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綺麗な首飾り|孤独なエルフの貴公子と、居場所のない盗賊の少年が、深くつながる物語  作者: 神代紫音
第一章  セウ家の屋敷|深夜~早朝|イオアンが愛馬を救うため伯爵に直訴する
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第5話 大広間2

オウグウス・セウ伯爵。

帝国で最も有名な騎士のひとりであり、セウ家の第九代当主であり、スウォン属州の副総督であり、タタリオン公爵家の軍の総指揮官でもあった。


年齢は六十を超える。

白髪を後ろに撫でつけており、鋭い眼は猛禽のそれを想像させた。

背はそれほど高くはないが、この年齢でも無駄な贅肉はついておらず、いまだに馬を駆って戦場で指揮を執っていた。


長男のイオアンが二十三歳であるにも関わらず、オウグウスが高齢なのは晩婚だったためである。「戦争気違い」とも揶揄される伯爵は、セウ家の当主でありながら一向に結婚する気配がなく、先代の公爵の下でひたすら軍務に励んでいた。必要であれば、養子でも取れば良いとすら考えているようだった。


そのため、見かねた先代の公爵が婚儀をまとめて、強制的に四十を過ぎた伯爵を結婚させたという逸話がある。その後もほとんど屋敷に留まることはなく、仕える相手が現公爵のイシュタルに代わってからも、主家であるタタリオン家には変わらぬ忠誠を誓い、遠征の砂塵の中に常にその身を置いてきた。


つまり、戦争のために生まれてきたような人物である。

いまも一時的にタタリオン家の領都であるイグマスに滞在しているだけで、数日後には遠征のため、再び南大陸に渡る予定だった。


※ ※ ※


パンを噛み続けたまま伯爵は、無言でイオアンを見つめた。

イオアンの心臓は縮み上がっている。


「このままでは持ちません。その、いまのうちにブッケルムは売ったほうが良いのではないでしょうか……」

とイオアンがもごもごと提案した。

「残念ではありますが、軍馬としては不適格だと思われますし……」


伯爵はイオアンの顔を見ながらパンを咀嚼すると、ワインを飲んだ。

「その根拠は?」


「根拠ですか……?」

イオアンは伯爵の言葉に戸惑った。

ブッケルムが騎士を乗せるのを嫌がり、走る気すらないことは、報告を受けている父なら百も承知だと思っていたのだ。


「あの馬が、まもなく死ぬという根拠だ」

と伯爵がずけりと質問したので、仕方なくイオアンもはっきり伝えた。

「この数か月、まともに餌を食べていません。ガリガリに痩せ細っています……いつ死んでもおかしくないと思います」


伯爵は前を向くと、大広間を眺めながら食事を再開した。

「つまり、ひと月前と状況は変わらない。だが、あの馬は生きている。だとしたら心配することなど何もないではないか」


「しかし、それはブッケルムが特別なだけであって……」

「もちろん特別であろう。高い金を払った〈魔の馬〉なのだからな。そう簡単に死なれても困る」

「では、このまま……?」

愕然としたイオアンは、言葉を続けることができなかった。


「あの馬もいずれ食べるようになる。痩せ我慢をしているだけだ。いまは放っておけ。お前もいちいち甘やかすんじゃない」


「それは、そうかもしれませんが……」

伯爵と議論しても、どうせ通じないのは過去の経験からも分かっていた。何か別な方法で説得できないかイオアンは必死に考えた。

「……誰も乗らないのに餌代はかかりますし、世話をする時間を考えれば、誰かに売ったほうが、多少なりとも利益を回収できると思います」


「いまは食べない。餌代などたかが知れている。それに死にそうな馬をいったい誰が買うというのだ? そもそも世話をしているのは、お前だけであろうが」

ひとつずつ根拠を潰していった伯爵が、イオアンへ顔を向けた。

「あの馬が、ルベルマグナの血を引いているのは間違いない。いまはただ己の本性を自覚していないだけだ。時間がかかっているようだが、そういう血は争えないものだ。お前が余計な心配をする必要はない」


