第30話 報酬
「ブッケルムが覚醒だって?」
目を細めたエルが苛立ったように訊き返した。
「いきなり翼が生えて、空でも飛べるようになるとでもいうのかよ? 化け物でもなければ、あの小さな体が急に変わるわけないじゃん。オウグウスが自分の勘違いを認めないから、ブッケルムは不幸になってるっていうのに!」
「そういうことじゃない。おそらく内面的なことだ」
とイオアンが訂正した。
「ブッケルムの内側で何かが変わることを期待している。ずっと餌を食べないのも、現状に拗ねているだけだと伯爵様は解釈してるんだ。お前はブッケルムの名前の意味が分かるか?」
「そんなの知らないよ。あんたたちが名付けたんだろ」
「それは違う。屋敷に連れてきた騎士が仔馬をそう紹介したんだ。屋敷の者が言うには、兵役についた者ならピンとくる名前だそうだ」
「それで?」
「軍団で配られる保存用の硬いパンと名前が似ているらしい。おそらく牧場にいた頃から頑固だったのだろうな。そういうブッケルムだからこそ、余程の危機に陥らないかぎり自分からは覚醒しない……そう伯爵様は見てるんだ」
「危機って、いまにも死にそうなんだぜ?」
「私だってそう思っている。だからこそ、お前を呼んだんだ」
「じゃあ、どうするんだよ」
「何か原因が分かればいいと思ったが、お前の言う通り、ブッケルムが死にたがっているのなら……そして数か月水だけで生き続けているのなら……」
「早く言えよ」
エルは馬房の外を苛々と眺めた。
「俺はとっとと、ここを出たいんだからさ」
「……もう少し様子を見るのも有りなのかという気もする」
「本気か!?」
「もしかしたらブッケルムは、蛹から蝶に生まれ変わろうとしているのかもしれない。ほら、産みの苦しみというものがあるだろう?」
「あんたは馬鹿か? 本の読みすぎだよ。そういう人間の勝手な思い込みで、何頭もの馬が駄目になってきたんだ!」
そう吐き捨てるように叫ぶと、エルは立ち上がった。
「あの馬を潰したいのなら勝手にしな。俺は帰らせてもらう。報酬は?」
「しかし、これは私だけの考えじゃない。大勢の騎士を育ててきた伯爵様がそう考えてるんだ。お前だって分かるだろ? そう簡単には人間が変われないことを」
「馬を人間と一緒にしないでくれ!」
「じゃあ、どうしろと言うんだ? ブッケルム自身が死のうとしてるのに」
「オウグウスのことを無視して、勝手に売ればいいじゃないか」
「しかし、売るといってもだな……」
イオアンは頭を掻きむしった。
「原因不明で死にそうな馬なんか、誰も買わないと市場では言ってたぞ。仮に売れたとしても、ただのような金額だろう。金貨三百枚で買った馬を、勝手に売り飛ばしたと伯爵様に知られたら、私は首を切られるどころではすまないだろう……」
苦悩しているイオアンを、エルは醒めた目付きで眺めていた。
「いいから約束の報酬をくれよ。それから、どうやって屋敷を出るか教えてくれ。仕事は果たしたんだから」
しばらくイオアンは、絶望した表情でエルの顔を見つめていたが、やがて、のろのろと木箱から立ち上がった。木箱の蓋を開け、中から慎重に麻袋を取り出す。蓋を戻すと麻袋をその上に置いて、中からドレスを取り出した。
エルの前で広げてみせたのは、艶やかな素材でつくられた純白のドレスだった。魅入られたような表情で近づいたエルは、ドレスにそっと触れた。
絹でできているようだが、紙細工のような儚さを感じさせた。とても薄い生地だ。裏に手を回すと、掌の形がぼんやりと透けて見える。薄暗い馬房の中でも、星明かりを浴びた新雪のように淡い輝きを放っている。
そして、その白さも一様ではない。ドレスを手の上で傾けると、光の加減で雪のような白さから、真珠の輝き、しっとりとした象牙色まで様々な表情をみせた。
ドレスの胸元や大きく広がった袖口には、蜘蛛の糸のように細い金糸で、葡萄の蔓のような刺繍がびっしりと施されていた。
当時、死を連想させる白いドレスというのは、決して好まれるものではなかったが、エルはうっとりとした表情でドレスの生地に指を這わせている。
イオアンは贈り物を気に入ってもらえたようで安心していたが、あまりにもエルが触り続けているので、
「お前は、こういう高級な服を見るのは初めてか?」
と言ってドレスをたたんだ。
「いや、初めてじゃないよ。でも子供のとき以来だ」
とエルは夢から覚めたような表情で答え、
「ただ……」
と言って、イオアンが抱えているドレスを眺める。
「持ち運ぶにはかさばるな。こんなのを持って、どうやって逃げ出すんだ?」
「その心配は必要ない」
イオアンはドレスを麻袋の上にそっと置いた。
「この報酬を与える前に、お前にはもうひとつだけ仕事をしてもらう」
「何でだよ! 馬を診るだけって言ったじゃんか!」
そうエルが抗議したが、イオアンは意に介さなかった。
ブッケルムが永遠に失われることを思うと、もはやすべてがどうでもいいような、ささくれ立った気分に襲われていた。
「私の気分が変わった」
「くそっ、セウ家の連中はいつもこうだ!」
馬房の外を振り返ったエルを見て、
「仕事をやりたくないのなら出ていってもいいぞ。どうなるかは、お前もよく分かっていると思うが」
とイオアンが無表情に告げた。
あとは計画していたことを何も考えず、機械的に実行するだけだ――。
「お前には、ブッケルムを救ってもらう」
「救う? このまま放置するんじゃなかったのかよ?」
「今朝、伯爵様に提案したときまではそう思っていた。だが天幕でお前の話を聞いてから考えが変わった」
「天幕での俺の話って何だよ?」
「お前は、いままで盗みを働いて生きてきたんだろ?」
「……また牢獄塔の話を蒸し返すつもりか」
「そうじゃない。お前にしかできないやり方でブッケルムを救って欲しい。だからこそバルバドスの反対も押し切って、お前を屋敷に連れてこさせた」
エルが警戒する表情になった。
「俺にしかできないやり方……?」
「お前は天幕で誓ったな、メルクリウスにかけて、ブッケルムを大切にすると。確かメルクリウスは、盗賊の守護神でもあったはずだな?」
「くそ……軽々しく誓わなけりゃ良かった」
エルは唇を噛んだ。
「そう言うな。その神々への誓いこそが、ブッケルムを守ってくれるはずだ」
イオアンは深呼吸を繰り返した。
体が震えている。
これから私は、神にも等しい父上に逆らおうとするのだ。
「お前には、ブッケルムを盗み出してもらう」




