第19話 牢獄塔
置き去りにされた!
という恐怖が、一瞬エルの頭をよぎった。
だが、すぐに逃げるチャンスだと気づき、膝立ちになって歩こうとした。
ところが背中に回された腕を縛ってる紐は、体の下を通って足に結び付けられていたらしく、エルはすぐに前のめりに水浸しの床に倒れてしまった。
屈辱的だった。
もがいてみたが、どうすることもできない。
しばらくするとブーツの足音が聞こえ、エルの前で止まった。
たぶん、あのドワーフだ。
俺の無様な姿を見下ろし、笑っていることだろう。
だがバルバドスは、エルの体を胡坐の姿勢に黙って戻すと、無表情にエルの様子を観察しただけだった。
ずっとバルバドスが無言なので、エルの胃は不安で締め付けられた。
このあと俺はどうなるんだ?
さきほどの〈首なし騎士団〉への忠誠心も、少しずつ恐怖によって薄らいでいきそうな予感がした。エルは自分でも、瞬間的には強がってみせたとしても、長期的な持久戦には弱い性格だと自覚している。
バルバドスが振り返った。
「そんなところに隠れてないで、見てくれよ」
ぶら下げられた肉塊の陰から、ローブ姿のイオアンがすっと姿を現した。片手で口と鼻を押さえ、顔をしかめている。
「酷いところだな」
「ここにしろとイオアン様が指示したんだろ」
「私は提案しただけだ。ここなら誰にも気づかれないと思ったんだ」
「それよりこいつを見てくれ。見覚えがないか」
「なんで、びしょ濡れなんだ」
「顔を洗ってやろうとしたら、こいつが水桶をひっくり返したんだ。たぶん不器用な奴なんだろう。かわいそうに」
イオアンは嫌悪に顔を歪めたまま、目を見開いている少年に目を向けた。
エルは驚いていた。バルバドスがイオアンの手下だと理解していたが、まさか、こんなにすぐ現れるとは思っていなかった。
この若者には顔を見られたはず。
最初はヤヌス像の上から、二度目は書物商のところだ。
だから、若者を知らなかったというのは嘘になる。いや違う。俺が出会ったのは、あのニナという女の子のところが初めてだったし――。
次の尋問に備えて、エルが必死に言い訳を考えているあいだに、イオアンは興味が無さそうに顔を背けた。
まるで、野良犬を見ているかのようだった。
「知らないな」
「ちゃんと確認してくれよ。狙われてたかもしれないんだぞ」
「そんなわけないだろう。市民で私を知っている者などいるはずない」
とイオアンは自嘲気味に否定した。
「だいたい、どうしてお前がイグマスにいるんだ。南大陸じゃなかったのか。まさか、戦地から逃げ出してきたんじゃないだろうな」
「そんなわけあるか」
とバルバドスがムッとした表情で言い返した。
「助けてくれた恩人に酷い言いようだな。休暇で一時的に戻ってきて市場を覗いていただけだ。あれ、見たことがあるような誰かさんがいるぞと思って眺めていたら、ぼんやりしてたその誰かさんが、こいつに擦られていたんだよ」
「ぼんやりしてたわけじゃない。気分が悪かったんだ」
「熱気にやられたか?」
「分からない。芝居を見ていたら幻視のようなものが見えたんだ。それで悪寒がしてきた。いまだって早く帰りたい」
「じゃあ、こいつはもう放してもいいんだな?」
「駄目だ。牢獄塔に連れていってくれ」
「牢獄塔だと!?」
「知ってるだろ。それとも場所を忘れたか」
「そうじゃない。こいつはただのちんけな盗賊だ。牢獄塔なんて大袈裟だろ。金は取り返したんだ。もういいじゃないか」
「いや、この少年には利用価値があるかもしれない」
そう答えるとイオアンは、エルには聞こえない小声で、バルバドスと話し始めた。
いっぽうのエルは愕然としていた。
牢獄塔だって!?
エルがイグマスを訪れたのは初めてだったが、イグマスの牢獄塔の悪名は聞いたことがあった。酒場での雑談の肴になる格好の話題だったのだ。いわゆる一度入ったら二度と出られないとか、脱獄に成功した者はいないとかの類である。
酒場で仕込んだ噂を、カルハースに話したら、
そういう下らない話を信じるんじゃない。たとえ、お前みたいな掏摸が捕まったところで、すぐに出されて処罰されるだけだろう。あそこに幽閉されるのは、禁忌を犯した魔術師とか、高い身分の政治犯のような者だけだからな、
と教えられた。
今朝エルたちが、イグマスの旧市街に入ったときも、真っ黒な塔が建っているのが遠くから見えた。このあたりは大理石の名産地なので白っぽい建物が多いのだが、牢獄塔だけが不吉に黒光りしていた。
そのときは、
(ああ、あれが噂の牢獄塔かあ)
などとエルは、見物客のように呑気な気分で眺めていたのである。
その牢獄塔に、まさか自分が!?
