使っていた。
いわばニナは、イオアンだけの密偵のようなものだった。
ブッケルムのことを話せば、ニナは何か教えてくれるはずだ。
少なくとも、私の気持ちは晴れるだろう。
イオアンはヤヌスの彫像を目指して歩いた。
その近くの、がらくたを売っている店と古着屋のあいだにいるはずだった。
ニナがいた。
市場の人混みを通して、古い絨毯を敷き、胡坐をかいている彼女が見える。
イオアンはニナの前で屈み込んだ。
彼女はいつものように少し上を向いて目を閉じ、何かを呟いている。
賑やかな雑踏のせいで、何を口にしているか聞き取れなかったが、おそらくニナが信じているダゴン教の祈りではないかとイオアンは想像していた。
ニナは沼人と呼ばれる人種だ。
帝国に昔から住んでいた者たちで、後から帝国にやって来たヒトやエルフに土地を追われ、いまでは海辺や沼地で船の上で暮らしている。
だからニナのように、イグマスのような大きな町で、ひとりで物乞いをしている沼人は珍しかった。
何か事情があるのだろうが、それをニナの口から聞いたことはない。
何歳かも分からない。
たぶん、十二歳ぐらいだろう。
ニナは沼人特有の淡い黄緑色の肌をしていた。
小さくて痩せている。
ぼろぼろの穴が開いたチュニックは大きすぎて、ずれた襟口からは細い肩がむきだしになっていた。
丸顔で鼻は低く、目が大きい。
ボサボサの濃い緑色の髪をおかっぱにしている。
祈りを上げているような表情のニナの口元は、微かに微笑んでいる。
ダゴン教は多くの属州で禁じられていた。
帝国で主に信じられているオリュンポスの神々とは、あまりに異質だからだ。
沼人たちが信じているダゴンという神は、蛸のような姿だという。
信者たちも、魚のような格好をして集会をするらしい。
タタリオン領でもダゴン教の集会は禁じられており、そのせいでニナもいつも囁くような声で祈りを上げているのかもしれない。
イオアンがニナの頬にそっと手を触れると、彼女が目を開いた。目の前にいるのが誰か気がつくと、ニナの顔いっぱいに笑顔が広がる。
「あのね……」
とニナは前置きなしに、ものすごい勢いで、最近彼女が見たこと、町で聞いた噂を一方的にイオアンに話し始めた。
いつもこうなのだ。
イオアンは、ニナの前に置かれた陶器の皿に目を落とした。
それなりの小銭だったりパンが置かれている。
つまり、イオアンが現れる前に、すでに何人かがニナに相談事をしたり悩みを打ち明けていたのだろう。
普通の物乞いなら、もっと稼ぐのに苦労するはずだ。
近頃では路上の物乞いは増え続けている。まわりの属州から豊かなイグマスに貧しい者たちが押し寄せてきているからだ。
ニナは、彼女の前に現れた者の話をじっと聞いていて、最後に一言二言何かを口にする。それが預言めいた言葉のこともあるし、ただの感想だけのこともある。とにかく彼女に話すことで、心が軽くなる者はたくさんいるということだ。
だからなんだろうとイオアンは思う。
いつも聞いてばかりのニナは、自分の気持ちを話す機会がない。
だからイオアンには、これほど楽しそうにいつまでも喋り続けるのだろうと。
イオアンは、ニナの話を聞くのは嫌ではない。
伯爵家の嫡男として生まれ、病弱だったために過保護に育てられてきたイオアンは、ニナが教えてくれる庶民の生活のひとつひとつが驚きだった。
これは、ニナの力も大きいとイオアンは思っている。
ニナは好奇心旺盛で、ただの物乞いのはずなのに様々な階層の市民と顔馴染みで、偏見もなく、ありのままを語ってくれた。
観察力も鋭い。
路上で生活しているせいか、本ばかり読んでいるイオアンとは、目の付けどころが違った。なるほどと唸らされることも多かった。
逆にイオアンは(ブッケルムのときとは違って)ニナに自分の深い気持ちを語ることはほとんどない。
伯爵家の長男であるという正体も明かしてはいない。
それでいいのだと思っている。
いまの関係が壊れるのが嫌だったし、ニナも気にしていないようだった。
ニナが嘘をつくことはなかった。
楽しければ笑うし、悲しいことを話していれば涙をこぼす。
