第13話 人形劇2
嘘だろ?
エルは悪い予感がした。
まさか、いま、ここで倒れたりしないよな?
下手をすると俺が擦ってるのが、ここにいる観客にばれちゃうぞ。
若者の体の震えは次第に大きくなっていき、
おいおい――、
とエルが不安を募らせていると、舞台から金属音が響きわたり、続いて、
「ぎゃあああ」
という弟の大袈裟な断末魔が聞こえてきた。
ここしかない!
と決断したエルが、握りしめた拳を鞄から引き抜くと、今度は左隣から、
「きゃあああ」
という金切り声が聞こえた。
ぎょっとしたエルが顔をそちらへ向けると、舞台を見ていた町娘がヒステリーを起こしたようだった。
おいおいおい、勘弁してくれよ――。
とエルは思ったが、地面に倒れかけた娘を、あわやというところで石工の太い腕が支え、しばらくすると若い町娘は落ち着きを取り戻した。
あたりは騒然とした。舞台は中断しており、会場の観客の視線は町娘に集まっていて、そばにいるエルも下手に動けなかった。
本当は一刻も早く握り拳を開いて、手にしたのが金貨なのか、銀貨なのか、銅貨なのかを確かめたかった。だが、いまにも汗で滑り落ちてしまいそうな気がしたので、エルは右手をそっとポケットの中に隠した。
エルはちらりと若者の顔を見上げた。
死人のような顔色になっている。
まさか、こいつまでここで倒れるんじゃないだろうな?
俺は一刻も早くここから離れて、あの子のところに行って、それから仲間のもとに戻らなきゃならない。
なのに、なんで芝居が再開しないんだよ!
しばらくすると、
「お前の弟はどこにいるのだ?」
厳めしい老人の声が聞こえて、芝居が始まり、観客の注意が舞台に戻った。
「私は弟の番人でしょうか」
震える声で、知らない振りをする兄の台詞を聞きながら、エルは若者の表情を注視していた。人形劇のせいで激しく動揺しているようだった。
たかが芝居じゃん?
そうエルは不思議に思っていた。
ただの暇つぶし。怖いもの見たさだよ。昔から残酷な物語ばかりじゃないか。
それに、あれは人形なんだ。
この人は、お話と現実すら区別もつかないのかな?
エルはちょっと不憫に思いながら若者に背を向けた。舞台からは、神が兄を断罪する台詞が聞こえてくる。
「何ということをしたのか!」
ドン!と、杖で舞台を叩く大きな音が聞こえた。
「お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでおる。いまや、お前は呪われる者となったのだ。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりも、なお呪われておる。土を耕したとて、もはや豊かに麦が実ることはない。お前は地上を彷徨い続ける者となるであろう!」
肩で観客を押しのけて、舞台から離れようとするエルの耳に、神の告発が響く。
だが、エルは糞くらえと思っていた。
追放されるぐらいなら、こっちのほうから故郷を捨ててやるぜ――。
ようやく観客の輪から抜け出すと、エルは静かに息を吐き、舞台を振り返った。
へっ、神の天罰を受ける前に、ずらかることができそうだ。
エルは自然な速度を意識しながら、市場の人混みへと戻っていった。
兄の悲痛な声が背後から微かに聞こえてきた。
「そのような罪は重すぎて、私には負いきれません」
この台詞がエルの胸に突き刺さる。
※ ※ ※
市場の目立たない片隅で、エルは右手をポケットから出し、拳を開いてみた。
掌には三枚の金貨があった。
金貨が三枚――!
しばらくエルは何も考えらなかった。
信じられない思いでエルは金貨を眺めていたが、齧って本物か確かめようとは思わない。そんなことをしたら消えてなくなりそうな気がした。
ハッと気がついたエルは、慌てて掌を閉じ、ポケットの中に突っ込んだ。
視線を感じたような気がしたのだ。
大勢の人間がいる市場だ。誰が見ているか分からない。
ポケットの中で固く握りしめていても、指の隙間から、金色の光が漏れ出していそうで怖かった。
エルは歩き始めた。
急いで、あの物乞いの少女のところへ行こう。
この金貨が消えてしまわないうちに。
しばらく歩いているうちに、不安よりも嬉しさのほうが強くなってきた。
思わずにやけてしまう。
金貨三枚なんて、どれだけの物が買えるんだろう!
