第25話 梯子
もう昼を過ぎている。
〈塔〉が地面に濃い影を作っていた。
一足先にセウ家の屋敷に戻っていたイオアンは、大きな麻袋を抱えて、ブッケルムの隣の空いている馬房に入った。
その後ろを、ポカテルが尻尾を振りながらついてくる。
エルという少年に渡す報酬だった。
奥の木箱を開けると、そっと包みを中に置いた。
彼が気に入るといいが――。
少年が贈り物を拒否した場合、いろいろまずいことになる。
だが人の好みは様々だ。こればかりは渡してみないと反応は分からない。
蓋を閉めたイオアンは柵をくぐり、隣の馬房に入った。ブッケルムは首を下げて、ポカテルの匂いを嗅いでいた。イオアンは艶のない毛並みを眺めると、金櫛で首筋を掻いていった。気持ちよさそうに馬が上唇を突き出す。
「〈首なし騎士団〉のメンバーと市場で偶然会ったんだ。凄いだろ? 見習いの少年だけどな。そう、まだ子供だけど、怖い眼で私を睨んでいた。ああいう掏摸をするのは盗賊なのかな?」
イオアンは豚毛のブラシに替えた。
「盗賊みたいな連中は初めてだったから恐ろしかった。精一杯父上の真似をしたよ。あとは芝居の台詞だったっけ? 『断れない申し出』を必死に考え出した。頭がくたくたに疲れた。慣れないことをするもんじゃないな」
「これも全部、お前のためなんだぞ」
イオアンがブッケルムの顔に両手を添えると、馬は頭を下げた。
「もっと私が上手くやれれば良かったんだろうが、アルケタのように気さくには話せない。あとは、ちゃんと診てくれるのを祈るばかりだ」
イオアンは額を、ブッケルムの頭にこつんとぶつけた。
「もしかしたら、お前の出生の秘密も伝えることになるかもしれないな。そうしないと、あの少年は信じてくれないだろ?」
ブッケルムに体をつけたまま、しばらくイオアンは物思いに耽っていた。
コツコツという音が聞こえ、隣の馬房を見ると、バルバドスが柱を叩いていた。たぶんブッケルムに近づくのが嫌なのだ。イオアンは馬から離れた。
※ ※ ※
馬房の入口に寄り掛かっているバルバドスに、
「あの少年は?」
とイオアンが訊いた。
バルバドスが首を後ろにひねった。
イオアンが馬房から身を乗り出して、井戸の向こうを眺めると、豚小屋の陰に隠れているエルが見えた。
「どんな様子だ?」
そう尋ねると、バルバドスが急に顔をしかめたので、イオアンは声をひそめた。
「何かまずいことでもあったのか?」
「いや、そうじゃない」
バルバドスは腰をさすった。
「あの〈梯子〉のせいでここを打った。小僧はびびってるよ」
「びびってる? 天幕ではずいぶん威勢が良かったが」
「いきなりセウ家の屋敷に忍び込むとまでは思ってなかったんだろう。分かったとたん怖気づいた。宥めるのに苦労した。結局昇るのを決心したが、何か思うところがあるんだろうよ」
「何かとは何だ?」
「分からんが、良からぬことを企んでそうな気がする。あと、イオアン様は何者なんだって何度も聞かれたぞ」
「どう答えた」
「何も言ってない。本人に訊けと誤魔化した」
「そうか……ここまで来たら、正直に話したほうがいいだろうか?」
「どうかな……?」
バルバドスは顎髭を撫でた。
「南大陸の連中は、従順な振りをしてたって、肚の底じゃ俺たちに敵意を持ってるからな。あまり信用しないほうがいい」
「なぜ敵意を持つ?」
「なぜって、そりゃセウ家の人間が酷いことをしてるからだろ」
「そうなのか」
「そうなんだよ。市場で小僧がニナに話しているのが聞こえたんだ。あいつも可哀そうだとは思うが、どこの公爵家でもやってることだ」
「では、正体は隠しておいたほうがいいか」
「それを勧めるね。しかし、どうやって小僧を逃がす。〈梯子〉は使えないぞ」
「方法は考えてある」
「ククルビタは?」とバルバドスが、空いている馬房の馬の所在を訊いた。
「たぶん市場にでも行ってるのだろう」
「伯爵様とアルケタ様は?」
「ふたりとも屋敷に戻っているはずだ」
「だとすると、あまり悠長なことはしてられんな。しかし本当に大丈夫なのか? 言っとくが、もう俺は手を引くからな」
「もちろん大丈夫だ」
と答えたものの、正直自信のないイオアンは唇を噛んだ。
「あの少年を連れてきてくれ」
※ ※ ※
イオアンが馬房から外を眺めていると、エルがぎくしゃくとした足取りで、井戸の前を突っ切り、馬房の中へ駆け込んできた。
エルは入口の陰に隠れると、すぐに屋敷の敷地を見回した。
「ここから、どうやって逃げ出すんだよ」
