第36話 北大門
意識を取り戻したエルは、まだ馬上にいた。
ブッケルムは何事もなかったかのように悠然と街道を歩いている。
エルの視線の先には北大門が見える。
まずい、近づいているぞ。
ずきずきする痛みを感じて、エルが額に触れるとたんこぶが出来ていた。
くそう、ブッケルムの奴――。
エルはブーツの踵で思いっきり、その脇腹を蹴りたい気分だったが、そんなことをすれば、また暴走するかもしれない。
おそらくイオアンとの、街道を北に向かった遠乗りの記憶があるのだろう。
それを邪魔されると思ったのだ。
じゃあ、どうするんだと思いながら、エルは首を軽く振った。
まだ頭がくらくらする。
このまま、あの北大門に突っ込む気か?
イグマスの北大門は巨大だ。
城壁だけでも十五メートルぐらいあり、門を挟む左右の塔は二十メートル、八階建ての建物ぐらいの高さにはなるだろう。
遠くから見ても要塞のような威圧感がある。
門は馬車がすれ違えるぐらいの幅があるが、出入りする者が多く、余所者や商人は通行税を支払っているので、門の前で渋滞しているようだった。
はたして伯爵夫人はどうなのか?
払う必要はないはずだが、怪しまれた場合、逃げるのは難しそうだった。
エルはごくりと唾をのみ込んだ。
セウ家の屋敷では、このドレスを見れば奥方だとすぐに分かるから、そのまま問題なく通ることができた。
しかし、イグマスの城門ではどうなのか?
むしろ、こんな金のかかったドレスを着ている女が、ひとりで旧市街から出たら、むしろ怪しまれるんじゃないのか?
それとも、ちょっと頭のおかしい伯爵夫人は見逃されるのか?
分からない――。
エルは判断する根拠を持ち合わせていなかった。
エルが悩んでいるあいだにも、ブッケルムは気楽な様子で門に近づいていく。
大きい。
見上げるような高さだった。
塔の屋上から、兵士が見下ろしていた。
陰になった矢狭間からは、射手が狙っているかもしれない。
詰所では、兵士が通行税を徴収している。
その後ろには、様々な商品を積んだ馬車や人の列が続いている。気づいた市民が後ろを向いて、エルのほうを見ていた。
いまさらここで引き返したら、余計不審に思われるだろう。
行くのか?
行くしかないのか?
エルは大きく息を吸うと、覚悟を決めた。
行くしかない。
エルは背筋を伸ばし、真正面を見る。
堂々としろ。
伯爵家の奥方らしく。
自分を女だと思い込むんだ。
子供の頃を思い出せば難しくはないだろう。
俺は女だ、女だ、女だ――。
うわあ、門が近づいてきた。
ああ、ドキドキする。
エルが北大門の群衆の最後尾に近づくと、市民たちが勝手に左右に割れた。
そのあいだをブッケルムが胸を張って進んでいく。
左右から囁くような声が聞こえるが、極度に緊張しているエルの耳には届かない。
顔を真正面に向けているエルは、詰所の前の衛兵の生真面目そうな顔が見えるぐらいまで門に近づいた。
すっごく若い。
俺と変わんないぐらいじゃないか。
唾を飲み込もうとするが、すでに喉はからからだった。
スカートに誰かが触れた。
驚いて下を見ると、小さな子供が見上げていた。
それを見た別の若い女も、おずおずとエルの左足に触れる。
あっという間に市民たちが、わらわらとエルとブッケルムを取り囲んだ。
ブッケルムがいななき、エルはパニックに陥った。
「離れろ!」
大声で叫んだ衛兵が、槍の石突で石畳を叩いた。
「道を空けるんだ!」
すると、市民たちは波が引くように、ブッケルムから距離を置いた。
ドレスの下で、エルはぐっしょりと汗をかいていた。
心臓が破裂するんじゃないか?
いっぽうブッケルムはすぐに落ち着きを取り戻したらしく、かっぽかっぽと、のんびりしたリズムで北大門をくぐろうとしていた。
北大門の日陰に入った。
まわりの市民たちは、エルに頭を下げている。
左右に並んだ四人の衛兵たちも、槍を立て、直立不動の姿勢を取った。
この門をくぐるとき、俺は変われるのかもしれない。
今朝、ヤヌスの大理石像の肩で、イグマスを見下ろしながら祈ったように。
純白のドレスをまとったエルはそう思うのだった。
やっと扉が開くんだ。
これからは、すべてが上手くいく。
過去も憎しみもここに捨てて、前へ進もう――。
北大門の向こうには〈陰の街道〉が真っすぐに続いている。
遠くには背骨山脈も霞んで見えた。
その上には真っ青な夏空と、湧き上がるような白い入道雲。