できることなら、市場の真ん中で大声で叫んで踊りたい気分だった。
ヤヌスに願いが通じたんだ。
とうとう俺の運命が好転しはじめるんじゃないか?
でも欲張っちゃ駄目だぞ。
隠れ家に帰ったら、金貨の一枚はカルハースに渡そう。
もう一枚は俺が取っておいてもいいだろう。
そしてもう一枚は、これからあの物乞いの少女に渡すんだ。
俺が金貨をあげたりしたら、あの子はいったいどんな顔をするんだろう――?
思わず緩む表情を買い物客に悟られないように、エルは下を向いて歩いた。ヤヌスの彫像のそばの同じ場所に、まだ少女は座っていた。少女の前に立つと、しばらくエルは彼女を見下ろしていた。前と同じように目を閉じて、祈りの言葉を捧げている。穏やかな幸せそうな表情だった。
音を立てないように息を吐くと、エルは囁くように声をかけた。
「あのさ……」
少女が目を開いた。
エルを見て、ちょっと驚いたようだった。
だが、哀しい眼差しではなく、非難しているようでもなかった。穏やかな表情でエルの次の言葉を待っている。
「……君に訊きたいことがあるんだ」
そう言ってからエルは、姉妹たちのことをどう説明しようか迷った。
もしかしたら、自分が南大陸にいた頃から話したほうがいいのかもしれない。
エルは頭の中で考えてみた。
たぶんそれは、長い話になりそうだった。
待ち合わせに遅れるかもしれない。
でも、仲間は少しくらいなら待ってくれるかもしれない。
エルはどっちでも良かった。いまはとにかく、この子に自分が経験したことを聞いて欲しかった。こんな機会は二度とないような気がしたから。
※ ※ ※
エルは話を終えた。
思っていた以上に長くなってしまった。
まるで胸の中が空っぽになったような気がする。
それは決して悪いものではなく、思いっきり涙を流した後のような、静かで落ち着いた気分だった。
ただ、初めて打ち明けたので気恥ずかしかった。
しかし目の前の少女は、相変わらず穏やかな表情で自分を見つめている。
彼女が質問したのは数回だけだったが、自分の話を聞いてくれているのは分かった。ちゃんと誰かに聞いてもらえた満足感があった。
「ごめん長くなっちゃった。とにかく、君には感謝してる。誰にも話せなかったことを言えたからさ。これで気分よくイグマスを離れられる。うん、みんなが俺を待ってるはずだよ。」
エルは青空を見上げた。
さすがに市場を離れないとまずい。
「もう取引は終わってると思う。帰り道は結構あるからね、早く帰らないと日が暮れちゃう。俺たちの隠れ家は山の中にあるから……」
エルが言い終わらないうちに、少女が目を瞠った。
だが、彼女の視線はエルではなく、その背後に注がれている。不審に思ったエルは振り返ろうとしたが、それは叶わなかった。
エルの背後から、さっと回された毛深くて太い腕が、エルの喉を締め上げた。しばらくするとエルは意識を失った。三枚の金貨が掌から滑り落ち、チャリンと音を立てた。太い腕が放されると、エルはどさりと地面に崩れ落ちた。
派手な皮鎧を着たドワーフが、三枚の金貨を拾い上げた。
「バルバドスさん!」と驚いた少女が叫ぶ。
ドワーフは金貨を革袋にしまい込むと、
「誰かさんに付きまとうような悪い子は、お尻を叩いて、お仕置きをしなくちゃな」
と言って、にやりと少女に笑いかけた。
気絶しているエルの体を、ドワーフは軽々と持ち上げ、肩に担いだ。
少女に軽く頷いてみせる。
ドワーフは背を向けると、市場の雑踏の中に消えていった。