エルは信じられない思いでイオアンたちを眺めた。
ぼそぼそと聞き取りにくい声で話している。エルは顔のまわりで飛び回る蠅たちの羽音が煩わしかった。
いっぽうのイオアンは、エルを牢獄塔に収監する理由について語っていた。
「〈暁の盗賊団〉を知っているか?」
「いや、詳しくは知らんな」とバルバドスは首を振った。
「お前が南大陸に渡っているあいだに、イグマスで名前を売るようになってきた者たちだ。貧しい市民のあいだで絶大な人気がある」
「義賊のような連中か?」
「そんなところもあるが、盗んだ金をばらまくわけじゃない。彼らはイグマスの城壁に落書をするんだ。いついつに盗みに入ると。場所は指定しない。それで予告した日の夜に、イグマスのどこかの貴族や騎士、金持ちの豪商やギルドの親方の屋敷に押し入って、特別な何かを盗み出すんだ」
「特別な何かってなんだ?」
「決まったものはない。一族に伝わる伝説の剣とか、人には知られたくないような過去の恋文とか、ギルドが隠し持っている技術書とか、そういう金には代えられない特別なものを盗み出して、それを市民に公開する」
「ほう。そりゃ市民が喜びそうだな」
「ああ。彼らの活躍に拍手喝采しているが、総督府としてみれば面子が丸潰れだ。内務長官のギイス伯爵が中心になって調べているが、一向に捕まる気配がない。手がかりさえ何ひとつ掴んでいないんだ。唯一の情報は、盗賊団の首領が若い女らしいということだけだが、これも本当かどうか疑わしいところだ」
「それで、あの小僧を牢獄塔に入れるつもりかよ」
バルバドスは、呆然としているエルにちらりと目をやった。
「あいつが、そんな凄腕の盗賊団の一員だと思うか? ちょっと買いかぶり過ぎだ。イオアン様は裏社会に詳しくないからそう思うんだろうが、あれぐらいの腕をもった掏摸ならごろごろいる」
「私だってあの少年が〈暁の盗賊団〉だとは思っていない。だが、何か手がかりに繋がることを知っているかもしれないだろ。伯爵の下で働いているアルケタが振り回されているんだ。何か手助けをしたい。知らなければ解放すればいいだけだ」
アルケタ?
聞き耳を立てていたエルが反応した。
アルケタって、数年前の戦いのときの英雄かよ。
でも、あの若者はセウ家のペンダントを首に掛けていた。アルケタと繋がりがあってもおかしくないのか?
エルは全身を耳にして、イオアンたちの会話を掴もうとした。
「時間の無駄だと思うぞ」
エルに背を向けているバルバドスが肩を竦めた。
「盗賊たちは口が固い。秘密を洩らせば仲間に殺されるんだからな。それに牢獄塔に入ってりゃ、寝床があって飯はつくんだ。口は割らないさ」
「必ず割るさ」
と断言したイオアンが冷たい視線を向けてきたので、エルは慌てて目を伏せた。
「今回は、処刑人が呼ばれてるんだ」
「処刑人? 嘘だろ」
「それだけギイス伯爵が必死だということだ。何年も調査に進展がなく、盗賊たちの名声は高まるばかりだ。それでギルドに要請したのだろう」
「ちょっとやり過ぎだと思うがな」
「あの少年が素直にすべて話せば、痛めつけられることはない」
「そうかもしれんがなあ……」
「私は屋敷に戻る。時間が惜しい」
「何を急いでるんだ。イオアン様も休みじゃないのか」
「友人との残り時間を大切にしたい」
「イオアン様に友人?」
バルバドスが意外そうに眉を上げてみせたが、イオアンは何も言わずに背を向け、天幕の入口へ向かおうとしている。
処刑人ギルドという言葉に、エルの体は震えていた。
旅先で彼らの姿を目にしたことがあった。
エル自身、鞭打ちの刑を受けたことがあったし、焼けた鉄の刻印を額に押しつけたり、耳を削ぐのも見たことがある。
絞首刑、斬首刑、車裂きの刑、火刑が実施されるときには、必ずそのそばに、黒より黒い煤色の服を着た処刑人の姿があった。
処刑人ギルドが恐ろしいのはそれだけではない。
彼らは権力者と結びつき、偉大なる帝国の安寧を維持するためと称して、その技術を犯罪者だけではなく、権力に楯突いた者にも適用してきたのだった。
そんな処刑人に拷問されたら、俺は絶対に無理だ――。
「……牢獄塔はやめてくれよ」
恐慌状態に陥ったエルは、イオアンに向かって叫んだ。
「俺は盗賊なんかじゃない。〈首なし騎士団〉のメンバーなんだ!」




