第24話 首
念押しされたイオアンは、エルに言い返そうとした言葉を飲み込んで、
「……分かった。メルクリウスに誓おう。二度とお前を傷つけないと」
と不本意そうに口にした。
あえてエルが神々を指定しなかったのは、イオアンがどの神に誓うかで、本人の性格を測ろうととしていたからだった。
イオアンが一般的なユピテルではなく、騎士階級のセウ家らしくマルスでもなく、僧侶が信じていそうなミネルヴァでもなく、商業や旅行を司るメルクリウスを選んだのは意外な気もしたが悪くはない。
へえ、メルクリウスか――。
彼が守護するのは旅人であり、盗人も含まれるのだから。
だとしたら、さらに俺が上乗せしてやろう。
「じゃあ、俺も誓うよ」
エルはイオアンをじっと見つめてこう言った。
「メルクリウスにかけて、そのブッケルムを大切にすると」
イオアンが驚いた表情を浮かべたので、エルは満足した。
これでブッケルムを助けるのは、ただの「簡単な仕事」ではなくなった。お互いに神に誓うことで、気儘に放棄できない重要で神聖な仕事に変わったのだ。つまり、気に入らないからと言って、エルを放り出すことはできなくなった。そんなことをすれば、神々の怒りに触れることになるだろう。
先生の教えによれば、取引で大事なのは終わり方だ。
相手がその気になっているときに、そのタイミングを逃さず、大きな金額の契約を結ぶ必要がある。
カモが冷静になってからでは遅いのだ。
「これで俺が本気なのは分かってもらえたと思う。だから報酬が欲しいんだけど」
とエルがさりげなく口にすると、
「報酬だと!?」
驚いたイオアンが目を見開いた。
「だってさ、その馬を診なきゃ、俺はいまごろ家に帰ってのんびり茶でも飲んでるところなんだぜ。それをわざわざ、見ず知らずのあんたのために貴重な時間を割こうとしてんだから、まさか無料ってわけにもいかないだろ?」
さも当たり前だろうという口調でエルは話してみたが、何を考えているのかイオアンが黙ったままなので、さすがにやり過ぎたかと後悔していると、
「いいだろう、もっともな意見だ」
とイオアンが答えた。
「だが、いま手持ちの金はない。屋敷で仕事を終えたら与えよう」
ホッと胸を撫で下ろしたエルが、さらに、
「前払いでいんだ。さっきの金貨があるだろ?」
と狡賢そうに口にすると、
「馬鹿野郎!」
とバルバドスが作業台から鉈を掴んだ。
「さっきから話を聞いてりゃ、いい気になりやがって!」
「バルバドス!」
とエルに襲いかかりそうだったバルバドスを、イオアンが押し留めた。驚いて後ずさっているエルにイオアンが告げた。
「金貨よりもっといいものがある。お前に与えるのは高価な衣装だ。帝都で作られた特注品で、小柄なお前ならぴったりだろう。もし気に入らなければ売ればいい。売り方次第では何枚もの金貨が手に入るはずだ」
バルバドスから距離をとったエルは目を細めた。
「へえ、悪くないじゃん」
世界にひとつしかない特注品というのが、エルの心をくすぐった。
「じゃあ、それで手を打つよ」
薄ら笑いを浮かべたエルを睨みつけていたバルバドスは、イオアンの袖を引くと、エルには聞こえないところで忠告した。
「ブッケルムが可愛いにしてもやり過ぎだ。あれは〈魔の馬〉なんかじゃない」
「私だってそう思っている」
「じゃあ、なぜだ」
「〈首なし騎士団〉のメンバーに診て欲しいんだ。たとえ見習いだとしても」
「一頭の駄馬のために、そこまでするのか」
バルバドスは苦り切った顔をすると、
「〈魔の馬〉だと信じ込んでいる伯爵様もどうかしているが、イオアン様も狂ってるぞ。親子そろってまったく何をしてるんだ」
と言って、エルを振り返った。
