第26話 診断
「ふざけんなよ! こんなの〈魔の馬〉のはずがない!」
いきり立ったエルがイオアンに詰め寄った。
「こいつを俺の餌にしたんだろ!」
「落ち着け!」
エルの非難に、イオアンは顔を強張らせた。
「ブッケルムが〈魔の馬〉かはどうでもいいだろう。病気の原因を調べてくれさえすれば、お前は外に出られるんだ」
「本当だな? 報酬も忘れてないよな?」
「ちゃんと用意してある」
「……ならいいけどさ。〈魔の馬〉だと思って期待してたのに。こんなのを診るために、俺はセウ家の屋敷に忍び込んだのかよ……」
エルはぶつぶつ言いながら、隣の馬房へ近づいていった。
エルがゆっくりと柵の前に立つと、ブッケルムはさらに馬房の奥へ後ずさり、エルのほうへ頭を向け、低く下げた。
威嚇するように鼻を鳴らし、耳を後ろに伏せている。
引っ掻くように前肢で地面をこすり、いまにも飛びかかってきそうに見えた。
エルは柵をくぐって、ブッケルムの馬房に入った。
「大丈夫、大丈夫……」
両手を広げ、ゆっくりとした低い声でブッケルムに話しかける。まだ馬は警戒しているが、前肢をこする動作をやめた。
小さなブッケルムの肩の高さは、エルの目線と同じぐらいだった。普通の軍馬なら一回り大きく、〈魔の馬〉ならもっと大きいだろう。肩も、脇腹も、尻のあたりも肉が落ちている。病気という感じはしないが、小さな傷跡があちこちにあった。
「あの傷は? 最近できたみたいだけど」
エルの様子を観察していたイオアンが後ろから答えた。
「誰かが馬房に近づくと、さっきみたいに襲いかかろうとして、横木や柱に体をぶつけるからだと思う」
「なんで、そんなに攻撃的なんだ」
「昔はそうじゃなかったんだが、いろいろあった」
「いろいろ?」
イオアンがそれ以上説明しなかったので、エルはブッケルムに視線を戻した。両手をゆっくりと広げ、子守歌のように優しい声で話しかけた。エルが左手を差し出すと、ブッケルムが匂いを嗅いだ。
「よし、いい子だ」とエルが頭や首筋をさする。
さらにブッケルムは身を乗り出し、エルの体に鼻面を押しつけてきた。イオアンから見ても分かるほど、明らかにブッケルムの興奮がおさまってきている。
「お前の匂いで落ち着いてきたようだ」
「俺のじゃない。いままで俺が世話をしてきた馬の匂いさ。何十頭もの匂いが服に浸み込んでるから」
「そういうものか」
「そう。馬は目より鼻のほうが利くみたいなんだ。馬同士なら匂いで、相手が牡なのか牝なのか、健康状態や気分、発情期、群れでの地位……そういうことまで分かるってダマリが言ってた」
「例の捕まった仲間のオークか?」
集中しているエルは返事をしなかった。ブッケルムの頭が床に触れるほど下がり、その耳のあいだを掻いた。そのままゆっくりと首筋、肩から尻へと指先で触れていく。いまやブッケルムは完全にリラックスしていた。
「驚いたな」
とイオアンが感嘆の声をあげた。
「私以外でそこまで馴れたのは、お前だけだろう」
「うん……」
生返事をしたエルは、ブッケルムに触れている指先に神経を集中させている。
「疝痛じゃないと思うけど、外で変なものを食べたりしてないよね」
「前は私が遠乗りに連れていっていたが、それは絶食するずっと前だ。いまは他の馬と同じ餌を与えている……食べはしないが」
「その他の馬はどこにいる」
「軍馬のことか?」
「セウ家の屋敷なんだから、相当いい馬を揃えてるんじゃないかって楽しみにしてたんだけど」
「軍馬たちの厩舎は別にある」
「こいつが〈魔の馬〉なら、なんでこいつだけ?」
「いろいろあったんだ」
「だから、そのいろいろって何だよ」
「他の馬を脅かす、馬丁を怪我させる、前を通る者を威嚇する……それで、ここに隔離させられた」
