第35話 脱出
馬房の外は明るい。
エルは冷え切った心であたりを見回した。
熱気のこもった馬房ほどではなかったが、外も暑かった。
〈塔〉の北側には、幾つかの倉庫と鍛冶屋の仕事場のあいだに井戸がある。井戸端の女たちがエルを見ていた。
そちらへ顔を向けると、さっと女たちが頭を下げた。
エルは〈塔〉に沿ってブッケルムを進めた。
すれ違うセウ家の使用人たちが、驚いた表情でエルを見上げ、慌てて道を空ける。
だがエルは何も感じない。
まるで、自分ではないようだった。
マントのセウ家の紋章を見たときから、いつもの自分が停止し、別の自分が勝手に動き始め、他人事のようにそれを眺めている自分もいる。
イオアンの話では、正体がばれたら酷い目に遭いそうだったが、いまのエルは恐れてはいない。そして憎んでもいない。
移りゆく風景を、ブッケルムの上からぼんやりと眺めている。
〈塔〉の西側にはセウ家の厩舎があり、そのあいだの石畳の通路をブッケルムが蹄の音を響かせて進んでいった。
心持ち首を持ち上げ、意気揚々と歩いている。
向かい合った二列の馬房にいる軍馬たちは、どれもが小さなブッケルムよりひとまわりも、ふたまわりも大きい。
世話をしていた従士や馬丁たちが手を止め、頭を下げているが、エルが気にしていたのは軍馬だった。
手入れも行き届いて毛艶も良く、惚れ惚れとするような馬たち。
できることなら一頭ずつ見て回りたいぐらいだったが、厩舎は後ろに過ぎていき、やがて屋敷の門が見えてきた。
門といっても石造りの小さな屋敷のようなものだ。
その前で兵士たちが立ち話をしている。
屋敷の侍女が驚いた表情でエルを見送っている。頭も下げないのは、エルのドレス姿が何かおかしいからだろうか?
このドレスに俺は耐えられるかな?
ふとエルは思った。
旧市街のどこかで着替えるにしても、すぐには脱げない。
暑苦しさはともかく、セウ家の奥方の特注のドレスをこの俺が着てるなんて――。
嫌悪感で、また吐いたりしないだろうか?
いや、胃の中は空っぽだ。
そして、心の中も静まり返っている。
気づいた兵士たちが脇に避け、槍をもった門番が心配そうな表情で近づいてきた。何か話しかけているようだがエルの耳には届かない。手を伸ばそうとした門番の前を、悠然とブッケルムが通り過ぎ、エルは屋敷の門をくぐった。
あっけない。
そう思ったエルは振り返った。
門の上には、立ち獅子のまわりに十二のガラス玉が埋め込まれていた。
それを見たエルの心が再びざわつく。
門の外は、長い下り坂になっている。
セウ家の敷地は、瓢箪のような形をした丘の上にあり、くびれた部分にある門から、南に向かって敷地をぐるりと囲むように坂が伸びている。
この坂を行き来する者は、丘の上の〈塔〉からは丸見えだ。
丘の南側の斜面は切り立った崖で、〈酔っぱらいの梯子〉がある北側と違って、視界を遮るような木々も生えていない。
何かあれば、丘の上から矢を浴びせられるだろう。
そう考えると、エルは項のあたりがぞくりとしたが、屋敷のほうから気づいたような叫び声が聞こえることもなかった。
坂を下りきると、小道は小川ぞいの並木道にぶつかった。
その頃になってエルにいつもの感覚が戻り、ようやく恐怖を感じた。
震える体にうまく力が入らない。
背後を振り返ってみる。
俺はあそこから無事に脱出できたんだ――。
エルはゆっくりと息を吐く。
丘の上には、八階建ての灰色の〈塔〉がそびえ立っている。
平地のイグマスなら、どこからでもあれが見える。逆に言えば〈塔〉からずっと見張られているわけだ。
旧市街の城壁を出るまでは気が抜けないぞ。
そうエルは自分に言い聞かせた。
※ ※ ※
いまのところ、セウ家の誰かが追いかけてくるような様子はない。
エルはブッケルムに無理はさせたくなかった。
こうやって元気に歩いているだけでも不思議なくらいなのだ。
このペースでは、山の中にある隠れ家に到着するのは夜になってしまうだろうが、仕方がない。
休みながら戻るつもりだった。
