第31話 奥方
エルは唖然としている。
「ブッケルムを盗み出す? ここから?」
「そうだ」
とイオアンが頷いた。
「屋敷から盗み出し、どこかブッケルムが元気にやっていけそうな農場にでも売って欲しい。もちろんその代金はお前のものだ」
「そんなの無理に決まってるだろ!」
「なぜだ?」
「屋敷の門からしか出入りできないんだろ? 捕まるに決まってるじゃん」
「捕まらない方法がある」
「どうやって?」
「変装する」
「変装? やめてくれよ、俺は兵士の真似なんかできないよ」
「兵士じゃない。もっと確実な方法だ」
「なんに変装するんだよ」
「女装する」
「え?」
「女の格好をして、ブッケルムに乗って出る。これなら捕まらない」
エルが明らかに動揺している。
「ば、馬鹿なことを言うなよ、そんなの、俺は絶対にしないからな!」
「なぜだ。簡単なことだろう。特別な真似も知識も必要ない」
「嫌なんだよ!」
「女の格好をすることがか?」
「そう」
「見破られると思っているのなら心配はない。お前は小柄だし、可愛い顔をしてる。たいていの男なら騙されるだろう」
「そういうことじゃない!」
「じゃあ、何が問題なんだ。話してくれ。一緒に解決しようじゃないか」
「説明なんか必要ない。嫌なものは嫌なんだ!」
「わけが分からないな」
溜息をついたイオアンは、ドレスを抱えると、木箱の上に座り込んだ。
「じゃあ、どうやってお前は屋敷から出るつもりなんだ」
「知るかよ! あんたが考えてくれよ。俺を屋敷に連れ込んだんだからさ!」
「だから、こうして提案している。他に方法はないぞ」
「何かあるだろ」
「だから、思いつくのを言ってみてくれ」
「例えば……あんたが門番の気を引いているうちに俺が逃げ出すとか」
「そんなことをしたら、ブッケルムの盗みに私が関与したのが、すぐに分かってしまうじゃないか」
「だから、俺だけ逃げればいいだろ」
「駄目だ。お前はメルクリウスに誓ったんだ。ブッケルムを屋敷から連れ出し、元気にする義務がある」
「あんたが勝手に決めるなよ!」
「私が決めたんじゃない。お前が勝手に誓ったんだ。とにかく、ブッケルムを盗み出すことを前提で方法を考えろ」
「女以外の変装は?」
「できなくはないが門番に呼び止められるぞ。うまい言い訳が考えられるのか? 強行突破したところで、騎士たちがどこまでも追いかけてくる」
「それは女装したって同じだろ」
「違う。このドレスを着れば、何も言わずに通りに抜けられる」
「え? そのドレスを着るのかよ!?」
「もちろんだ。そのためにわざわざ用意したんだ」
「……嘘だろ。報酬だと思ってたのに」
「もちろん報酬だ。脱出したら、売るなり好きにすればいい」
「でも、そのドレスを着たって、門番には呼び止められるんじゃないのかよ」
「いや、お前に恭しく頭を下げるだろう」
「この俺に!?」
「そうだ。このドレスは伯爵夫人のものだからな」
「伯爵夫人!?」
そう叫んだエルは目を剥いた。
「そうだ、滅多に着れるものじゃないぞ」
「そりゃそうだろうけど……どこの伯爵夫人だよ?」
「言ったら分かるのか」
「分かんないかもしれないけど、まさかオウグウスの奥方じゃないよな?」
「いや、正解だ。このドレスはセウ伯爵夫人のものである」
「馬鹿な……そんなの俺が着れるかよ!」
「嫌なのか?」
「嫌だよ!!」
「お前が伯爵様を嫌がるのは分かるが、奥方様に罪はないだろう。ひっそりと〈塔〉の中で暮らしているだけだ」
「だいたい婆さんだろ。そんなの俺が着たらばれるじゃん」
「失礼だな。奥方様はまだ四十を超えたばかりだ。お前でもまだいける」
「まだいけるって……伯爵夫人が供も連れずに遠乗りなんて怪しまれるだけだろ」
「それが、そうじゃないんだ」
溜息をついたイオアンは膝の上で手を組むと、その上に顎を乗せた。
「奥方様は繊細な方でな。荒々しいセウ家の家風には馴染めず、ほとんどは部屋にこもってるんだ。読書をしたり刺繍をしたり楽器を弾いて過ごすこともあるが、まれにひとりで遠乗りに出かけられる。もちろんイグマス近郊だが、そうやってひとりきりになれる時間が奥方様にとっては必要なんだろう。ひとりで馬に跨る奥方様はイグマスでは有名だから、このドレスを着ている限り、お前は安全なんだ」
「変人……てこと?」
「そういう言葉は使いたくないが、否定はできない」
「そんな気が狂った女の真似なんか、俺には無理だと思うけど」
