第33話 変装2
エルの項から背中にかけての傷跡を見ると、イオアンは顔をしかめた。
「ずいぶん酷い傷だな。痛まないのか」
「いつもはね。でも、たまに汗が沁みるときもある」
「鞭の跡か。何を盗んだ?」
「小さな木彫りの……」
「木彫り?」
「いや……遠征軍の食料を盗もうとして捕まった。途中で気を失ったよ」
「ずいぶんと勇ましいんだな」
「そうじゃない、必死だったんだ。奴らが村の食い物を全部持っていったから」
「……そうか」
気まずくなったのか、エルが顔を後ろに向けて言った。
「あんた、ずいぶん手慣れてるな」
「何が?」
「ドレスだよ。着させるのが初めてじゃないみたいじゃん」
「初めてではない」
「え? 奥方の着付けまでしてんのか」
「まさか。娼婦たちの準備を手伝うことが多いだけだ」
「娼婦たち!? あんた、アルケタの家庭教師なんだろ。いいのかよ?」
「べつに問題ない」
「くくっ、とんだ生臭坊主だな!」
「大きく息を吐いてくれ」
エルが息を吐くと、イオアンはコルセットをきつく締めあげた。
「うっ、苦しい」
「これぐらいのほうが、無駄口を叩かないだろう。次はドレスだ」
伯爵夫人の純白のドレスはスカートと一体になっている。イオアンはドレスをエルの頭から被せると両袖を通させ、体をぐるりと回してエルの背中を紐で留めていった。袖口は長く垂れ下がっている。
広がった袖をひらひらと振ってみせるとエルは、
「どっかに引っかかりそうだな……」
と呟き、しげしげと眺めた。
袖口の目が回りそうなほど細かい金糸の刺繍は、夕日を浴びた蜘蛛の巣のようだ。見ているうちに吸い込まれ、捕らわれた虫のような気分になる。
「すげえな、これ。どれぐらいするんだろ」
「ドレスの値段か?」
「うん」
「これ一式で、小さな砦ぐらいの値段はするだろう」
「砦!? ふつう砦って売ってるもんなの?」
「では、傭兵団なら半年雇用できるぐらいだろうな。おおよそだが」
「ええっ、そんなの着ていいのかよ」
「これじゃないと奥方様の変装にならないからな。大切に扱ってくれ」
「うへえ。何だか重たく感じるよ」
着付けが終わると、イオアンは後ずさり、エルの全体を眺めた。
悪くないような気がする。
それ以上に、最後までエルが嫌がらず着替えてくれたことにホッとしていた。
「どう?」
エルが心なし緊張した様子で尋ねた。
「いいと思うぞ」
イオアンとしては、どこまでエルを褒めていいのか測りかねていた。あまり女装が似合っていると絶賛しても、それはそれで嫌がるのかもしれない。
「ただし暗いからな。何とも言えない」
「じゃあ、もう少し明るいところに、俺が立っててみようか?」
「そうしてくれるか。見つからないようにな」
この馬小屋は大きいので、着替えるのには問題なかったのだが、エルはククルビタに近づくと、「どいてくれる?」と言いながら、肩のあたりを掌でゆっくりと押した。馬が場所を空け、エルが動き回れるだけの空間ができた。
エルが馬房の中ほどに立ち、よりはっきりと見えるようになった。しかし逆光になるためイオアンが、
「ちょっと待ってくれ」
と言って、馬房の入口へ移動し、改めてエルのドレス姿を眺めた。
素晴らしい――。
出来ることなら口笛でも吹きたくなる気分だった。
それっぽく見えれば上出来だと思っていたが、予想を遥かに超えていた。
それも、ただ美しいというのではない。
なぜエルのドレス姿に惹きつけられるのか、イオアンでも言葉にできなかった。
いつもは母親である伯爵夫人が着ているのに見慣れているせいか?
着る人によって、こうもドレスの印象が変わるものか?