「へえ、お前は小さいくせに、ずいぶん性悪なんだな」
そう言って馬の首筋を撫でているエルの視線は優しかった。見つめ返すブッケルムの大きな黒い瞳も、今では眠たげなものになっている。エルはブッケルムの鼻面を軽く叩くと、柵をくぐって、イオアンのいる馬房へ戻ってきた。代わりにポカテルが、ブッケルムの足もとで寝そべった。
エルはイオアンの顔をちらりと見たが、何も言わない。
イオアンは我慢しきれず、
「どうだ?」
と祈るような気持ちで尋ねた。
あっという間にブッケルムを手懐けただけに、エルの見立てに期待していた。同時に、もし悪い答えの場合、受け入れるしかないことを恐れていた。
質問されたエルは答えずに、しばらく隣の馬房のブッケルムを眺めていた。やがて、ゆっくりと口にした。
「病気でも、怪我でもないと思う」
「じゃあ原因は……」
「悪いけど、俺にも分からない」
「やはりそうか……」
がっくりきたイオアンは木箱の上に座って、両手で顔を覆った。それを見たエルが気の毒そうに口にした。
「……せめて、もう少しちゃんと面倒を見てあげたらいいと思うけど」
「すまない。私の毎日の世話が行き届いていないせいだ」
「そんな謝ることはないだろ。だって、あんたは馬丁じゃないんだろ?」
「彼らが嫌がるから、代わりに私がしている」
「あんた……何者なんだよ?」
イオアンが顔を覆ったまま答えないでいると、エルがしつこく質問した。
「あんた僧侶でもないよな? あんな大金を物乞いにあげるはずがない。でもセウ家の人間なんだろ? なあ、あんたは一体何者なんだよ」
どう答えるべきか、イオアンは迷った。
結局ブッケルムの病気の原因が分からなかったせいで、自暴自棄な気分になっており、いっそ自分の正体を明かそうかと思った。
さぞかしエルは驚くことだろう。
その顔を見てみたいとも思ったが、セウ家に憎しみを持っているエルが騒ぎ立てれば、自分が父親に叱責されるのはもちろんだが、エルの命まで危うくなる。
天幕のときは、エルをただの小汚い盗賊だと思っていたが、ブッケルムの扱い方を見て、微かな尊敬の念が芽生えていた。
イオアンは両手で顔を隠したまま、
「私は学者だ」
と小さな声で答えた。
できるかぎり、不自然ではない身分を選んだつもりだったが、
「学者ぁ?」
とエルは疑わしそうな声を出した。
「なんで学者が、セウ家の屋敷まで馬の世話に通うんだよ。おかしいだろ」
「その……私は家庭教師なんだ」
言い訳を思いついたイオアンは顔を上げて答えた。
「そう、私はアルケタ様の家庭教師なんだ! 彼は剣のほうは一流だが、学問のほうが疎かになっていてね。それで仕方なく泊まり込みで教えている」
「そう言えば、確か……」
エルは思い出すような顔になった。
「あそこでも、アルケタがどうのこうのって、あんたは言ってたな……」
「そ、そうだな。つい馴れ馴れしく呼び捨てにしてしまう」
「セウ家に仕えてるのは金のためかよ。それで、しょっちゅう金貨が貰えるわけだ」
「べつに金など欲しくはない」
ムッとしてイオアンがそう答えても、エルは信じていないようだった。
「じゃあ、なんでこの屋敷にいるんだよ」
「お前には分からない、大人の事情というものがあるんだ」
「俺が分からないのはさ、ただの家庭教師に過ぎないあんただけに、どうして性悪のブッケルムが懐いたのかってことだよ」
「それはおそらく、私が調教に参加していなかったからだろう」
「……調教?」
「あれを調教というのか訓練というのか、私にはよく分からない」
そう言って、イオアンは沈痛な表情を浮かべた。
「そもそもの始まりは、お前たち〈首なし騎士団〉の男が、ブッケルムを屋敷に売りに来たところから始まったんだ……」




