第6話 市場1
イオアンはセウ家の屋敷から出た。
では、この物語の舞台について説明しておこう。
〈帝国〉は世界の果てにあった。
そこでは古い神々が世界を創成し、新しい神々が奪い取ったと信じられている。
皇帝が支配する帝国は、三日月大陸という広大な大陸と、南大陸、死大陸という比較的小さな大陸とに分かれていた。
三日月大陸の西方に、タタリオン公爵が統治する五つの帝国属州がある。
そのうちの一つがスウォン属州である。
そのスウォンの中心が領都イグマスであり、総督府が置かれているタタリオン家の白亜宮があり、十万人近い市民たちが暮らしていた。
イオアンが住むセウ家の屋敷は、イグマスをぐるりと囲む城壁の中にある。
重要な建物があり、高貴な人物や金持ちが暮らしている高い城壁で囲まれたこの地区は、市民から「旧市街」と呼ばれていた。
いっぽう、イオアンが目指す市場は城壁の外にあった。
イグマスの旧市街に収まりきらない市民たちが、城壁の外に次々に家を建て始め、二百年たった現在、市外の町や村も飲み込んでしまい、旧市街の南北にどこまでもだらしなく広がっている。この地区のことを「新市街」という。
南北の新市街に挟まれた旧市街を突っ切って結んでいるのが〈陰の街道〉と呼ばれる大通りである。これは王朝時代に敷設された軍事道路で、二台の馬車が楽にすれ違えるほどの幅があり、両側には歩道もある。
この〈陰の街道〉をイオアンは歩いていた。
巨大都市であるイグマスには市場がいくつかあるが、イオアンは、ヤヌス神殿の前で催されている市場を目指していた。
ヤヌスというのは境界を司る神である。
そこから門の守り神となり、イグマスを訪れる旅人を迎え入れる目的で、城壁の南側の街道沿いに神殿が建てられていた。
その前の広場で、大きな市場が開かれているのである。
※ ※ ※
市場に足を踏み入れたイオアンは、その溢れかえるような喧騒に圧倒されないように自分に言い聞かせた。
これから、伯爵の考えを覆せるだけの材料を見つけるのだ。
それは現実的なものでなくてはならない。そして、伯爵が耳を傾けるような人物からの情報ならば、なお好ましい。
ここで見つからなければ、ますますブッケルムは危険な状態になるだろう。
イオアンの記憶では、この市場に家畜を扱っている区画があったはずだった。市場に到着したのは第三時(午前9時)頃で、すでに朝の野菜を売り切った近隣の農夫たちは帰り支度を始めている。
独特な臭いを頼りに、混み合った市場の通りをかき分けていくと、コッコッコッという甲高い鳴き声が聞こえてきた。
店の前では、柳で編んだ籠に入れられた鶏が山積みにされ、十歳ぐらいの女の子が産みたての卵を売っていた。
どこからか逃げ出したのか、そのまわりを三羽の鵞鳥が闊歩している。
さらに奥へ進むと、大きな天幕の前で、汚れた前掛けをして太った男が、口笛を吹きながら手際よく鶏を捌いていた。
面識のない人物に接触するのが苦手なイオアンだったが、この男は人の良さそうな感じがしたので思い切って声をかけてみた。
「この市場で、馬を売れる場所を探しているのだが……」
男が作業台の手を止め、顔を上げた。
「はて、どこかの僧侶様で……?」
これはイオアンの鬱金色のローブを見て判断したのだろう。イオアンもそう勘違いされていることに慣れている。
「いや、私はセウ家の屋敷の者なのだが……」
自分から、伯爵家の嫡男と名乗ることは滅多になかった。
市民たちのなかには卑屈なほどへりくだる者がいたり、逆に敵意を露わにする者もいる。いずれにせよ対等な会話はできない。
よって、自分の正体はいつも曖昧な説明にとどめていた。
太った男の目がきらりと光った。
「伯爵家の方ですか……」
何かうまい話にありつけるとでも思ったのかもしれない。
「この市場じゃ馬、牛、羊は扱っちゃいません。豚もあっしが潰したのを売ってるぐらいでして。でも知り合いなら紹介できますよ」
「どこで売ってるんだ?」
「イグマスの外れの市場ですかね。歩いたら一刻ほどかかります」
イオアンは青空を見上げた。
朝から七月の太陽がぎらぎらと照りつけている。
今日も暑くなりそうだった。
そんななか、体力もないのに、木陰もない街道を歩くことを考えるだけでもうんざりした。途中で倒れてしまいそうだった。
このまま屋敷に帰るべきなのか?
戻って、ブッケルムと残された時間を過ごすほうが、まだ有意義かもしれない。
「どんな馬をお売りで?」
イオアンの表情を見て察したのか、引き留めるように男が慌てて尋ねた。
「あっしでも、多少のことなら分かりますよ!」
しかし、この男は本職ではないのだ。
たとえ助言を得たところで、伯爵が信用するだろうか?
あまり意味はないのではないかと疑いながらも、イオアンはブッケルムの状態をためらいがちに説明した。
小さな〈魔の馬〉で、この数か月、餌も食べずに水だけで生きている。原因は馬丁にも馬医者にも分からないのだが、環境を変えれば元気になるかもしれない。農夫でも職人でも、誰でもいいから買い取ってくれる者はいないだろうか?