ただ――、
エルは自分の気持ちがよく分からなかった。
あれほどセウ家への復讐心に燃えていたはずなのに、伯爵夫人のドレスを着て、ブッケルムを盗み出しても、何の感慨も湧かないのだ。
昼下がりの並木道を、イグマスの市民たちがのんびりと歩いている。
川沿いなので、いくぶん涼しいようだ。
頭を下げる者がいれば、エルも軽く頷いてみせた。
笑顔で手を振る子供もいる。
我ながら何をやってるんだろうと思うが、イグマスから離れるまでは仕方がない。
もやもやした気分にはなる。
でも、伯爵夫人の演技を続けるより他ないのだ。
俺のやったことは正しいんだと、エルは自分に言い聞かせる。
半島の村の姉妹のため、南大陸で虐げられている者たちのため、あのイオアンという家庭教師やブッケルムも、みんなセウ家の犠牲者だった。
その代わりに俺が復讐したんだ――。
だが、目が眩むような高価なドレスをまとって、沿道の市民たちから頭を下げられれば、エルも悪い気はしない。
そりゃ貴族たちも、自分が偉いと勘違いしちゃうよな。
俺も気をつけなきゃ。
早いとこ、どこかでドレスを脱いだほうがいい。
人目につかない場所を探しているうちに〈陰の街道〉に出た。
車道では、商品を積んだ馬車や荷車が行きかい、賑やかな歩道では買い物客や巡礼者、旅人たちが歩いている。
ごちゃごちゃした新市街の街並みに比べると、旧市街は整然としていて、都合よく着替えられそうな場所が見つからなかった。
いまエルは、イオアンの忠告どおり街道を北に向かっていた。
このまま進めば、北大門をくぐることになる。
その前に着替えたかった。
いや、着替えなくてもいいのか――。
ふとエルは思った。
着替えれば、また昔の自分に戻り、復讐心に囚われてしまいそうな気がする。
もしかしたら、女の格好をしてるから気にならなくなったのかも。
いまの自分は誰でもない。
男らしさに拘るエルでなければ、もちろん伯爵夫人でもない。
ドレスの中にいるのは、まったく新しい自分だ。
それは――自由な気がする。
〈陰の街道〉でも、イグマスの市民はエルに頭を下げるのだった。
伯爵夫人は愛されてるんだろうな。
子供が大人になったような人だとか言ってたし――。
エルにとっては新鮮な体験だった。
〈首なし騎士団〉の見習いとして、町を歩くときは、いつも蔑むような視線か、気味悪がるような視線を向けられていたからだ。それは、先頭をゆくカルハースたちが、髑髏の仮面を被り、黒ずくめの格好をしているからである。
嫌な気分になんない?
とカルハースに訊いたことがある。
それでいいんだ。
恐れられれば、連中が私たちに近づくこともない。
そうカルハースは答えた。
分かったような気分になると、とたんに連中はつけ上がるものだからな。
理屈は分かる。
だがエルは、普通に町を歩いて楽しみたかった。
ブッケルムに跨ったエルは、いまイグマスの通りの眺めを堪能している。
〈陰の街道〉には、神々の大理石の神殿、各種のギルド会館、商店や工房が店を構え、活気があり、ヒトやエルフなど様々な種族が歩いていた。
いっぽうで、下を向いて歩いている者もいる。
馬糞を集める清掃人や、くず拾いだ。
その多くは肌の黒い南大陸人だった。彼らを見てエルは思い出す。
そう、まわりは敵だらけなんだ。
もし変装がばれたら、俺は殺されるかもしれない。
いい気になってないで、すぐにドレスを脱いで、いつもの自分に戻らなくちゃ。
どこでもいいから路地に入ろうと、エルは手綱を左に軽く引いた。
だが、ブッケルムは抵抗する。
おいおい、頼むぜ。
そう思いながら、もう一度エルが左に向かわせようとすると、いきなりブッケルムがスピードを上げ、歩道に乗り上げた。
逃げ惑う歩行者も気にせず、ブッケルムは街道に面した軽食堂や八百屋のぎりぎりを走った。椅子がひっくり返り、オレンジが散乱する。エルが手綱を引こうとしたところで、突然目の前に現れた大きなブーツの形をした靴屋の看板が顔面に直撃し、エルは目の前が真っ暗になった。




