第32話 変装1
イオアンは安堵の溜息をつくと、後ろを振り返った。
「……大丈夫か?」
エルは先程までの元気の良さが消え、小さくなって俯いていた。イオアンは両手でエルの肩をそっと掴んだ。唇を噛み、どう伝えようかとためらう。
「先程まで私が一方的だったのは謝る。お前にもドレスを着たくない理由があるんだろう。南大陸の人間は、何よりも男らしさが大事だそうだからな。エルフの私には、あまりよく分からない感覚だが……」
イオアンを見上げたエルは口を開きかけたが、結局なにも言わなかった。
「ドレスを、芝居の衣装だと考えてみてくれ」
とイオアンが言った。
「なにも着たからといって、お前の人格まで変わるわけじゃない。この脱出劇のあいだだけ身にまとう、かりそめの衣装なんだから」
「あれが衣装って……」
と口にすると、エルは目を伏せた。
「……あんな綺麗なドレス、俺に似合うわけないよ」
「では試しに、一度だけ着てみないか?」
とイオアンが提案した。
「初めてだろうから、着てみたら意外と似合うかもしれない。それでも駄目なら別の方法を考えよう。お前のためとは言わない。これは私の勝手な願望だからな。奥方様のドレスを着て、ブッケルムを盗んで欲しいというのは……」
おずおずとエルが口を開いた。
「……あんたは本当に、あれを俺に着て欲しいのか?」
「心からな」
イオアンは頷き、エルの肩をぎゅっと掴んだ。
ブッケルムを逃がすことさえできれば、どんな格好であろうとイオアンは構わなかったのだが、いまはエルをその気にさせることが肝心だった。
「お前が真っ白なドレスをまとって、イグマスを駆け抜ける姿を見てみたい……とても美しいだろうと私は確信している」
「……分かったよ」
とためらいがちにエルが頷いた。
「じゃあ着てみる。でも、どんな酷い結果になっても知らないよ……」
「似合うに決まってるさ。さあ、向こうで着替えよう!」
イオアンはエルの気持ちが変わらないうちにと、エルを隣の馬房へ押し出した。
ククルビタはおおらかな性格の馬なので、隣で何をしようと気にしない。とにかくいまはエルの気持ちを繋ぎとめることが大事だった。女装を拒否された場合の代案を、イオアンは持ち合わせていない。
ククルビタの馬房に移ると、ドレスを拾い上げたイオアンは、エルに女装させる手順を頭の中で確認した。その隣でエルが不安そうに立っている。
そして時間もない――。
イオアンは蒸し暑い馬房の中で汗を拭った。
ブッケルムの説明やエルの説得に、思いのほか時間がかかってしまった。屋敷にエルがいる時間が長くなれば、それだけ見つかる可能性が高くなる。いまは父親の伯爵を含め、セウ家の騎士たちが遠征に備えて〈塔〉に集まっている。何かあれば大騒ぎになることだろう――。
これ以上、セウ家の嫡男としての威厳を失墜させてはならない――その焦りからなのか、イオアンが命令口調でエルに告げた。
「ほら、早く服を脱げ!」
「え、ここで?」
「ここ以外のどこで脱ぐんだ。馬房の外か?」
エルが口を尖らせながら脱ぎ始めると、下着まで脱ごうとしたので、
「待て、待て、そこまでは必要ない」
と慌てて止めた。
イオアンの前に、しなやかで小柄な十五歳の少年の肉体が現れた。馬房の熱気で、エルの黒い肌もしっとりと汗で濡れている。
イオアンは先程のぶっきらぼうな指示を反省した。とにかくエルを気にかけている姿勢を見せることが大事なのだ。つまり世の女性と同じだ。イオアンは木箱の上の藁屑を丁寧に取り除いた。
「そこに座るのかよ」
エルが憮然とした表情で訊いた。
「その前に、シュミーズを着てもらわなくては」