イオアンの話を聞いているうちに、男の表情はしだいに不信の色を増していった。
「お客様、あっしをからかっていらっしゃるんで? そんな仔馬みたいな〈魔の馬〉は聞いたことがねえ」
「私もそう思うのだが、伯爵様だけは〈魔の馬〉だと言い張っているんだ」
「あ、ちょっと待って下さいよ……」
男は思い出すような表情になった。
「セウ伯爵様ですよね? 確か数年前〈首なし騎士団〉の男から、たいそうな金額で買い取ったっていうのは、その馬のことですかい?」
「たぶん、その馬だ」
「噂を聞かないと思ったら、そんなことになってたんですねえ。伯爵様ですら、あいつらには騙されちまったってわけだ。わははは」
愉快そうに笑いだした男は、イオアンの真面目な顔を見て、ハッと口を押えた。
「おっといけねえ、馬鹿にしてるわけじゃないですよ! そのあと、伯爵様は騎士団との取引を禁じましたよね? 俺もいい気味だと思ってたんですよ。ああいう得体の知れない奴らには、絶対に関わらないのが一番ですからね!」
ずいぶんと調子のいい男だ。ややムッとしながらイオアンが尋ねた。
「それで、どれぐらいの金額で売れると思う?」
「いやあ、難しいと思うなあ」
「だいたいの金額でいいから教えてくれ」
「そもそも……買う人間すらいないと思いますよ。だって死にかけてて、原因も分からないんですよね? まあ馬肉でも食うような奴らに売るんだったら……」
イオアンの険しい表情を見て、男は口をつぐんだ。
「もちろん冗談ですって!」
男の回答に、イオアンはショックを受けていた。
売ることすらできないのか――。
「もし、本当に〈魔の馬〉だったらどうだ? 買う人間はいると思うか?」
「それも、どうかなあ」
太った男はもじゃもじゃの髪を掻きむしった。
「そんな小さい〈魔の馬〉、誰か欲しがりますかね……あ、ドワーフの戦士ならちょうどいい高さなのか! でも、その原因不明の病気を治さない限り、売り物にはならないでしょうねえ」
しかし、屋敷の馬丁も馬医者もブッケルムの状態には匙を投げたのだ。
「誰か治せそうな者を知らないか」
「そりゃあ、〈首なし騎士団〉の連中ですよ!」
「なぜだ」
「なぜって〈魔の馬〉を育てられるのは、あいつらぐらいですから。売りつけた連中に訊くのが一番です。まあ、探し出すのは大変ですがね!」
軽い感じで助言した男の言葉に、
「そうだろうな……」
とイオアンは真剣な表情で、口に手を当てて考え込んだ。
イオアンは、ブッケルムが病気になって以来、密かに情報を集めていたが、途中で調査は行き詰まっていた。
だが、確かに肉屋の言う通り、その〈首なし騎士団〉の男を見つけて話を聞くことができさえすれば、ブッケルムが本当に〈魔の馬〉なのか、そして、なぜ絶食しているのか、その答えが分かるかもしれない。
とはいえ〈首なし騎士団〉というのは謎めいた集団で、馬の大群を引き連れて帝国の辺境を放浪している集団だと言われている。表立って皇帝に歯向かうことはないが、町や村には近寄らず、帝国の秩序の外で生きているのだ。
非常に用心深い者たちで、実態を知る者はほとんどいない。そんな彼らを市民たちも半ば蔑み、半ば恐れていた。
つまり――、
ブッケルムを売りつけた〈首なし騎士団〉の男を探し出すのは、到底無理だということだ。おそらくは今頃、別の属州でも放浪していることだろう。
結局、出口は見つからない。
このままブッケルムが痩せ衰えていくのを見守るしかないのか。
強い徒労感に襲われたイオアンは、地面にへたり込みそうになり、思わず膝に手をついて体を支えた。
そんなイオアンを見ていた太った男が、心配そうに声をかけた。
「……お客さん、大丈夫ですかい?」
イオアンは顔を上げた。
あと残っている手段と言えば、神頼みぐらいか。
だが、もしかしたら……それが一番の近道なのかもしれない。自分は預言の力をもつ少女を知っているのだから。
しかし、伯爵は嫌がるだろう。
父上は魔術師の関与さえ嫌がる人だ。神官たちの祈りなど信じていないし、ましてや、市井の名もない少女の言葉など受け入れるはずがない。
だが、あの子が役に立つ助言を授けてくれれば、私が試すことができる。
何かの薬草かもしれない。
ブッケルムの血筋についてかもしれない。
もしかしたら、呪いを払うような方法でも教えてくれるのかもしれない。
イオアンは背後を振り返った。
市場の向こうには、ヤヌスの巨大な大理石像が見える。
どちらにせよ行き詰まっているのだ。
あの子に訊いて、それでも駄目だったら、ブッケルムのことは諦めよう――。
イオアンは深呼吸して気を取り直し、ヤヌスの彫像に向かって歩き始めたが、背後から呼びかける男の声には聞こえない振りをした。
「ちょっとお客さん! せめて鶏肉だけでもーっ!」