「それに、あの小僧は信用できない。ただの盗賊かと思ったが、俺の見込み違いだった。疫病神だよ。やっぱり俺は反対だ」
バルバドスが一気にまくしたてると、イオアンが静かに尋ねた。
「あの少年が、私から盗んだ金はどうした?」
「え?」
「金貨三枚を盗んだのだろう?」
「ああ、あれか! 後でイオアン様に返そうと思ってたんだ。あの小僧のせいで、すっかり忘れていたよ、ほら」
「それは受け取ってくれ。少年を送り届ける駄賃だ」
「いや……さすがに多すぎるだろ」
「いいんだ。代わりに今回のことは馬鹿げていると思っても見逃してほしい。お前が心配するのも分かるが、そうしないと気がすまないんだ」
「うーん。そうか……」
バルバドスは掌の金貨をちゃりんと鳴らすと、再び革袋にしまった。
「光るものを出されると、何でも頷いてしまうのが、元傭兵の哀しい性だな」
「感謝している。あとは頼んだぞ」
天幕を出ようとしたイオアンが立ち止まり、入口の前で振り返った。
「お前の名前はなんと言うんだ?」
新市街でバルバドスから逃げ出すことと、馬を診て報酬を貰うことを天秤にかけていたエルが、きょとんとした様子で顔を上げた。
「……エルだよ」
「エル、最後にひとつだけ言っておく」
イオアンは父親の伯爵に似た鋭い視線で、エルを射抜いた。
「神への誓いを、お前がどれだけ重く考えてるのかは分からない。だが、仲間のオークは牢獄塔に入ってるんだ。お前がおかしなことをしたら、そのオークの命まで危なくなることを忘れるなよ」
イオアンはそう言い放つと、天幕から出ていった。
この最後の一言で、冷や水を浴びせられたような気分になったエルは、血まみれの鋸屑が敷き詰められた床を見つめた。
くそっ、あいつもセウ家の一員なんだ。
人間の命なんて、なんとも思ってないことを忘れてたぜ。
バルバドスに声をかけられると、暗い目をしたエルも天幕の外に出た。
※ ※ ※
薄暗い天幕から外に出たエルは、日差しの眩しさに目を細めた。
イオアンの姿を探したがどこにも見当たらなかった。天幕の外では、鶏が入った籠が並べられていた。三羽の鵞鳥が歩き回っている。どこかの市場の一角のようだった。頭を回したエルは、遠くにヤヌスの大理石像があるのを見つけた。
なんだよ、同じ市場だったのかよ!
どこか遠くに連れ去られたと想像していたエルは、拍子抜けした。
天幕の前では、作業台で肉屋が鶏を捌いていた。太った男は手を止めて、
「もう、いいんですかい。そろそろ天幕を使いたいんですがね」
とバルバドスに文句を言った。
「残念だが、これは必要なかった」
バルバドスは血で汚れた前掛けを外して、肉屋に押しつけると、
「迷惑をかけたな」
と言って作業台に銀貨を一枚置き、エルには声もかけずに市場を歩き出した。
エルはヤヌス像を眺めながら考えている。
あのニナという物乞いの少女に、もう一度話したかった。あの子が俺をセウ家の若者に引き合わせてくれた。
長いあいだ、村の姉妹のためにも、セウ家に借りを返したいと思っていた。
それが、こうして奇跡的に実現したんだ。
ダマリのことは気をつけなきゃいけないけど、上手いことやって、奴から何か盗み出してやる。
けど、先生の言う通りだ。
セウ家の連中に悟られずに、盗まれことさえ気づかれないようにやるんだ。
そうだ。芸術的に、美しく――。
バルバドスが遠くを歩いていることに気づくと、エルは慌ててその後を追っていき、それを肉屋が不思議そうに見送った。
気を取り直した肉屋は作業台を見下ろすと、鶏を押さえつけ、大きな鉈で一刀のもとに首を斬り落とした。
鶏の胴体が、油まみれの手から滑り落ちる。
首がない胴体は、逃げようと天幕の前を狂ったように走り回ると、突然倒れ、しばらく地面の上で、ひくひくと体を痙攣させていた。




