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綺麗な首飾り|孤独なエルフの貴公子と、居場所のない盗賊の少年が、深くつながる物語  作者: 神代紫音
第一章  セウ家の屋敷|深夜~早朝|イオアンが愛馬を救うため伯爵に直訴する
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第3話 ブッケルム2

もちろん返事はない。

耳だけが、イオアンのほうを向いている。


「朝までに食べなければ、父上に進言するからな」

イオアンは、必ずブッケルムに伝わるように厳しく宣告した。

「そうなったら、お前と私は離れ離れになるんだぞ? そうなりたくはないだろ? だったら、頼むから食べてくれよ……」


父上に報告すれば決定的な判断が下されるだろう。

その結果を考えると、イオアンは胸がふさがる思いだった。


改めて状態を確かめるため、馬房のランプに火をつけようかと思ったが、イオアンはやめることにした。いまの痩せ衰えたブッケルムなど見たくなかった。

どうせ朝になれば分かるのだ。


「今度こそ本気だからな! お前が言うことを聞かないからだ!」

怒っている口調でイオアンは話しかけたが、やはりブッケルムは気のない様子で頭を動かしている。今度は優しく誘いかけた。

「なあ、また元気になれば遠乗りにだって行けるんだ。北の草原に行こう。覚えているだろう? アルケタと一緒に行ったじゃないか」


あれは今年の春のことだ。

そのときのことを思い出して、またイオアンは涙が出てきた。

あのときは、まだ元気だったのに。


イオアンは鼻をすすると問い詰めた。

「お前だけ消えて、私をひとりぼっちにする気か?」

もちろんブッケルムは反応しない。


イオアンは溜息をつくと馬房の奥へ進んだ。寝藁の山に座り、木の壁に体をもたせかけ、ブッケルムの小さくて黒い陰を眺める。


生きているのが不思議なくらいだった。

痩せてはいるが、まだ意識ははっきりしているようだ。

気力だけで生きているのか? それとも、もしかして本当に〈魔の馬〉だから死んだりしないのだろうか?


〈魔の馬〉とは文字通り、魔物の血を引いている馬のことである。

三百年ほど昔、魔物の大襲来のときに捕獲された魔性の馬の子孫たちであり、通常の軍馬よりもさらに体が大きく、脚が速く、気性も激しかった。


三年前、その伝説の〈魔の馬〉だという触れ込みで、まだ仔馬だったブッケルムを連れた男が屋敷にやってきた。話を聞いたイオアンの父親であるセウ伯爵が即決し、それからは軍馬として調教してきたのだった。


だが、それは見込み違いだった。

ブッケルムは大きくならず、脚も速くなかった。

調教を嫌がり、そのうち馬丁や騎士たちに反抗的な態度を取るようになった。体は小さくても、気性の荒さだけは一人前で、よく怪我をさせた。


しだいに伯爵はブッケルムの存在を無視するようになり、それを見た馬丁たちも手を抜くようになった。

それで、イオアンが世話をするようになったのだ。

べつに嫌ではなかったし、なぜかブッケルムもイオアンだけは嫌がらなかった。


のけ者同士、ということなのだろう。


タイミングもちょうど良かった。

ベッドで寝たきりだったイオアンにも体力がついてきた時期で、ときどきブッケルムに乗っては遠乗りに出かけた。


スピードは出さない。

ブッケルムの好きなように歩かせる。

草原に出ると、春先の柔らかい新芽を夢中になって食べていた。


今年の春のことだ。

それが、どうしてこんなことになったのだろう。

怪我はしていないし、病気をしているようにも見えない。

馬医者も、馬丁たちもお手上げだった。


イオアンは泣きそうになるのを抑えながら、後頭部を馬房の壁にぶつけた。


たぶん屋敷の誰もが思っていることだろう。

こんな手間のかかる馬は、とっとと屋敷から放り出してしまえと。


ある意味、イオアンもそうするしかないと思い始めていた。


ブッケルムは〈魔の馬〉なんかじゃない。この屋敷はこいつの居場所じゃない。どこかの農場で働いているべきなんだ。そうしたら、また元気になるかもしれない。たとえ私と別れることになったとしても、そのほうがいいんだ――。


だが、それを口にすることはなかった。

騎士や馬丁たちが、屋敷で口を閉ざしているのと同じ理由だった。


ブッケルムを売り払うということは、売りに来た男の言葉を真に受けて、大金を支払った伯爵が間違いだったことを意味する。そんなことを進言すれば、年老いた伯爵は激怒するかもしれない。屋敷から放り出されるのは、ブッケルムではなく自分になるかもしれないのだ。


でも、誰かが言わなくては。

そうしなければ、ブッケルムは死んでしまう。

そして、屋敷でブッケルムを心配しているのは自分だけだ。だから自分が明日、父に進言しなくてはならないのだ――。


イオアンはみぞおちあたりに、ずしりと重たいものを感じた。

恐怖で胃に穴が開きそうだ。

厳格な伯爵がどんな反応をするのかと思うと、恐ろしかった。


とにかく明日の朝、ちゃんと餌を食べていれば、こんな心配はなくなるんだ。

頼むから、昔のブッケルムに戻ってくれ――。

そんなことを神々に祈っているうちに、イオアンの瞼はだんだん重たくなっていき、いつのまにか藁の上で寝てしまった。


※ ※ ※


鍛冶屋が金床を叩く音。

井戸のまわりで野菜を洗う女たちの笑い声。

暗い馬小屋に一筋の朝日が差し込むと、イオアンは目を覚ました。


藁の上で体をゆっくりと起こす。

外を向いているブッケルムの尻が見え、使い古された箒のように貧相な尾が見えた。馬房の外は明るくなり始めている。


立ち上がって、飼葉桶の中をまだ見たくなかった。

減っていなかったら、大広間に行き、伯爵に伝えなければならなくなる。

頭はすっきりせず、胸のうちは重たかった。いつもの悪夢を見たせいで、よく眠れなかったからかもしれない。


何かに追われている夢。

見覚えのある灰色の町を逃げ回っている。

何に追われているのかも、なぜ追われているのかも分からない。

いつも私は何を恐れているんだ?

無能である本当の自分の正体を、みんなの前で暴露されることだろうか?

だが、いつまでも逃げ回っていても仕方ない。


ゆっくりとイオアンは立ち上がると、時間をかけてローブの藁屑を払った。馬房の前まで進み、飼葉桶を覗き込む。


減っていない。

床の乾草の山も、昨日と同じだ。


予想はしていたとはいえ、がっくりきた。

重たい溜息をつくと、イオアンはブッケルムを見た。


毛並みに艶はなく、肋骨も、背骨も、皮が張り付いたように浮き出ている。そのくせイオアンを見る目だけは爛々としており、少し怖かった。様々な思いが胸の奥で詰まるが、かける言葉は見つからない。


ブッケルムは苦しんでいるのだろうか?

あとは私が決断するしかない。


イオアンは覚悟を決めると、馬房の外に出た。死刑を宣告された罪人のような足取りで屋敷の大広間へ向かった。

東から昇る赤い太陽がぎらぎらと眩しかった。


さあ、たったひとりの友人の運命を決めに行くとしよう。


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