イオアンは驚いていた。

ルベルマグナというのは、先代の公爵が乗っていたという伝説的な〈魔の馬〉のことだ。そう語って売りつけた男の話を、やはり父は信じているのだ。


勝手に理想像を作り上げ、勝手に期待し、勝手に失望する。それに押し潰されてブッケルムは死にかけている。それなのに、まだ父上は――。


心の深いところから、灼けつくような怒りの感情が噴出しかけたが、慌ててその気持ちを押さえつけた。この感情を自覚してはいけないことを、本能的にイオアンは悟っていた。


自覚したとき、自分の世界が崩壊する――。


歯を食いしばって、脂汗を流しているイオアンを見て、

「また具合が悪いんじゃないのか?」

と伯爵が尋ねた。

「お前もあの馬の世話をしている暇があるんだったら、その体を休ませろ。今日は休日だから、出仕する必要もないはずだな?」


「ええ」

イオアンは何とか頷いたが、この時点で反論する気力を失っていた。伯爵との会話は他の誰よりも疲れてしまうのだ。

イオアンは味のしないパンを噛むと、ワインで無理やり流し込んだ。


「アルケタは仕事か?」

と伯爵が話を振ると、弟が頷いた。

「盗賊絡みで内務長官から要請がありました。これから出かけます」


「前に話していた〈暁の盗賊団〉の件か」

「たぶん、そうだと思います」

「ギイス伯爵にも困ったものだな、放っておけばよいものを。相手にするから余計に盗賊どもがつけあがるのだ」

「おそらく長官も意地になっているのでしょう。これだけ時間をかけても、手がかりひとつ見つかっていませんから」


「付き合うのは程々にしておけよ、時間の無駄だ」

セウ伯爵は椅子から立ち上がった。

「私はこれから総督府で兵站局との打ち合わせがある。昼には戻るからな」


伯爵は上座から降りて大広間の出口へ向かうと、兵士たちが一斉に頭を下げた。扉が閉まると、再び大広間は賑やかになった。


イオアンも緊張を解いたが、気持ちは暗いままだった。


結局、売却の提案は却下されてしまった。

ブッケルムは伯爵の所有物だ。勝手に売り払うことなど絶対に許されない。だとしたら、どうしたらいい?

このまま死んでいくのを見守ることしかできないのか?

冷めたスープを見つめながら、イオアンがそんなことを考えていると、


「兄上……」

とアルケタが話しかけてきた。

「父上の意見はもっともだけどさ、市場で話を聞いてみたら?」


「市場? 誰に聞くんだ?」

「家畜市場に行けば、誰か詳しい人間がいるんじゃないかな。ほら、屋敷にいるのは軍馬ばかりだろ。農場で働く馬だといろいろ違うかもしれない」


そうか、そうかもしれない。

イオアンの表情が少し明るくなった。

馬医者を除けば、ブッケルムを見てきたのは屋敷の同じ人間ばかりだ。違う人間が見たら、何か見落としていることもあるだろう。


アルケタが席から立ち上がると、イオアンが尋ねた。

「もう行くのか?」

「ああ、さっきの件でね。さっさと終わらせて、俺も昼までに戻りたい」


アルケタが大広間から出ると、すでに少なくなっていた残りの家臣たちも、アルケタに従って全員がいなくなった。


がらんとした大広間に残っているのはイオアンと、かちゃかちゃと音を立てながら後片付けをしている使用人たちだけである。固いパンをシチューに浸しながら、イオアンは弟のことを考えていた。


アルケタは十九歳でありながら、すでにイグマスの夜警隊の総指揮官だ。


本来、夜警隊というのは、夜間の市内の巡察と消防を担う部隊だが、アルケタが指揮を執るようになってからは、職務を昼間まで延長し、広大な市内の治安も維持するようになっていた。


アルケタは市民たちから感謝されている。

気さくで人懐っこい弟は、同じ種族のエルフだけでなく、ヒト、ドワーフ、オークからも人気がある。


だが、妬むような気持ちはない。

当然だと思っている。

生まれる順番が逆だったら良かったのだ。

アルケタなら、父の跡を継いでもきっと上手くやれるだろう。


これまでも何度も考えてきたことだが、これ以上考えると気が滅入ってくるので、イオアンは席を立つことにした。


休んでいろと命じられたが、アルケタの言う通りだ。市場に行けば、何か有益な情報があるかもしれない。だが父上から、これ以上心配するなと言われたのに、まだ行動しようとすれば……。


それを父上に知られたら、今度こそ許されないだろう。


イオアンにしてみれば、神の言葉に逆らうようなものだ。

父親のオウグウスは、当主であるセウ家ではもちろん、タタリオン家の家臣のなかでも絶対的な存在だった。

イオアン自身、誇らしい気持ちと怖れるような気持ちが入り混じっている。絶対に超えることのできないイグマスの城壁のように高い壁だった。


その偉大なる父の言葉を疑い、隠れて独自の行動を取ることは、罪を犯しているような感じがした。いずれ天罰にでも当たってもおかしくない。


神を裏切ることは、ひたすらに恐ろしい。


だが、諦めよう。

そうイオアンは覚悟を決めた。

それを怖がって、ブッケルムが死ぬようなことがあれば、自分自身を許せなくなる。市場に行って話を聞くだけなんだ。

本当に有益な情報ならば、父上だって納得してくれるだろう。


それに、あの子もいるしな――。

微笑したイオアンは、大広間を出ると市場に向かうことにした。


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