第2話 ブッケルム1
イオアンの部屋は屋敷の増築された部分にあり、入り口は別にあった。外に出てから数歩で、早くもイオアンは後悔し始めていた。
すでにブッケルムが死んでいたらどうしよう?
イオアンは恐ろしくなってきた。
ひとりしかいない友人の死体を自分が発見するなんて、そんなのは絶対に嫌だ。それに、変に疑われるかもしれない。
いまは遠征前で兵士が増えている。
それも新兵が多い。
混み入った事情を説明するだけでも面倒なことになりそうだ。無理そうだったら諦めて、ベッドに戻るしかないか――。
イオアンは注意深くあたりの暗闇に目を凝らした。
エルフなので多少の暗視は利いた。
いまのところ誰もいない。
イオアンの肌の色なら、闇に紛れることができるだろう。
エルフにしては珍しくイオアンは肌が浅黒かった。それも闇エルフのような青黒い色合いではなく濃い褐色である。これは母方の血によるもので、一族では稀にイオアンのような肌の者が生まれた。髪は耳までかかる銀髪である。
イオアンは深呼吸して、気持ちを落ち着かせた。
七月の夜の空気は生ぬるくて湿度があった。それでも近頃の昼間の暑さに比べれば、ずいぶんと過ごしやすい。
イオアンは屋敷を見上げた。
セウ家の屋敷は八階建ての砦のような建物である。イグマスの市民からは畏怖の思いを込めて〈塔〉と呼ばれている。
月のない夜空に〈塔〉が黒々とした陰になっている。
屋上の篝火が、矢狭間の鋸状の縁を照らしていた。あそこから兵士が敷地を見下ろしているはずだ。
見つからないように死角となる壁際に沿って進み、イオアンは〈塔〉の西側へ無事に進むことができた。
ハッ、ハッという音に驚いて振り向くと、白犬のポカテルだった。屋敷で飼われている毛むくじゃらの大きな犬で、イオアンも可愛がっている。
可愛がってはいるが、いまは邪魔だった。
前脚を上げて、のしかかるようにイオアンに抱きつこうとしている。
「こら、ポカテル。やめるんだ」
と犬とじゃれ合っているうちにハッとした。
誰かの話し声が遠くから聞こえてきた。
巡回している兵士のようだ。しだいにブーツの足音が近づいてくる。
見つかったらどうしよう。
イオアンはポカテルを抱きかかえると〈塔〉の陰に身を潜めようとした。
だが何かを踏んでしまい、壁に立てかけてあった農具のようなものが、地面に音を立てて派手に倒れた。
足音が止まり、
「誰かいるのか?」
という張りつめた若い兵士の声。
頭が真っ白になったイオアンは、咄嗟に重たいポカテルを放り投げた。わう!と鳴き声をあげて、大きな犬が壁の向こう側に着地した。
「なんだ、お前か。もう脅かすなよ!」
という緊張を解いた兵士の笑い声。
しばらくすると、兵士たちの声は遠ざかっていった。
イオアンは胸を撫で下ろす一方、なぜセウ家の嫡男である自分が、こんなこそこそと行動しなくてはならないのだと憤ったが仕方がない。
屋敷でブッケルムしか話し相手がいない自分が、馬小屋に通っていることは誰にも知られたくなかった。
仮に、それが事実だとしても(事実なのだが)彼の誇りが許さない。
また騎士たちの笑い者になるだけだろう。無神経な彼らには、自分の苦しい気持ちなど何ひとつ分からないのだ。
そう、あいつだけが私の気持ちを分かってくれる――。
人付き合いが苦手なイオアンでも、ブッケルムなら何でも話すことができた。
日々の辛いこと、楽しいこと。密かに誰かの悪口をぶちまけたり、壮大な思想を語ってみせることもあった。
どんなときも優しい目をしたブッケルムは鼻面を寄せ、イオアンの言葉に何も言わずに耳を傾けてくれた。そして絶対に否定しない。すべてを話し尽くすと、胸のうちがすうーっと軽くなった。こうやってイオアンはこの数年間、孤独で苦しい毎日をやり過ごしていたのである。
思い出に浸っていたイオアンは、気を取り直すと先へ進んだ。
さらに進むと〈塔〉に沿って作られたセウ家の厩舎の通路を通ることになる。ここには帝国でも選りすぐりの軍馬が揃っていた。並みの軍馬ではない。伯爵や騎士たちが大金をかけた最上級の馬たちである。
馬房から首を伸ばした馬たちは、夜更けに挙動不審な動きをしているイオアンを興味深そうに覗き込んだり、鼻を鳴らしたりしている。美しい馬たちだが、イオアンにはとても乗りこなせるようには思えなかった。
先を急ぐと〈塔〉の北側に出た。
厨房の裏側にあたり、井戸があり、食糧庫があった。
ここにブッケルムがいる馬小屋がある。
足音を聞きつけたのか、手前の馬房からククルビタという馬が顔を出していた。人懐っこい馬で、市場への買い物などで使用人が使っている。
イオアンは鼻づらに手を近づけてククルビタに挨拶すると、奥の馬房へ進んだ。覗き込むと真っ暗で、何かいるようには見えない。
暗がりに目が慣れるのを待つ。
やがて、ブッケルムの黒い輪郭が見えてきた。
いちばん奥にいる。
だが動かない。
イオアンは胸が苦しくなってきた。
果たして、ブッケルムは生きているのだろうか――?
ブッケルムは藁の上で寝そべっているように見える。
仔馬のときならともかく、普通の馬なら警戒して横になって寝ないものだ。だが、ブッケルムは仔馬の頃からずっとそうだった。
鈍感なのか、腹いっぱいに飼葉を食べると、いつもだらしなく寝そべっていた。あの頃は太り気味なぐらいだった。
いつもなら、イオアンはさっさと横木を持ち上げて馬房に入り、ブッケルムと話し始めるのだが、今夜は違った。
この横木をくぐったら、もう二度とあの頃には戻れない――。
そんな決定的な一線を越えてしまうような気がした。
イオアンは重苦しい気分で、横木に手をかけ、じっと奥を覗き込んだ。
目頭が熱くなってきた。
いつもそうだ。
ブッケルムの前だと自然に涙がこぼれてしまうのだ。
他の馬ではそんなことは起きない。
もちろん家臣や使用人たちの前でも、イオアンが涙を見せることはない。
どんなに辛く、悲しい気持ちだったとしても。
それがブッケルムと一緒だと、なぜかイオアンの心は無防備になり、気持ちをさらけ出してしまうのだった。
だが、それも今夜で終わりかもしれない。
感傷的な気分に浸っていると、ブッケルムが体を起こし、近づいてきた。
ああ良かった。まだ生きていた。
たぶん寝ていなかったのだ。わざと寝ている振りをしていたのだろう。
とても賢い馬だから。
ブッケルムが馬房からゆっくりと頭を出し、イオアンに顔を近づけた。
小さな馬で威圧感はない。
イオアンはブッケルムの首筋を優しく撫でた。
悲しくなるほどに肉が落ちている。
イオアンは横木を持ち上げ、馬房の中に入った。
馬房には昼間の熱気がまだ籠っている。藁の匂い、ブッケルムの汗の臭い。隅を見ると水桶の水は減っていた。
だが、飼葉桶の中身も乾草も朝と同じだ。ほとんど減っていない。
「どうして食べない?」
イオアンが訴えかけるように尋ねた。
「死んでしまうぞ? まさか誰かから呪いでもかけられているのか?」