「奥方様は気が狂ってなどいない!」
とイオアンは声を荒げた。
「ただちょっと……いまは心を病まれているだけだ。いつか昔のように朗らかに笑える日も来るだろう……」
「悪かったよ。その……陰気な感じなのか?」
「いや、そうじゃない。なんというか……少女のまま大人になってしまったような感じなんだ。だから遠乗りのときには気軽に市民に声をかけたりする」
「じゃあ、ばれるじゃん」
「お前は声を出さず、手を振っていればいい」
「でもさ、そのドレス勝手にあんたが持ち出したんだろ?」
「そうだ」
「やばくない?」
「かなりやばい」
「あんたもちょっと変だよ。たかが一頭の馬のために、そこまでするなんて」
「言われなくても分かってる。お前も屋敷に閉じ込められて大変だろうが、いまの私だって死にそうな気分なんだ」
と言って、がっくりとイオアンは項垂れた。
「これは伯爵様が、奥方様のために帝都の仕立て屋ギルドに発注したものでな。出来あがるのに半年かかったそうだ。その工房も内乱で焼けてしまった。そういう特別なドレスを着させ、三百枚の金貨で購入した馬を盗ませようとしている……とんでもないことを私はしようとしているんだからな……」
「とにかく……そんな高価なもの、俺は着れないよ」
「でも、本当は嫌いじゃないだろう?」
「……やっぱり駄目だって」
「お前も頑固な奴だな」
イオアンが木箱から立ち上がり、エルにドレスを押しつけた。
「お前のために危険を冒して、奥方様の部屋から持ち出したんだぞ。早くしないと侍女たちに気づかれるかもしれない」
エルは絶対に嫌だとドレスを押し返そうとし、イオアンのほうは、お前なら似合うはずだと譲らなかった。言い合いをしているうちに、馬房のすぐ外で荷車が止まり、老人が喋る声が聞こえた。
ふたりは凍りつき、イオアンが呟いた。
「まずい、ククルビタが戻ってきてしまった」
「ククルビタ?」
「この馬房の馬だ。市場での買い物が終わったんだ」
馬房の外では、馬を荷車から外す音が聞こえている。
蒼ざめたイオアンは「こっちだ」と言うと、隣の馬房へ逃げた。エルもドレスを放り投げ、柵をくぐった。
ふたりは、ブッケルムの陰に隠れた。
「危険なブッケルムがいるから、ここまでは来ないはずだ」
とイオアンが囁くと、怯えた表情でエルが頷いた。
馬が鼻を鳴らす音が聞こえ、イオアンがそろそろと顔を出すと、ブッケルムの背中越しに、ククルビタが馬房に入ってくるのが見えた。
使用人の老人が水を与え、世話をしている。ひとつひとつの動作がゆっくりだ。
じりじりとした思いでイオアンが見守っていると、木箱に置かれた麻袋に気がついた老人が、ふと隣の馬房へ顔を向けた。
老人と目が合い、イオアンは固まった。
「これはイオアン様!」
と気づいた老人がにこやかに挨拶をする。
イオアンは騎士たちとは疎遠だったが、屋敷の使用人とは比較的仲が良かった。子供の頃からイオアンを見ているので、彼らも何かと気をかけてくれていた。イオアンのいっぷう変わった性格もよく理解してくれている。
とはいえ、まだあどけなさの残る少年を馬房に連れ込み、ドレスを着させようとしているというのは、あまりに説明が難しい状況だった。
「やあ……」
イオアンはぎこちない笑顔をつくった。
イオアンの背後に隠れたエルが、イオアンのローブにしがみついた。イオアンは両手を広げてエルを隠し、老人から見えにくい位置に移動しようと、少しずつ馬房の隅へにじり寄った。そんなイオアンの動きを、老人が怪訝な表情で眺めている。
「また、その馬の世話ですか」
「そんなところだ」
「……他に誰かおるんですか?」
ブッケルムの様子から何か異変を嗅ぎ取ったのか、柵に近づいた老人が、乾草の上に無造作に落ちている純白のドレスに気づいた。
「まさか、そこにいるのは女……?」
「いや、その、まだ女性にはなっていないんだが……」
イオアンは答えながら、後ろにいるエルが震えているのを感じ取っている。ここでエルが騒ぎ立てたら、いろんな意味ですべてがお終いだ。
「これから……そうなる予定だ」
「そうなる予定……?」
不思議そうに口にした老人が、何かを察したようだった。
「ほほう、真面目な顔をしてイオアン様も隅に置けませんな! 若い娘っこには優しくしてやらんといけませんぞ、くっくっく……」
含み笑いを洩らしながら老人は馬房から去っていった。