じっと見つめているイオアンが無言なので、
「なあ、どうなんだよ?」
とエルが恥ずかしそうに声をかけた。
「ああ、すまない。ちょっと歩いてもらってもいいか?」
「歩く? いいけど……」
戸惑った様子で、エルはゆっくりと馬房の奥まで歩き、また戻ってきた。ふわりと広がった白いスカートが、イオアンの目に焼きつく。
「そこで両手を広げ、回転してみてくれ」
エルはククルビタに当たらない程度に腕を広げて、ゆっくりと回ってみせた。その様子を、イオアンは目を凝らして観察している。
エルの黒い肌と白いドレスの対比のせいかもしれない。
それが異国的な印象を与えていた。
巻き毛の黒髪に可愛い顔をしたエルが着ていることで、中性的で妖しげな感覚も生み出している。
エルが少年だから、頭の中でそう感じるのか?
それとも、エルの平坦な胸や腰つきから、少女性を感じているのか?
そして、乾草の匂いのする粗末な馬小屋の中で、エルが高価な純白のドレスを身にまとっているという状況が、さらに強烈な印象をイオアンに与えていた。
気がつくと、いつの間にかエルが回るのをやめて、イオアンを見ていた。
「いいと思うぞ」
と慌ててイオアンが口にすると、エルが失望したように溜息をついた。
「感想って、それだけ?」
「いや、言葉にするのが難しいんだ」
イオアンは必死になって、どう伝えればいいのか考えた。
「……南大陸のどこかの伯爵家のお姫様のようだ。生まれ変わらなくても、お前はそのままで通用すると思う……こう言っていいのか分からないが」
「……うん、素直に嬉しいよ」エルが顔を赤らめる。
「それに……意外と気品があるんだな。これは生まれつきだろう。そのドレスがお前の本来の魅力を引き出したのかもしれない」
「そんな、褒めすぎだって」
真顔のイオアンの感想を、エルは慌てて打ち消した。
「たまたまだよ……」
「まあ、ヴェールを被ったら、その魅力も半減してしまうが仕方がない」
「あ、そうか。ばれちゃうもんな」
「あと手袋もつける」
「それで変装はおしまい?」
「最後にマントをつけたら完了だ」
そう答えたイオアンは、隣の馬房へ顔を向けた。
「どうだ、その格好でブッケルムを盗み出せそうか?」
エルもブッケルムを眺めた。
「そうだね……でもこれを着てると、盗んでるって感じがしないな。ドレスを着てるほうを意識しちゃいそうだ」
「まあ、それもいいのかもしれない。大事なのはブッケルムを屋敷から逃がして、のんびりできるところに連れ出すことだ」
「そうだね」
「どこか良い農場を知ってるか?」
「いや、俺はイグマスもスウォン属州も初めてだから」
「そうか、時間をかけて探してくれ」
「うん。もしかしたら他の馬と一緒に、別の属州へ連れていくかも」
「遊牧か。それもいいかもな……」
「あとは野生に戻すとか」
「そんなことが出来るのか?」
「普通の軍馬なら厳しいけど、ブッケルムは山の馬の血を引いてるし、賢いから生き残れるかもよ」
「背骨山脈を駆け回るブッケルムか……いちど見てみたい気がする」
「想像はそれぐらいにして、そろそろ行かないと」
「では最後にマントをつけることにしよう。これがないと、市民たちからセウ家の奥方様だと思われないからな。見事なものだぞ」
「へえ、そりゃ楽しみだね」
イオアンが馬房の奥に戻り、麻袋から取り出したマントを広げた。純白の滑らかな絹の生地に、大きくセウ家の紋章が金糸で刺繍が施されている。イオアンはエルの前でひらひらとマントを揺らしてみせた。
マントは、まるで風にたなびく軍旗のようにも見える。
エルがマントを見つめた。
イオアンが広げているマントには、立ち獅子に十二の星の紋章が描かれている。
つまり、セウ家の紋章だ。
金縛りにあったようにエルが硬直した。
エルの顔からは血の気が引き、ぶるぶると体を震わせて、何かを思い出したかのようにマントを凝視している。
立ち眩みのように、ふらふらと倒れそうなエルに、
「……大丈夫か?」
とイオアンが不思議そうな顔をして近づき、手を差し伸べた。
エルは、その手を強く払いのけた。
馬房の隅へ駆け寄ると、げえげえと胃の中のものを吐き出した。




