第4話 大広間1
大広間の前に到着すると、イオアンは壁に向かいながら、父親であるセウ伯爵にどう伝えるべきか復唱し始めた。
ただお願いするだけでは駄目だ。
父上の機嫌を損ねるだけで終わってしまう。
ブッケルムがどのような状態で、いま何が必要なのか、簡潔に伝える必要がある。要領の得ない報告で、家臣が叱責されているのは何度も見たことがあった。
扉が開き、食事を終えた三人の兵士が出てきた。
壁に向かって、ぶつぶつと独り言を言っているイオアンを見ると、顔を見合わせて気の毒そうな表情で首を振り、そのまま通路を歩いていった。
よどみなく説明するのが三回続けて成功したので、ようやく自信がついたイオアンは、大広間の重たい扉を押し開けた。
賑やかな話し声と、香ばしい朝食の匂いがイオアンに押し寄せる。
三列に並んだ長テーブルで、百人近いセウ家の騎士や兵士たちが、パンとエールの簡単な朝食をとっている。
ぶ厚い石材で造られた大広間は、夏でもひんやりとしていた。高い位置にある窓から朝の光が差し込んでいる。
忙しそうに食事を運ぶ使用人を避けながら、イオアンはテーブルのあいだを進んだ。一段高くなった上座では、家族や高位の騎士が食事をしている。
中央に座っている伯爵と目が合い、反射的にさっとイオアンは目を伏せた。
視線を下げたまま、歩き続ける。
近頃の騎士は、兵士との食事を好まず、別室で朝食をとりたがる者もいたが、伯爵はそのような勝手な振る舞いは許さなかった。どんなときも全員が同じ場所、同じ時間に食事をして、料理の内容もさほど変わらない。
ただ、体の弱いイオアンだけは自室で食事をとることが許されていた。だから大広間を訪れるのは稀であり、いまも緊張しながら上座へ向かっている。
騎士や兵士の視線を感じる。
頭を下げる者がいれば、イオアンもぎこちなく頷き返した。
だが、ほとんどの者はイオアンに気づくと、一瞬珍しそうに目をやるが、すぐに視線を戻し、仲間との会話や食事に戻るのだった。
そのほうがイオアンには有難かった。
できることなら透明になれる魔法のマントでも着て、ここを通り抜けたかった。
昔から挨拶が苦手なのだ。
自分でもどうしてこんなに苦手なのか、いまだに理由が分からない。
場違いな人間だと、自分でも自覚しているからか?
大広間にいる家臣は、何があっても父上や弟のために前進し、命を投げ出しても構わないと思っているような者たちばかりだ。
自分のように恐ろしさのあまり尻尾を巻いて、戦場から逃げ出す者はいない。腰抜けには許されない場所なのだ――。
そんな思考がぐるぐると頭の中で渦巻いていたイオアンは、すれ違った使用人に「朝食ですか?」と聞かれたので機械的に頷いた。だが、そこまで腹は減っていない。緊張しているからか食欲を感じなかった。
上座に上がった。
伯爵の両側の席は空いている。
左側の席は、奥方である伯爵夫人の席なのだが、大広間で食事をとることはほとんどなかった。イオアンと同様(というよりイオアンが母親に似ているわけだが)神経質なところがあり、騒がしいところが嫌いだった。
イオアンは伯爵に頭を下げ、右側の空席に座った。
隣では、十九歳になる弟のアルケタが食事をしている。「おや?」と声を出して、兄上が来るなんて珍しいという表情をしてみせた。
伯爵のほうはイオアンを一瞥しただけで、無言で食事を続けた。夕食と違って朝食は時間厳守ではないから、何も言うべきことはないのだろう。
「今日はどうしたんだ」
アルケタが小声で話しかけてきた。
「こっちで食べるなんて、何か特別なことでもあったのか?」
その通りなのだが、
「うん、まあ、ちょっといろいろな……」
とイオアンは言葉を濁した。
どうブッケルムのことを伯爵に伝えるか、またイオアンは迷い始めていた。
いちど伯爵である父親に話したら、それはもう決定事項ということになる。後で「気分が変わりました」などというのは許されないのだ。
これはイオアンに限ったことではなく、セウ家の使用人から高位の騎士までのすべてが同じように感じる緊張感だった。
間違いや無駄な情報、曖昧な表現は許されない。
伝えるタイミングも重要だ。早すぎても遅すぎてもいけない。
つまり、戦場における戦況報告と同じである。
司令官である伯爵に余計な労力を取らせてはならず、貴重な時間を奪うのであれば、重要かつ的確な情報でなければならなかった。
唯一の例外がアルケタで、よく弟はくだらない冗談や、どうでもいい町の噂話を伯爵に話しかけていた。それで弟も同じように伯爵から叱責されるのだが、怒られてもけろりとしており、アルケタの存在でその場が和むということがよくあった。
使用人がイオアンの前に朝食を差し出した。
暖かいシチューをスプーンでかき混ぜながら、まだイオアンは考えていたが、本当は迷っている場合ではなかった。伯爵は食べるのが早い。いつ敵襲があるか分からない戦場では、貴族のように悠長に食べてなどいられないからである。
磨き上げられた白鑞のスプーンに、自分の歪んだ顔が映っている。
いったい、いつまで私は悩んでいるのだ?
だが、これはただのお願いではない。
ブッケルムの売却を提案するということは、ある意味、イオアン自身の立場を危うくするということでもあるのだから。
それは単に、伯爵の機嫌を損ねる、というだけではないのである。
これから、伯爵が〈魔の馬〉だと思い込んでいるブッケルムを、期待していた結果を出せなかったから、屋敷から放り出したらいかがですかと提案するのだ。
だとしたら、自分だって同じではないか?
伯爵家の嫡男であるにも関わらず、病弱で臆病で対人能力の低い自分を、伯爵が不要と見なして廃嫡し、追放する可能性だってあるだろう。
この予想を、イオアンは妄想だとは思っていない。
軍で規律違反を犯した兵士を、伯爵が処刑した話を聞いたことがある。
そうであるのならば、たとえ血のつながった親子であろうと関係ない。命があるだけでもありがたいと思えと、父親から宣告されそうな気がした。
弟のアルケタなら「あ、そうですか」と頷いて、そのまま傭兵にでもなりそうな気がするし、実際になれるだろう。
だが自分は、外の世界で生きていく術をもたない人間だ。
父親である伯爵の庇護のもと、〈塔〉に守られているからこそ、こうやって残酷な世界でも何とか生きていられるのだから。
確かに、外の世界は恐ろしい。
だが、それを理由に、ブッケルムが死ぬのを黙って見過ごす気なのか?
冬の海に飛び込む前のように何度か深呼吸をすると、意を決したイオアンが、
「ブッケルムのことで話があります」
と伯爵に話しかけた。
パンを咀嚼していたセウ伯爵が、ゆっくりと顔をイオアンへ向けた。大事な考え事を邪魔されたかのような表情だった。




