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綺麗な首飾り|孤独なエルフの貴公子と、居場所のない盗賊の少年が、深くつながる物語  作者: 神代紫音
第一章  セウ家の馬小屋|昼|イオアンが魔法の馬を救うために一計を案じる
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第34話 香油

「エル!」

とイオアンは叫び、壁に手をつけて嗚咽しているエルに駆け寄った。

「どうしたんだ急に……」


しばらくするとエルの体の震えが止まり、粗い呼吸を繰り返した。壁一面にかかった吐瀉物からは酸っぱい臭いが立ちのぼっている。


イオアンはエルの背中をさすりながら、

「悪いものにでも当たったか? 最近は暑いからな、すぐに腐るんだ」

と狼狽えている。


逃げ出せないほどエルが衰弱したら、どうしようかと心配していたのだが、

「……食い物じゃない、あのときの旗だよ」

とエルが苦しそうに呟いた。


「旗?」

「村に掲げてあった旗さ」

「お前は何を言ってるんだ?」

「へへ、その紋章に感謝しなくちゃな。大切なものを忘れるところだった」

「体の具合は? じゃあ、マントをつけてもいいんだな?」


苦しそうに息をしながら、エルが壁から手を離した。

「もちろんさ。いまは最高の気分だよ」

そう答えたエルの表情は、ぞっとするほど冷たかった。


危険を感じたイオアンは思わず後ずさった。エルの表情から憎しみは感じない。感じるのは、もっと人間離れした得体の知れないものだ。質問されるのを拒むような雰囲気をエルは発散していた。


無表情に口元を拭ったエルが、ぐっと距離を寄せてきた。

「どうしたんだ。早くマントをつけてくれよ」


「そ、そうだな」

イオアンは慎重にエルに近づき、その背中に回ると、純白のマントの留め具をドレスの特殊な金ボタンで固定した。エルが振り向いた。

「あとは?」


「あとは……手袋とヴェールだけだな」


エルから命じられたかのように、慌ててイオアンは白い鹿革の手袋を取り出した。膨らんだドレスの袖口を、手袋の大きな袖口に突っ込む。白絹のヴェールをフードのように被せ、鼻と口を覆い、耳元は飾りピンで止めた。


目元だけは黒い肌が見えるがしょうがない。南大陸出身のエルが顔を布で隠していると、ターバンのようでもあり、まるで暗殺者のように神秘的な感じがした。


「これで終わりだな?」

とエルがくぐもった声で確認すると、イオアンは頷いた。

「ブッケルムの鞍は?」


「あれだ」

とイオアンは壁にかかった馬具へ顎をしゃくった。


エルは手を伸ばして馬具一式を抱え込むと、柵をくぐり隣の馬房へ移った。白いドレスを着たエルを見ると、ブッケルムは警戒したが、エルが優しく宥めるとやがて落ち着いた。エルは馬の背中に毛布をかけ、出発する準備を始めた。


背後からイオアンが尋ねた。

「……新市街にある宿に戻るつもりか?」


エルは答えず、ブッケルムの背に無骨な鞍を乗せた。


「新市街に向かうのなら、遠回りでも南大門や西大門は避けたほうがいい。いつも私たちの遠乗りは、北にある草原へ向かっていたんだ。ブッケルムも北大門なら慣れてるから、問題なく通れるだろう」


エルは何も言わず、鐙の調整を続けている。


「門番に話しかけられても絶対に答えるな。身振りだけで対応するんだ」


エルが頭絡をつけはじめたので、

「これも忘れるなよ」

とイオアンは腹帯にエルの脱ぎ捨てたズボンを縛りつけた。


準備ができたエルが馬房の横木を外すと、イオアンがおずおずと訊いた。

「もう行くのか……?」

無言で頷いたエルに、

「せめて、これで胸を膨らませたほうがいい」

とイオアンはドレスの胸元に、エルの上着を無理やり押し込んだ。


ヴェールで覆っているエルの顔からは、もはや何を考えているのか掴めない。ふうと息を吐くと、イオアンは心を決めた。

「では、乗るのを手伝おう」

と言ってエルが跨れるように、両手を組んで足場を作った。


エルが勢いよく鞍に跨ると、純白のドレスがふわりとブッケルムの背中を覆った。下からイオアンが、エルの豪華な短剣を手渡した。柄には火蛋白石が嵌め込まれ、鞘は血赤珊瑚と黒曜石の象嵌になっている。


「美しい短剣だな……大事な物なんだろう?」


受け取ったエルは、短剣をしばらく額に当ててから、イオアンを見下ろした。

「あんたは、セウ家の人間だけどさ……」


「それがどうした?」

と見上げているイオアンが促した。


「……悪い人間じゃないとは思う。だから俺に関わらないほうがいい。いいことなんか決してないからさ……」

「関わるなと言ったって、すぐに出てくんだろ?」

「うん。もう少し話してたかったけど、これ以上は俺の古傷が耐えられない」


そう告げると、エルがスカートを太腿まで捲り上げ、ブーツの編み上げに短剣の鞘を強引にねじ込んだ。ばさりとスカートを下ろすと、短剣はまったく見えなくなり、風でイオアンの銀髪がなびいた。エルの汗の匂いがした。


「そうだ!」

思い出したイオアンは、隣の馬房へ戻っていった。

「まだ行くなよ! ちょっと待ってろ!」


戻ってきたイオアンは小さな瓶を手にしていた。エルが不思議そうに眺めていると、イオアンは瓶の蓋を開け、指先に垂らすと、スカートの裾に撫でつけた。馬房じゅうに官能的で濃厚な夜の匂いが広がった。


そばで寝そべっていたポカテルが、哀れそうに悲鳴をあげて馬房から飛び出し、ブッケルムが不快そうに鼻を鳴らした。


「なんだよ、これ?」

ドレスのあちこちに香油を擦りつけているイオアンに、エルが文句を言った。

「すっごい獣臭いぞ」


「獣じゃない、高貴な大人の匂いだ」

とイオアンが訂正した。

「奥方様の愛用品だぞ。これで、お前の変装が完璧に……」


「やり過ぎなんだよ、もう行くからな!」

手綱を緩めたエルが、舌を打ち、踵で合図すると、ゆっくりとブッケルムが馬房の外へ歩き出した。


「ちょっと待て!」

不意を突かれたイオアンが叫んだ。

「おい、早すぎるだろ! まだブッケルムとの別れの挨拶が……」


夏の日差しに晒されたエルとブッケルムが敷地を進んでいき、馬房の入口から見えなくなると、イオアンは呼びかけるのを諦めた。


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