「そんなことは後回しだ。まずはブッケルムを診てくれ」
「やだね」
エルが緊張した様子で振り返った。
「あの樅の木は、下には降りれないんだろ?」
「〈酔っ払いの梯子〉か」
「そう、その変な名前の仕掛けだよ」
時間が惜しかったが、ブッケルムを診断しないかぎり、屋敷から出られないことをエルにはっきりと理解させるため、イオアンは説明することにした。
〈酔っ払いの梯子〉とは、敷地の外に生えている樅の巨木のことである。
セウ家の敷地は、イグマスの旧市街にある小高い丘の上に立っている。まわりはすべて切り立った崖で、丘の上の屋敷に入れる門は一箇所しかない。
当主であるセウ伯爵は、配下の騎士たちに、食事のとき以外の飲酒を禁じていた。それも水のように薄いワインだけ。
騎士たるもの常に戦場にいる心構えで生きるべきであり、そして戦場においての酩酊による失態など、騎士としてあり得ないという伯爵の哲学によるものだった。
とはいえ、若い騎士には酷な話である。
しばしば彼らは新市街に抜け出しては、こっそり酒を飲んだ。
だが、夜には屋敷の門を閉ざすので、門限を過ぎると中には入れてもらえず、翌朝〈塔〉にいないことがばれてしまう。
規律を乱した騎士に対しては、伯爵は厳罰を処した。
これを回避するために生み出されたのが、〈酔っぱらいの梯子〉だった。
北側の崖の下に生えているこの樅の巨木には、枝から白い縄が掛けられ、それを辿っていけば、酔った騎士でも太い幹をつたって丘の高さまで登り、そこから飛び降りられるようになっている。
飛び降りると、人目のつかない〈塔〉の北側に出た。
年配の騎士もこのことは知っているが黙認している。なぜなら彼らもまた、若い頃は〈酔っ払いの梯子〉の世話になったからだ。
つまり知らないのはセウ伯爵のみ、ということになっていた。
聞き終わったエルが疑わしそうな顔をした。
「でもあれじゃ、盗賊が屋敷にいくらでも忍び込めるだろ? おかしくない?」
「では、お前は実行しようと思うか?」
「え、それは……」
「たとえ敷地に入れたとしても〈塔〉の中にいるのは、セウ家の騎士たちだ。敷地は兵士が巡回し、〈塔〉の上にも見張りがいる。そして、さっきお前が指摘したように、〈酔っ払いの梯子〉から敷地に潜入することはできても、その逆はできない。それでもお前は入ろうとするか?」
「門からしか出られないってこと?」
「そういうことだ」
「その馬を診たら、俺は門から出してもらえるのか?」
「いや、門番が許さない。伯爵様が〈首なし騎士団〉を毛嫌いしてるからな」
「じゃあ、俺はどうしたらいいんだよ!」
「だから方法は考えてある。たったひとつの冴えたやり方をな」
「それを早く教えろよ」
「駄目だ」
「知らないと、気になって馬をちゃんと診れないだろ」
エルの言い分はもっともな気がしたが、イオアンは譲らなかった。セウ家へ敵意を持っているエルが、ブッケルムをちゃんと観てくれるのか心配していた。
「お前がちゃんと診てくれれば、すぐに教える」
エルは不満そうだったが、渋々と頷いた。
「じゃあ、その〈魔の馬〉を連れてきてくれよ」
イオアンが隣の馬房へ顎をしゃくってみせた。
「すでに、そこにいる」
「え?」
怪訝そうな表情でエルが、隣の馬房へ近づこうとしたので、
「おい、気をつけろ!」
とイオアンが慌てて声をかけた。
「ブッケルムはとても気性が荒いんだ!」
エルに気づいたブッケルムは、馬房の奥へ後ずさり、頭を低くして、耳を伏せた。
唇をめくり上げ、長く黄色い歯を剥き出しにしている。
相手に噛みつくぞと威嚇している姿勢だった。
エルが足を止め、柵に手をかけた。
するとブッケルムは、柵が壊れそうな勢いで突進し、慌ててエルが引っ込めた指のあった空間を噛み砕いた。
馬の歯が噛み合った硬い音が馬房に響く。
それでもエルは冷静に、ブッケルムの様子を眺めていた。
ブッケルムが充血した白目を剥いて、エルを睨みつけている。荒い鼻息が、白い蒸気となって吹き出していた。
確かにイオアンが注意した通りの気性だったが、ブッケルムは軍馬というには明らかに小さく、みすぼらしかった。エルの目には、背骨山脈の村によくいる牛追いが使うような小さな馬のように見えた。
大きな茶色いぼろ雑巾が立っている。
「これのどこが〈魔の馬〉なんだよ」
振り返ったエルは、ブッケルムにも劣らないような憎しみを込めて、イオアンを睨みつけた。
「俺のことを騙したんだな!」