白亜宮の宮廷人たちとは大違いだ。人の気持ちを感じ取るのが苦手なイオアンは、彼らが何を考えているのかよく分からない。口にしている言葉と、やっている行動がバラバラで、イオアンはよく混乱した。
だから、裏表のないニナと話していると気が安らぐのだ。
自分に娘がいたらこんな感じなんだろうかと、イオアンは思ったりする。
ニナは一日のことを一生懸命、親に報告する子供のようだ。
でも、子供は作りたくないとも思う。
自分のような人間の血は残さないほうが、世の中のためにはいいと思うからだ。
こんなことを考えているイオアンは、ニナの話をよく聞いていなかった。
すでに何度も、ニナから聞いていた話だからだ。
〈暁の盗賊団〉と呼ばれる、数年前からイグマスを騒がしている盗賊たちで、大広間でアルケタが伯爵に説明していた者たちのことである。
イグマスの権力者たちを馬鹿にするような〈暁の盗賊団〉は、貧しい市民たちのあいだでは絶大な人気があり、総督府もその対応に苦慮していた。ニナもことあるごとに彼らの活躍を、イオアンに語ってみせるのだった。
ニナの口元に耳を近づけて話を聞いていたイオアンは、ようやく話が終わると、彼女から体を離した。
彼女は満足そうな笑みを浮かべている。
イオアンは、ブッケルムの話を切り出すかをためらった。もちろん話すつもりだったが、伯爵に話しかけるのとは別な意味で決心が必要だった。
馬のことなど何も知らないニナに尋ねるということは、すなわち彼女の預言する能力を期待しているということだ。
そこで、どんな言葉が与えられたとしても、それを受け入れなければならない。
自分の望んだ答えではなかったからといって拒絶することはできないのだ。神聖なる力を軽んじてはならないのだから。
神の意志に従う決心がつくと、イオアンはニナにブッケルムのことを話した。内容は先程の太った肉屋に話したことと同じである。
イオアンの簡潔な説明にじっと耳を傾けていたニナは、イオアンの話が終わると、しばらく目を閉じていた。
薄目を開けたニナは、
「その、お馬さんを助けるヒントは……」
と何かに耳を澄ませているような表情で語りだした。
イオアンは身を乗り出して、囁くようなニナの言葉に集中した。ニナはゆっくりと手を伸ばすと、イオアンの背後の一点を指さした。
「……あそこにあると思うの」
驚いたイオアンは、背後を振り返った。
後ろには、丘の中腹にあるヤヌス神殿とヤヌスの大理石像しか見えなかった。
もう一度ニナを見たが、やはり大きな彫像を指さしている。
その意味が分からず立ち上がったイオアンは、市場の人混みの頭越しに、目を凝らしてヤヌス像を眺めた。
あのヤヌスが、ブッケルムに何か関係があるのか?
大理石のヤヌスは、ゆったりとしたトガをまとっており、台座に座っているが、それでも十メートルぐらいの高さがある。
境界を司り、入り口の守り神でもあるヤヌスは、右手には扉を開けるための鍵、左手には招かざる者を追い払うための杖を携えていた。
イオアンのほうを向いている顔は希望に満ちた若者で、後頭部の神殿を向いている方の顔は賢そうな老人である。
これはつまり、未来と過去を象徴しているのだ。
このヤヌスの肩には、どうやってそこまで登ったのか、子供らしい不届き者が腰かけて市場を眺めていた。イオアンは腕を組むと、遠くの大理石像を眺めながら、しばらくニナが指さした意味を考えていた。
ブッケルムの未来と過去?
それでは、何の意味にも繋がらない。
ヤヌスには始まりや出発、入口という意味がある。
しかし、ブッケルムはいまにも死にそうなのだ。始まりどころか、もう明日にでも終わってしまうかもしれない。
さらに深読みすれば、ヤヌスは物事の二面性も象徴している。
表と裏、光と闇、生と死、聖と俗、男と女、内側と外側、勝利と敗北、虚偽と真実――だがこれでは、何でも当てはまってしまう。
ヤヌスの何が、ブッケルムを救うヒントになるというのだろうか?
うーんと、イオアンが首をひねっていると、
「イオアン様……」
というニナの声が聞こえ、振り返ると、ニナが目をきらきらさせていた。
「ねえ、あれを見せてほしいの」




