第1話 友人
馬が死にかけていた。
イオアンは何とかして助けたかった。
だが、これ以上は、手の施しようがないとも感じていた。
それに、いま手を差し伸べれば、父上の激しい怒りを買うだろう。おそらくブッケルムを憎んでいるだろうから。
だからもう、私は二度と関わらないほうがいいのだ――。
そう言い聞かせたイオアンは、この一週間、ブッケルムに会うのを避けていた。
しかし、愛馬のことを思うと、気持ちは日に日に苦しくるのだった。
数か月前から、ほとんど食事をとらず、水だけで生きている。
おそらく今頃あいつは、壁に囲まれた狭い場所で、暗闇の中でも起きて私を待っていることだろう――。
その痩せこけた体を想像し、イオアンは悩ましげに呟いた。
あれは魔法の力なのだろうか?
あんな状態で、この世に存在し続けられるものなのか?
私には分からない。
確かに分かっていることは、ブッケルムがいなくなれば、この残酷な世界で、私はひとりぼっちになってしまうということだけだ――。
イオアンはベッドで溜息をついた。
救いを求めるように書架に手を伸ばすと、一冊の本を掴んだ。いつものように物語の中の世界に逃げ込もうとする。
革で装丁された小さな本。
悪い竜に囚われた美しい姫を、勇敢な騎士が救い出す物語。
イオアンは本を開いた。
色褪せたページはぼろぼろだった。
弟のアルケタにせがまれて、何度も何度も読み聞かせたせいだ。
まだ幼かったアルケタは騎士の活躍に夢中だったが、いつもイオアンは不思議に思っていたものだ。
どうして、竜は姫なんか欲しがったんだろう?
子供なんてできないのに。宝石の代わりみたいなものだろうか?
そういう世界の不可思議さについて、弟とはいろいろ語り合ったものだが、そのアルケタも大人になり、いまでは任務が忙しくて滅多に会えない。
相談相手になってくれていた護衛のバルバドスも、数年前から軍団に入り、南大陸で戦っている――。
夜の静寂を破るように、遠くから鐘の音が聞こえた。
宮殿前広場の寺院の鐘だ。
いまは第三夜警時(午前1時)ぐらいだろう。
もう真夜中も過ぎている。
見張りの兵士以外、屋敷のほとんどの者は寝ているはずだ。
気持ちが落ち着かないイオアンは、ページの文字が目に入らなかった。
もう何百回と読んできた場面だ。
囚われた姫の運命など、いまさらどうでもいい。
集中できもしないのに、私だけが本を開いて、蝋燭の無駄遣いをしている。
諦めたイオアンは、パタンと本を閉じた。
いつもならブッケルムに会って、話している時間だ。
どんなに苦しい思いをしているだろうか。ああ、かわいそうに――。
いや、駄目だ!
とイオアンは自分に命じる。
安っぽい同情に惑わされてはならない!
こそこそと真夜中に人目を忍んで馬に会いに行くなど、誇り高き伯爵家の嫡男がすべき行動ではないのだから。
それに、私はもう決めたんだ。
セウ家の次期当主としてふさわしい男になるのだと。
たとえそれが、長く孤独な道のりになるのだとしても――。
この三日間、何度も自分に言い聞かせた言葉を繰り返すと、イオアンは首に掛けたペンダントを手に取り、じっと見つめた。
十二の宝石が円を描くように配置され、その中心には獅子の金細工が、いまにも獲物に襲いかかるようにして立っていた。この美しいペンダントは、揺らめく蝋燭の明かりを受けて、イオアンの掌の上で妖しげに光っている。
この金の首飾りは、伯爵である父親のオウグウスから、イオアンが子供の頃に与えられたものである。
数百年前に作られたという極めて古いもので、あまりに強大な魔力をもつことから本来の名前で呼ぶことが憚られているうちに、いつしかその名前は忘れられてしまい、いまではただの〈綺麗な首飾り〉と呼ばれている。
この首飾りこそ、イオアンが正当なセウ家の爵位継承者である証しなのだった。
〈綺麗な首飾り〉はずしりと重い。
イオアンは体を清めるときも、就寝するときも、肌身離さず身につけている。
胸を圧迫するような重さこそが、そして、セウ家の嫡男であるという事実だけが、この世に存在する理由をイオアンに与えてくれた。
セウ家は帝国でも名門中の名門である。
伯爵が率いるセウ家の騎士たちは、その武名を高らかに世に響かせ、主家であるタタリオン家の中核としてなくてはならない存在だった。
それにも関わらず――、
そのセウ家の次期当主であるにも関わらず、イオアンは病弱だった。
子供の頃は寝たきりだった。ようやく外に出られるようになったのが十代の後半で、二十三歳になったいまでも激しい運動は控えている。
イオアンはいつも自嘲していたものだ。
剣を振ることもできずに、どうやって軍を率いろというのだ?
だが、体が弱いだけならいい。
それに加えてイオアンは精神的にも不安定で、何かあれば発作を起こした。この自分の力ではいかんともしがたい体質が、彼を苦しめるのだった。
騎士の家に生まれながら些細なことで怯え、心臓が止まりそうになる。
白亜宮に出仕すれば、緊張で顔が強張ってしまう。
口は乾き、言葉は喉の奥で詰まる。
だから一日を終えると、ぐったりと疲労する。
簡単な公務を終えて屋敷に帰ると、部屋でひとりきりで食事をした。
夜が更けるまで読書をして過ごした。この屋敷でただひとりの友人であるブッケルムと話せる時間を待つために――。
しかし、それも、もう終わるのだ。
イオアンは元気だったころのブッケルムが忘れられない。
屋敷に来た頃は、本当に可愛かった。
それが、いまでは見る影もないほどに変わってしまった。
まもなく父上は遠征に出発する。
ブッケルムのことを話せるとしたら、あと数日しかない。
このまま何も伝えなければ、父が南大陸から帰還したころには、おそらくブッケルムはこの世に存在していないだろう。
本当にそれでいいのか?
たとえブッケルムと別れることになっても、あいつを苦しみから解放してやるのが、自分の役目ではないのか?
イオアンは考えがまとまらないまま、のろのろとベッドから出た。椅子の背に掛けたローブを頭から被る。鬱金で染めた黄土色のローブで、色が褪せている。
同じようなローブを何着も持っていた。
イオアンほどの身分の者ならもっと上質な服を着れるのだが、そういう今どきの若者のような洒落た服は嫌いだった。
嘘をついているような、自分ではないような気分になってしまう。
だからイオアンは、他人からどれほど奇異に思われようとも、できる限り修道僧のような質素な格好をしていた。
重苦しい気分でイオアンは扉に手をかけた。
今夜、ブッケルムに会いに行くということは、さよならを告げるということだ。
あいつの顔を見たら、何もしないということは無理だろう。
私は最終的な決断を下すことになる。
そう、会うのは今夜までだ。
今夜こそ終わりにしよう。お互いのために――。
心の中でそう固く誓うと、イオアンは音を立てないように部屋の扉を開いた。