イオアンが麻袋から薄い絹の下着を取り出した。その胸元や袖口にはレースのフリルがついており、あたかも海に砕ける波の白い泡立ちのようだった。
「両手を上げてくれ」
「やだよ。さっきのドレスをそのまま着ればいいじゃん」
「駄目だ」
「何でさ、重ね着したら暑苦しいだろ」
「ドレスの生地が薄いから透けてしまう。それに、こういう小さな積み重ねが本物らしさを醸し出すんだ」
「門を通り抜けるときだけだろ」
「その一瞬でばれたらどうする? さあ、いい子だから両手を上げてくれ」
渋々といった感じでエルが腕を上げ、イオアンがシュミーズを頭から着させた。次いで麻袋から白綿のペティコートを取り出し、エルに履かせる。ペティコートは乗馬用のため前後に深いスリットが入っていた。イオアンが腰のあたりを紐を結んでいるあいだ、大人しくエルはされるがままになっていた。
「そこに足を出して座ってくれ」
イオアンが命じると、エルは木箱に腰を下ろし、両足を前に投げ出した。
イオアンがエルの前で片膝をついた。ペティコートを捲りあげ、白い絹のストッキングを、エルの右足の太腿まで引き上げると、膝下をリボンで留めた。
エルはくすくすと笑っている。
「動くな」イオアンが、エルの太腿をぴしゃりと叩いた。
「だって、くすぐったいんだよ」
「我慢しろ」
左足にもストッキングを履かせているあいだ静かだったので、ふとイオアンは顔を上げた。エルがしんみりとした表情で、イオアンの作業を見守っている。
「どうした?」
「いやあ……」
エルが照れたように口にした。
「貴族のお姫様ってさ、毎日こういうことしてんのかな?」
「そうなんだろうな」
「悪くないかも」
「そうか」
「なんだか偉くなったような気がするよ」
「では、来世は綺麗な姫君に生まれ変われるように祈るんだな」
ストッキングを履かせ終わったイオアンが、
「ああ……ブーツの前に忘れていた」
と言って立ち上がり、麻袋から真っ白なドロワーズを取り出した。
「先にこれも履いてくれ」
「えー、まだつけるのかよ?」
「ペティコートの下に何も履かずに鞍に跨ったら、処女みたいに血塗れになるぞ。それは嫌だろう」
白くなめされた鹿革のドロワーズを、イオアンが渡した。膝下までの半ズボン状で布のように柔らかい。受け取ったエルは立ち上がると、そそくさとドロワーズを履き、再び木箱の上に座った。
イオアンが磨き上げられた白い牛革のブーツを取り出した。履き口が折り返され、そこにも金糸の刺繍がびっしりと施されている。
「履き慣れてる俺のほうが良くない?」
とエルが言うので、イオアンは伯爵夫人のブーツを見せた。
「ここに高いヒールがあるだろう。これが鐙にがっちり嵌るから、馬上で弓を射るのにも有利だぞ」
「弓なんて持ってないじゃん」
「それはそうだが、背を高く見せる効果もある」
「ふーん、じゃあいいか」
エルが両足を前へ投げ出し、イオアンがブーツを履かせた。脹脛の部分を下から紐を通して締め上げていく。
「きつくないか?」
「ううん、きっちり締め上げてよ」
絞め終わると、エルは立ち上がり、トントンとブーツを足に馴染ませた。
「おお、本当だ。背が高くなった! 次は?」
折り畳まれた布の板のようなものを、イオアンが取り出した。
「次はこれだ」
「なにそれ」
「コルセットだ」
「そんなのまでつけんのかよ!」
「美しい体の線をつくる必要があるからな」
イオアンはコルセットを広げると、エルの胴体に巻き付けていった。
「そんなのいらないだろ」
「じゃあ、どうやって大きな胸を作るんだ。支えがなきゃ無理だろう」
「だから、でかい乳なんていらないって」
「ほら、手を上げろ」
イオアンはエルの後ろに回ると、コルセットの穴に紐を通し始めた。




